第13話 はじめての
翌日。
いつものように教室の自分の席で文庫本を読みながら、担任が来るのを待つ。
ふひひひへへへ、と顔がにやけているのが自分でもわかる。
――辻星くんは、誰がなんと言おうと、素敵な人です。
昨日、桐原くんと対峙した時に、瀬能さんははっきりとそう言ってくれた。
耳の中にはまだその勇敢な声が残っていて、俺の心をときめかせつづけている。
素敵、の意味を昨日の夜だけで五回はスマホで調べた。
「瀬能さんが、俺のこと、素敵かぁ……ぐひひひひひ、ぐひっ、ぐっ、げほっ、げほっ」
ちょっと息が詰まって咳き込んでしまう。
口の端から垂れてしまった唾を拭っていると、いきなり話しかけられた。
「おいおい、腑抜けた顔してにやついてると思ったら、急に笑いはじめて咳き込むって。なにやってんだよ」
驚きで背筋がピンと伸びる。
え、どこから見てたの? いや全部か、だってそう言ってるし……って、あれ?
「き、桐原くん?」
「おはよう。辻星」
俺の前の席に座った桐原くんは、彼が彼の友達に見せるのと同じ笑顔をしていた。
桐原くんの席はそこじゃないはずなんだけど……。
「あ、えっと、お、おはよう」
教室で誰かに話しかけられるなんて慣れていなくて、しかもその相手がクラスのカーストトップだから、必然的に声が上ずってしまう。
圧倒的な強者が、カースト底辺の、元女装男子である俺に話しかける。
そんな奇異な状況に、クラス中の視線が集まった。
「ってか一限からいきなり数学だろ? まじだるくね?」
なんか普通に話しかけられてますけど、なにこの状況。
「……ああ、ま、まあ」
とりあえずそれなりの相槌を打っておく。
だからどういう状況?
「そういや、辻星ってラインやってる?」
「まあ、インストールしてるだけだけど」
「じゃあ交換しようぜ」
「え?」
「ってか辻星って呼びにくいなぁ。彰の方が三文字で楽だ」
「え? 三文字?」
ラクダは三文字じゃなくてみつこぶだぞ。
「彰も俺のこと、桐原じゃなくて藤二でいいぜ」
「だ、だから三文字とか、そうことじゃなくて」
「じゃあどういうこと? あだ名作ってほしい派ってことか?」
「そうでもなくてさ」
「そうだ、自販機までジュース買い行かね?」
「……いまから?」
「まだ間に合うっしょ?」
このままみんなの視線を浴びながら会話しつづけるのも居心地が悪かったので、桐原くんの提案に従って教室を出る。
もしかしたら、桐原くんもみんなの視線を察していたのかもしれない。
「あ、あの、桐原くん」
開け放たれた廊下の窓から吹き込む朝の風を受けている桐原くんは、やはり爽やかなイケメンだ。
「だから藤二でいいって。なんだよ?」
「その、だっていきなり、話しかけてきたから」
「は? 話しかけるのに理由なんかいんの? 同じクラスじゃん」
「それが話しかける理由になるのはカーストトップだけだよ。それにそんなことしたら桐原くんの立場が」
「立場?」
「だって桐原くんカースト上位なのに、俺なんかと話したらクラスでの立場が」
「そんなの関係ねぇよ」
桐原くんは、真面目な顔してさらっと言ってのけた。
とある芸人のせいでその言葉は一発ギャグになってしまったと思っていたんだけど、『そんなの関係ねぇ』って言葉、使う人が使えば格好よくなるんですね。
「って、いままでその立場を気にしまくってたやつから言われても、説得力ねぇよな」
苦笑いを浮かべながら頬をかく桐原くん。
肯定するのも否定するのも違う気がして、俺は黙ることを選んだ。
桐原くんは、そんな俺を不思議そうに見つめてから、頭の後ろで手を組んだ。
「ま、でもいまは、俺が彰と友達になりたいってだけしか考えてねぇ。他のことなんて心底どうでもいいって思ってる」
桐原くんがなにを言っているのかよくわからなかった。
足を止めると、桐原くんも三歩先で立ち止まる。
ちょうど渡り廊下の中央。
窓から差し込む日差しが、すごく暖かい。
「こういうの、俺も初めてなんだよ」
桐原くんが振り返る。
陽光に照らされた爽やかイケメンは、恥ずかしそうに、ぎこちなく笑っていた。
「だって彰のことすげぇかっけえって思ったから、尊敬できるから、話したいって思ったんだ」
「俺が、かこ、かっ……かっこいい?」
そんな言葉、言われ慣れてなくて二度も噛んだ。
ううう、舌が痛い。
「ああ。でもいまの動揺してる姿はかっこよくねぇけどな。ははは」
にへらっと笑った桐原くんは、もはや朝の日差しを押し返すほどの爽やかな輝きを放つ存在に進化した。
「実は俺、瀬能に惚れてたんだ。小学校の時に転校してきてから、ずっと」
以外……ではない。
さすがの俺でもなんとなく、そうじゃないかなと思っていた。
「最初はさ、あいつも結構笑ってたんだ。でもだんだん男と話さなくなって、中学になったら女子も寄りつかなくなって」
「たしかに、中学は同調圧力が一気に強くなるけど」
「俺はそんな瀬能に話しかける勇気はなくて、クラスの中心じゃなくなるのが怖くて、そうしてずるずるしてるうちに、彰に先を越されたわけだ」
先を越したつもりはない。
だって俺は瀬能さんに触れることすらできないのだから。
「だからさ、なんかすげームカついて、それはぐずぐずしてた俺自身に対してだったんだけど、気がつけばあんな陰湿なことしちまった。でも屋上で話す彰と瀬能を見たら、こいつらの関係性には敵わねぇなって思ってさ。なんつーの? 圧倒的な敗北感っつーか、悔しさすらわかないやつ」
え?
ちょっと待って見てたってどういうことあの恥ずかしいあれやこれやを見られてたってことってか普通そう考えるのが自然だよな桐原くんあんなとこにいたんだもんああ死にたくなってくる。
「んで、そう思ったらいろんな意味でふっきれて、カッコつけてた自分がばからしくなって、彰に興味が湧いて、友達になりたいって思ったんだ」
「でも、桐原くんにはほかに友達、いっぱいいるのに?」
素直な疑問を口にする。
俺一人のために、いまの立場を捨てるようなことをするなんて、都内で車を買ってしまう以上にコスパ悪すぎだろ。
「友達……ねぇ」
物憂げな表情を浮かべた桐原くんは、天井を見上げて、両手をポケットに突っ込む。
「俺たちは小学校も中学校も高校も、行かなきゃいけないから、その道が用意されてるから通ってるだけなんだ。その狭い世界で俺たちは生きるしかない。だから同級生とは、いまは一緒にいるけど、卒業したら簡単に会わなくなって、離れてくんだよ。人なんて、同級生なんてそういうもんだって、十歳離れた姉ちゃんによく聞かされてた」
なんかすごく高尚なことを説かれた気がした。
友達なんていたことなかったので、俺には桐原くんの気持ちがよくわからない。
友達が多い人には多い人なりの悩みがあるのか。
「だからこそ、こいつとは離れたくねぇと思ったやつとの縁は死んでも離すなって。……これも姉ちゃんの言葉なんだけどさ」
白い歯を見せた桐原くんが、ふぅと息を吐く。
「だから俺は、虫のいい話だとはわかってるけど、彰と友達になりたいって、そう思ったんだ」
友達になりたい。
桐原くんの言葉はまっすぐで、その表情にうそはないように思う。
でも桐原くんは、瀬能さんの悪口を吹き込んで仲違いさせようとした人だ。
「俺と友達は、いや、か?」
「……それは」
ただ、桐原くんは自分の過ちを認めてちゃんと謝ってくれた。
クラスでの立場を失う可能性だってあるのに、気さくに話しかけてくれて、友達になりたいって言ってくれた。
「……いや、なわけない。こんな俺で、よろしければ、お願いします」
だから、俺もそんな桐原くんと友達になりたいと思った。
「まじ? ほんとか? ほんとだな?」
桐原くんは嬉しそうに、俺の隣に歩いてきて首に腕を回す。
俺に初めての同性の友達ができた瞬間だった。
「決まりな! これからよろしく頼むぜ! 彰!」
「よろしく。……えっと、ととと藤二」
「風俗に初めて行った童貞みたいにぎこちないな」
「うるせぇ。そう言うってことは風俗行ったことあるのかよ」
「いや、ねぇけど。二人で今日の放課後行くか?」
「行くわけねぇだろ」
「彰には瀬能がいるもんな」
「だからつき合ってないって!」
「ほんと面白いな、彰は」
かははは、と高らかに笑い始める藤二。
もう彼のことを高圧的だとは感じない。
むしろその笑った顔は、猫のように人懐っこかった。
「あ、でもさ、友達だから言うけど、さっきみたいなの、もう禁止な」
急に真顔に戻った藤二が、俺の耳元でささやく。
「え? さっきみたいなのって?」
「こんな俺で、なんて自分を卑下するのだよ。彰はそんな人間じゃないんだから」
あ……。
たしかに、さっき俺はそう言った。
瀬能さんにやっちゃダメだと言ったことを、知らぬ間にやってしまっていた。
「俺が初めてずっと友達でいたいって思った男が、こんな俺、なんてことは絶対にないんだから、もうやめてくれよ」
「わかった。ありがとう。俺も藤二とずっと友達でいたいって改めて思った」
瀬能さんに改善するよう言ったことを自分ができていないのは、よくないもんね。
それを教えてくれたのが、友達の藤二で本当によかった。
「嬉しいこと言ってくれるなぁ。んじゃ、さっそく自分を卑下しない練習だな。辻星彰は最高で天才でイケメンで世界一の男。はい、リピートアフターミー?」
「辻星彰は最高でイケメ――ってこれはいじってるだけだろうが!」
「あはは、ばれちった?」
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