第30話 空に叫ぶ
瀬能さんの家の近くで待っていると、後ろから黒い軽自動車がやってきた。
運転席の窓がサーっと開く。
「森本さん!」
「辻星くん。よかった。この辺だよね」
「あそこです」
車から降りてきた森本さんは、俺の指さした先の木造アパートを見て顔をしかめた。
「あそこ、か」
「はい。二階の奥の部屋です」
俺たちは走ってアパートの前まで向かい、階段の前で立ち止まる。
「響子が、ここに……本当に私があっても大丈夫だろうか」
森本さんは昨日のことを思い出したのだと思う。
瀬能さんから振り払われた手をじっと見つめている。
「大丈夫です。娘さんを信じましょう」
俺がそう声をかけると、森本さんは小さくうなずいた。
「そうだね。それは父親の最大の役目だよね」
二人で顔を見合わせてから足を踏み出す。
ぎいぎいと、さびている階段が悲鳴を上げた。
……やばいな、ここ。
遠目からしか見たことがなかったが、近くで見るとよりぼろさが目につく。
廊下はカビなのかなんなのかわからない汚れでいっぱいだし、ひび割れから雑草も生えている。
「じゃあ、押しますね」
俺が呼び鈴を鳴らすと、ブー、という簡素な音が扉の内側から聞こえてきた。
中からドンドンという足音が聞こえる。
扉が少しだけ開き、錆びたチェーンがピンと張った。
その隙間から見えた女性は、病的なまでに目が虚ろだった。
隣の森本さんが目を見開く。
「……真澄」
「いますぐ帰って」
俺と森本さんはその女性から睨みつけられる。
「あなた、ストーカーにまで落ちぶれたの? 隠れて私の子供と会うなんて、ふざけないで」
「真澄。一旦落ち着いて」
「ふざけてるのはどっちだ!」
森本さんの声を遮って、俺は叫んでいた。
この女からは、俺の最低な父親と同じ臭いがする。
交じり合った後の男女から漂ってくる異臭だ。
わずかしか感じないのは、時間が経っているからだろうか?
別の場所でやったからだろうか?
「養育費をちょろまかして、あんたは最低の母親だ」
脳が熱い。
この女が瀬能さんにうそを教えたのだと、いまはっきり確信した。
素敵なお母さんだと、信じていたのに。
「ちょっと、辻星くん。落ち着いて」
「あなたみたいな子供になにがわかるって言うの」
森本さんの言葉が終わらないうちに、瀬能さんの母親が遮るように声を出す。
その開き直ったような態度を見て、怒りが頂点に達した。
「俺はあんたと話したいんじゃない! 瀬能さんと話しに来たんだ!」
「男なんか信用できるわけないでしょ。ふざけないで。会わせるわけないでしょ」
「いいから瀬能さんと話させろ!」
俺がそう喚いた時だった。
「もういいの!」
中から瀬能さんの声が聞こえた。
「私のことは、もういいから」
…………え?
言われた言葉を脳内で反芻した瞬間、足ががくがくと震え始める。
瀬能さん、いま、もういいって言った?
「瀬能、さん……?」
体中の力が抜けていくようだった。
恐るおそる、開いているドアの隙間から中を覗く。
瀬能さんのお母さんの後ろに、黒のジャージを着た瀬能さんがいた。
「私はあんたらなんかと関わりたくないんだ! 私の近くに寄るな! 嫌いなんだよ全部が!」
彼女の言葉が体に突き刺さる。
え?
嫌い?
関わりたく、ない?
そう拒絶され、俺の中から、瀬能さんとの思い出がふしゅりふしゅりと抜け落ちていく。
「二度と私の前に現れるな! 大嫌いなんだよ!」
瀬能さんは母親の肩越しに顔を出して、俺に鋭い視線を向けてくる。
体に力が入らない。
瀬能さんの言葉によって空けられた穴から、今度はドロドロしたものが流れ落ちていく感覚があった。
――どうして、もういいなんて言うんだよ。
「あんたらと一緒にいると……ムカつくんだよ! 二度と姿を見せるな!」
「なんでだよ!」
気がつけば、俺は怒鳴っていた。
「俺は瀬能さんのためにいままでやってきただろ! なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ!」
違う。
俺はそんなことが言いたいんじゃない。
嫌われた現実を受け止められなくて逆切れするなんて、最低だってわかっている。
「私は頼んでない! 大きなお世話なんだよ!」
「ふざけんな!」
「ふざけてない! 私はあんたらと金輪際関わりたくないんだよ!」
「ああそうかよ! 俺だって!」
「辻星くん」
森本さんが俺の腕を掴んでくれたことで、はっと我に返る。
森本さんは苦々しい笑みを浮かべながら、ただ首を横に振っていた。
「もう、帰ろう」
「…………あ」
俺は、俺がしてしまった過ちにようやく気がついた。
瀬能さんに身勝手な怒りをぶつけるなんて、人間として最低過ぎる。
「せの、うさん」
後の祭りだとわかっていて、だけどそこにある現実を直視しなければいけないと、顔をゆっくり動かす。
瀬能さんは、ぽろぽろと泣いていた。
「さよなら!」
瀬能さんはそう叫んで扉をバタンと閉めた。
「待って、瀬能さん」
閉まってから手を伸ばしても意味はないのに。
ドアに伸ばしていた腕は森本さんに下ろされる。
「もう、いいんだよ。辻星くん。もういいんだ」
森本さんは、暴走してしまった俺を責めなかった。
森本さんからも、もういいって言われてしまった。
「もういいなんて、そんなこと言わないでくださいよ。だって森本さんは、娘が、娘から」
「辻星くん。私は、本当にもういいんだよ」
「でも、俺のせいで……、俺が」
「響子が選んだんだ」
「森本さんだってせっかく娘と」
「だから、もういいんだよ」
森本さんは叫んだわけではない。
表情を変えたわけでもない。
「これ以上は、もう……本当にいいんだ」
だけど俺には叫んだように聞こえた。
もうなにも言わないでくれと、突き放されているようにも感じた。
「私たち家族のせいで、君が傷つくのだって、私は見たくない」
「…………すみません」
どうしようもなく泣きたかった。
森本さんを救えなかった。
瀬能さんを救えなかった。
嫌われた。
暴言を吐いてしまった。
「さぁ、もう帰ろうか」
「……はい」
俺と森本さんは、そのまま瀬能さんの家から離れていく。
「でも、本当にありがとう。私のために、いろいろと動いてくれて」
ありがとうなんて言わないでくれよ。
「よかった。駐禁切られてないね」
冗談で場を和ませようとするな。
「乗っていくかい? 家まで送るよ」
「大丈夫です。歩いて帰ります」
森本さんだって傷ついているはずなのに、俺にばっかり気を遣うな。
本当は森本さんが一番傷ついているはずなのに、優しくするな。
「そうか。わかった。じゃあ気をつけて」
「はい」
森本さんの車が去っていく。
俺はそれを茫然と見送ってから、鈍色の空に向かって叫んだ。
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