第29話 ふざけんな

「遅いなぁ、瀬能さん」


 曇り空の下、屋上で、俺はいつものように瀬能さんを待っていた。


 もうすぐ俺が学校生活で最大の楽しみとしている瀬能さんとの穏やかなランチタイム! なのだが、今日はそれだけではない。


 ――もう一度、お父さんに会ってほしい。


 その気持ちを瀬能さんに伝えなければいけない。


 昨日、瀬能さんはお父さんから逃げた。


 それによって森本さんがショックを受けたのと同じように、瀬能さんも自分の行為に怒り、後悔し、ショックを受けていると思う。


 そうでなければ、逃げ出す瞬間に「ごめんなさい」なんて言葉は出てこない。


 走り去っていく背中からは苛立ちがにじみ出ていた。


 もちろん昼休みまで待たずに、授業間の十分休憩で会いに行く選択肢もあったが、まとまった時間が必要だろうと思い遠慮しておいた。


 話が途中のまま授業に突入したら集中できないだろうし、決着がついてないが故にさらに悩ませることにもなるだろう。


 にしても。


「こんな授業長引くかぁ……?」


 昼休みが始まってからもう十分も経っている。


 瀬能さんが五分以上遅れることなんて、これまで一度もなかった。


「……迎え、行ってみるか」


 腹の奥底から湧き上がってくる、ちくちくとした嫌な予感。


 そもそも昨日あんなことがあったのに、今日普通に瀬能さんが屋上へやってくると思っていることが、普通ではなかったのかもしれない。


「そうだよ。なにやってるんだよ」


 自分の想像力のなさに幻滅する。


 階段を駆け下りながら考えるのは、待つだけが最善策だと考えていた、さっきまでの自分の幼稚さ。


 瀬能さんのために昼休みまで待った、なんて理由はきっと建前だ。


 なにが瀬能さんにとっての最適解かわからなくて、瀬能さんに会うという行為が億劫だったのだ。


 授業だって、話が終わらないなら最悪サボってしまってもよかった。


 バカになりきれていなかった。


「……ここ、だよな」


 瀬能さんのクラス、一年六組に到着する。


 違うフロアにあるせいか、見覚えのない生徒たちがたくさんいた。


 瀬能さんはいない。


 とりあえず、入り口付近に屯していた男子三人組に声をかけてみる。


「あの、瀬能さんは……?」

「瀬能?」


 ツーブロックが首を捻りながら、スポーツ刈り、茶髪を見る。


 しばらく三人の頭にはクエスチョンマークが浮かんでいた。


「ああ、あの【オトコオンナ】か」


 急にスポーツ刈りが手をポンと叩いた。


「ああ、瀬能ってあいつのことか」

「そういや、【オトコオンナ】の名字ってそんなだったな」


 ツーブロックと茶髪も、ニヤニヤとバカにするような笑みを浮かべている。


「オトコ、オンナ……」


 胸に風穴があいたかのようだった。


 瀬能さんが、クラスでそんなあだなで呼ばれていたなんて。


 知らなかった。


 その可能性を考えもしなかった。


 俺が前までクラスではオンナオトコと呼ばれていたというのに!


「あの、【キチガイ】なら今日は休みだよ」


 笑いを堪えもせずに、スポーツ刈りが言う。


【キチガイ】なんて最低なあだ名もあったのか。


「……休み」

「そうそう。ってか【キチガイ】のこと探してるって、まさかお前があの【キチマニ】か?」

「キチ、マニ?」


 スポーツ刈りに聞き返したのに、ツーブロックが口を挟む。


「なるほど。お前が噂の【元オンナオトコ】、【現キチガイマニア】か」


 茶髪がケラケラと笑いながらつづく。


 なるほど、キチガイマニアの略ね。


「クラス中の注目株だよ。意味不カップルってな」


 俺は、瀬能さんのクラスでは【キチガイマニア】なんて呼ばれていた。


 瀬能さんはこれを知っていたのだろうか?


 そういえば、やたらと俺をクラスから遠ざけていたような……。


「たしかに、男が女になって男になった女に恋して、女が男になって女になった男に恋する。まじややこしやー、ややこしやー」


 テレビに出ている狂言師の真似をしながら茶髪が言う。


 それを見て他の二人はげらげら笑っている。


「そういう、ことか」


 バカにされているのに、俺の心を支配している感情はこいつらに対する怒りではない。


 辻星彰という人間に対する憤りだ。


「ま、でもお前は無事男に戻ったから、まだ踏み止まった方だよ。【キチガイマニア】」


 瀬能さんはクラス内で、【オトコオンナ】や【キチガイ】と揶揄されていた。


 俺は【キチガイマニア】とバカにされていた。


「あの【オトコオンナ】と関わるのはもうやめとけ。あいつ頭いかれちゃってるから」


 瀬能さんは、それを俺に言わなかった。


「あんなやつと関わりつづけると、ろくなことにならねぇぞ」


 瀬能さんはずっと一人で傷ついて、一人で悩んできたのかもしれない。


「そうそう。ぜってーあの【オトコオンナ】、将来、新宿二丁目で働いてるぜ」


 俺は瀬能さんの育ってきた環境を知った程度で、なんでも知っているつもりになっていた。


「おいおい、新宿二丁目はオカマの行きつとこだろ? 【オトコオンナ】は逆だから……あいつ行く場所なくね?」


 学校で一番話している異性になれたことにあぐらをかいて、父親である森本さんに認められたことに有頂天になって、いまの瀬能さんを理解しようとする気持ちに欠けていた。


 瀬能さんは、俺以外の前では自分の芯を貫く強い存在でありつづけていると思い込んでしまった。


「あれ、ってことはあいつ、ホームレスで孤独死確定ですか? お先真っ暗じゃねーか」

「そんな人生まじごめんだわ」


 本当は、いつだって瀬能さんは傷ついていた。


 一人で、誹謗中傷に耐えていた。


 瀬能さんに寄り添って生きていると思っていたのは、ただの俺の幻想だったのだ。


「…………ざけんな」

「え? なんて?」


 茶髪が俺に視線を向ける。


 俺と瀬能さんの悪口で盛り上がっていた、スポーツ刈りとツーブロックにも睨まれた。


 いや、別にお前らみたいなやつに怒ってんじゃねぇよ。


 怒る価値もねぇ。


 俺は、俺自身に――


「ふざけんな」

「彰。どした? こんなとこで?」


 俺の声をかき消したのは、藤二の飄々とした声だった。


 いつの間にか俺の後ろに立っていたのだ。


「藤二、なんで……」

「彰も一緒に食おうぜ、昼飯」

「……え、あ」


 藤二の笑顔のすぐ裏側には、噴火間近の怒りがあった。


「腹減ったよなぁ。早く購買行かねぇとコロッケパン売り切れちまう」


 軽いトーンで言った藤二は、思い出したように三人を見る。


「あ、後な」


 笑顔が消え、奥に秘めていた怒りがその顔を支配する。


「俺のダチのこと、これ以上悪く言うと許さねぇから」


 ツーブロック、茶髪、スポーツ刈りの体が固まる。


 藤二の相手をねじ伏せるような威圧感は、横にいる俺も伝わっており、心臓がキュッとなった。


「んじゃ、そゆことで」


 藤二は俺の背中を押して、俺をこの場から連れ出すようにして歩きだす。


 廊下を曲がったところで立ち止まり、俺の正面に立った。


「瀬能、今日休みだったんだな」

「そうらしい」

「彰とのいざこざが原因か?」

「たぶん」


 肯定した。


 俺とのいざこざという表現が正しいとは思わなかったけれど、間違っているとも思えなかった。


「そっか。だったらさ、いますぐ行ってこいよ」

「……え?」

「早退の理由は俺がなんとかしとくから」


 藤二は俺の肩に手を乗せ、俺の体をくるりと反転させる。


「バカみたいに行動するやつが偉いんだって言っただろうが。ほら、走れ」


 そして、俺の背中を優しくポンと押してくれた。


 その優しい衝撃で、俺の中でなにかが吹っ切れる。


 本当に、藤二と友達になれてよかった。


「うん。俺行ってくるわ」


 前にふらついた足を止めずに、俺は走り出す。


 学校を出たところでスマホを取り出し、森本さんに連絡する。


「もしもし辻星くん? どうしたんだい?」

「いまから俺、瀬能さんの所に行きます」

「え?」

「住所、送るんで、森本さんもすぐ来てください」


 そのまま電話を切り、地図アプリの入力履歴からコピペした瀬能さんの家の住所をメールで送った。

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