第7話 母はやっぱり素晴らしい
「俺がいなければ母さんはあんな奴と結婚もしなかったし、ばあちゃんたちと喧嘩することもなかった。母さんは死ななかった! 全部俺が原因なんだ! どうやったってこの体にはあいつの! あいつの血が流れてるんだ!」
彼の悲痛な叫びは、私の胸に真っすぐ突き刺さった。
だからなのか、私よりも酷い境遇を生きてきた彼を励まさなければ、慰めなければという感情がふつふつと湧き上がってきた。
その方法は、【ぎゅー】だ。
「俺は、俺であることを辞めたいんだ」
巨大な太鼓のようにどくどくと音を立てる胸を左手で押さえながら、ゆっくりと彼に右手を伸ばす。
震えている彼の肩まで後少しというところで手が動かなくなって、指先の感覚がなくなった。
彼は男。
おとこおとこおとこ。
頭の中が【おとこ】の三文字で埋め尽くされていく。
……だめ、だ。
私は手をすっと引っ込めた。
彼は私のために走ってくれたのに、彼の心の傷に共感できたのに、彼が男なんだと思ってしまえば、もう彼に触れることは叶わない。
――男なんて最低最悪の生き物よ。
お母さんの言葉が脳裏によみがえる。
愛おしさと恐怖という、相反する二つの感情が心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合った結果、ようやく絞り出せた言葉は、
「……そんなことないよ」
なぐさめにもならない無責任な言葉だった。
「そんなことあるんだよ!」
彼から睨まれる。
でも、彼は泣いている。
私は、彼に助けてもらったんだから、私だって苦しんでいる彼を助けたいから!
「君のお母さんは、君を産んで、君と出会って、幸せだったんだよ」
心の中に浮かび上がった言葉を、そのまま伝えつづける。
本当はその涙を拭ってあげたいし、手だって握ってあげたい。
「そんなわけ! だって最期、俺は母さんを裏切って!」
「嫌いな人に、【ぎゅー】、なんてしたいと思わないよ。好きだから、そう思ったんだよ」
あれ?
いま私、なんて言った?
「でも!」
「あなたのお母さんの【ぎゅー】、は最後まで愛情を失っていなかったんでしょ?」
そうか。
嫌いな人に【ぎゅー】したいと思わない。
じゃあ私は、彼のことを、彼は男なのに、嫌悪する対象のはずなのに、【ぎゅー】したいって思ったってことは――。
その思いを自覚した瞬間、私は胸の中にあふれた言葉を彼に伝えていた。
「あなたは愛されている。お母さんの残してくれた愛情があなたの中にはたっぷりと詰まっている。だってあなたは私を助けてくれた。手を引いて走ってくれた。それはあなたがお母さんから受け継いだ、素敵なものだよ」
彼の目が大きく見開かれる。
右の目じりから大きな涙の粒が、頬へ流れ落ちていった。
その涙が本当に綺麗に見えて、思わず手を伸ばしたが。
「俺は! お母さん! ごめんなさい……」
――やっぱり、触れたいのに触れられない。
「出ていって、離れていって、ごめんなさい!」
顔を手で覆って、謝りつづける彼の隣で、私は自分の思いと向き合っていた。
「見捨てたわけじゃないんだ! ごめんなさい! お母さん! ごめんなさい!」
彼のことを、私は【ぎゅー】ってしたいと思っている。
ってことは、きっと私は彼のことを……。
だけど。
それでもやっぱり私は、「大丈夫。きっと届いているよ」と言うことしかできないのだ。
彼の隣にいることしか、できないのだ。
***
心のままに叫んだら、恥ずかしいようなすっきりしたような、やっぱり細胞レベルにまで小さくなってしまいたいような、不思議な境地に到達した。
どうしていいかわからず、ただちょっとだけ顔を背けている俺を、瀬能さんが覗き込んできたので、誤魔化し笑いを浮かべる。
「見苦しいところ見せちゃって、ほんとごめん」
「見苦しいところなんてひとつもなかったよ」
瀬能さんは微笑みながら首を傾けた。
あまりの可愛さに、顔がぶわぁっと熱くなる。
こんな感情、産まれて初めてだ。
「あ、ありがとう。瀬能さん」
今度はのぞき込まれても目が合わないように、夜空を見上げる。
三日月がとても綺麗だ。
「どういたしまして。……でも」
瀬能さんもなにやらもじもじし始めたのが、声と気配でわかった。
「どうしてあなたは、初めて会った私の名前を知ってるの?」
え?
「初めて、会った?」
当然、そう訊き返す。
だって、俺たちは今日、校長室で会っている。
話だってしたし、校長というラスボスを倒した仲間のはず……。
「え、もしかして……どこかで会ってる?」
瀬能さんは目を丸くした後、あごに手を当ててうーんと考え込む。
いや、今日のことだけど。
そんな考え込むほど昔のことじゃないけど。
「……ごめんなさい。やっぱり、思い出せなくて。保育園一緒だったとか?」
「それは俺も覚えてないけど、たぶん違う、かな」
「じゃあどこで?」
「こうちょ……」
条件反射的に言葉が止まった。
女装した姿で会っている、と言うのが、ものすごく恥ずかしかったのだ。
こんなことなら、初めて会ったフリをすればよかったよぉ。
「……えっと、その、校長室で」
「校長室…………あ」
瀬能さんの目が輝く。
「君、もしかしてあの女装男子!」
「ようやく? 結構強烈なキャラだと思うんだけどなぁ」
「似合ってなさ過ぎてびっくりしたのは覚えてるんだけど、まさかあれが君だったとは」
けらけらと腹を抱える瀬能さん。
対して俺は、気まずいやら恥ずかしいやら覚えられていなくてちょっとショックやら……次々に感情が押し寄せてくる。
ってか似合わなさ過ぎって、瀬能さん結構辛辣な面もあるんですね。
「いや、そんなに笑う?」
「ごめんごめん。思い出したらつい」
「ついって……あ、そういえばさ」
なんとか話題を変えようと言葉を探した結果、俺が口にしたのが。
「実はあの時、俺、瀬能さんに憧れたんだよね」
校長室で出会った時に思った正直な感想だった。
……って俺なに言っちゃってんの?
憧れたって、それ本人に伝えるとか、キモすぎだろ。
恥ずかしさでおかしくなりすぎてんのか?
「え? 私に、憧れた?」
瀬能さんはきょとんとまばたきを繰り返す。
口から出た言葉をなかったことにはできないので、俺はつとめて冷静を装って、誤解を与えないよう丁寧に言葉を選んで話した。
「なんていうか、女装してる俺は周りの視線をすごく気にしてて、恥ずかしさで死にそうで、でも瀬能さんは堂々としてて、我が道を生きてて」
「まあ、私は私だからね」
瀬能さんは誇らしげに胸を張る。
それを見て、やっぱりすごいなと思った。
「そういうとこ、素直に尊敬する。でも、ひとつ気にになってることがあるんだけど、訊いてもいい?」
「なに?」
「どうして瀬能さんは学ランなの? 男性恐怖症だったら、男には、その、なりたくないんじゃないかなって」
男性恐怖症なのに自分から男要素を取り入れるという行為が、矛盾しているように思えるのだ。
「それはね」
瀬能さんはこほんと咳ばらいをする。
「お母さんと相談して決めたの。男に負けない、対等だって気持ちを持って生きようって。だから学ラン着ることにしたの」
「そっか、対等」
「うん。対等。…………あ、そういえば名前、あなたの名前を聞いてもいい?」
瀬能さんが前屈みになって尋ねてくる。
そのくっきり二重の目が俺の心をまさぐった。
「ははは……。一応俺も学校では有名なんだけどなぁ」
あの時、たしか校長が俺の名前も呼んでいた気がするんだけど。
一度で覚えろと言う方が無理か。
じゃあ一度で覚えた俺っていったい……。
「ごめん。私、あんまり他人に興味なくて」
「俺は一年三組、辻星彰」
「そっか。辻星、彰。辻星彰くんか……」
かみしめるように呟いた後、瀬能さんが急に立ち上がり、
「……って時間! いま何時?」
訊かれたので、ポケットからスマホを取り出す。
「もう十時過ぎだよ……」
「うそ?」
時刻が書かれた画面を瀬能さんに向ける。
「やば! お母さん心配してる。急いで帰らなきゃ!」
走り出そうとした瀬能さんは、右足を踏み出しただけで足を止める。
ロボットのようにぎこちなく振り返り、恥ずかしそうにつぶやいた。
「……って、ここ、どこ?」
その慌てぶりがおかしくて、思わず噴き出してしまった。
瀬能さんってとっつきにくそうなイメージなのに、意外とおっちょこちょいで可愛い一面もあるんだなぁ。
「待って、地図アプリで調べるから」
「ごめんなさい。私、スマホ持ってなくて」
「え? スマホないの? ガラケー?」
いまどきスマホじゃない高校生なんているのかと、純粋に驚く。
「ううん。ガラケーすら持ってないの。貧乏で買えなくて……」
瀬能さんの返事は俺の安直な想像を超えていた。
ここにも離婚の影響が、貧乏が顔を出すのか。
「つまり、逆に最先端ってことか。ミニマリストって言葉もいまは流行ってるし」
「フォローになってないよ、それ」
「ごめん。……瀬能さんちの住所は?」
「えっと、六丁目の……」
教えられた住所を入力すると、経路と時間が出た。
ここから三十分くらい歩かないといけないらしい。
どうやら彼女の父親から逃げた時、彼女の家とは反対側に来てしまったみたいだ。
「まじか。かなり歩くみたい」
「大丈夫。歩くのは慣れてるから」
それは父親が養育費を送らないせいで貧乏だから……ってことですか?
「道、覚えるから、画面見せて」
「いいよ。家まで送っていく」
無意識にそう言っていた――ならどんなに格好よかったことだろう。
帰り道を調べ始めた時から、この言葉を言うために何度も脳内でシミュレーションを重ねていた。
まあでも、さすがにこんな夜遅くまでつき合わせておいて、家まで送りとどけないというのはありえないだろう。
彼女の父親がまたやってこないとも限らないし。
「そんな、悪いよ」
「でもほら、もう夜遅いし、危ないし」
「え……、う、でも……」
「俺じゃボディーガードとして頼りない?」
「そんなことはないけど、私が男の子と一緒にいるところを見たらお母さんが。それに採点のバイト、いつも八時半には終わるから」
そりゃそうか。
瀬能さんの不安はもっともだ。
男性不信に陥っている彼女の母に、俺はどんな顔をして会えばいいのだろう。
瀬能さんのお母さんの立場になって考えれば、俺は瀬能さんを夜遅くまで連れまわしている極悪男に見えるはずだ。
瀬能さんはスマホを持っていないから、連絡も取れない。
さぞお母さんは心配していることだろう。
「じゃあ家の近くまでならどう? やっぱり女子の一人歩きは危ないよ」
「女子の……」
そう呟きながら、瀬能さんはショートカットの髪の毛先をくねくねさせている。
「今日ずっと一緒にいてくれた、そのお礼ってことで、ね?」
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
最後は俺の熱意に負けたって感じで、瀬能さんは小さく頷いてくれた。
よかったぁ。
これで瀬能さんと一緒に帰れ――じゃなかった。
瀬能さんが危ない目に遭わなくてすむ。
死ぬ気で守るぞ。
「じゃあ、行こっか」
「……はい」
なぜかいきなりよそよそしくなってしまった瀬能さんと並んで歩く。
無言にしたくはなかったが、喋る言葉がこれっぽっちも見つからない。
歩くペースだけは、瀬能さんに合わせて少しだけ遅くした。
「あ、ここからなら知ってる」
しばらく無言で歩いていると、瀬能さんがぼそりと呟いた。
「もうここまでくれば大丈夫だから」
「だから危ないって。まだ距離もあるし。自分が女の子であることをちゃんと自覚して」
いくら見た目が中性的でも、制服がスカートでなくても、強くありたいと願っていても、彼女は間違いなく女の子なのだ。
「……はい」
こくりと頷く瀬能さん。
それからさらに十分ほど歩き、ようやく瀬能さんの家の近くまで来た。
奥の方に見える木造アパートの二階の二号室が彼女の住む家らしい。
「あはは……ぼろ過ぎだよね。だからあのアパート、私たち以外住んでないんだ」
瀬能さんは苦笑いを浮かべている。
「そんなことないよ。俺が昔住んでたばあちゃんちは築七十年だから」
大袈裟におどけてみせたが、フォローになっているのかどうかもわからなかった。
「七十年って逆に古風で素敵そうだね――――あっ」
瀬能さんが俺に合わせて笑ってくれたその時、彼女の家のドアが開いた。
中から一人の女性が出てきて、あたりをきょろきょろと見回している。
「お母さん」
「はやく、行ってあげて」
「うん。今日は本当にありがとう」
小さく頭を下げてから、瀬能さんはアパートの方へ駆けていく。
俺は近くの電信柱の後ろに隠れて二人の様子を窺った。
瀬能さんのお母さんは走り寄ってくる娘を見つけると、アパートの階段を駆け下り、【ぎゅー】っと抱きしめた。
「やっぱり、母親っていいなぁ」
知らぬ間にそう呟いていた。
あんなに瀬能さんのことを心配してくれている。
見ていて微笑ましい。
きっとお母さんは優しい人なんだろう。
「俺も帰るか」
瀬能さん親子が家に帰るのをしっかりと見届けてから、俺は彼女たちの住むアパートに背を向けた。
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