第8話 これからはきっと
家に帰りつくと、疲労がどっと押し寄せてきた。
まだ心臓はばくばくと興奮している。
瀬能さんの残り香が隣にまだ漂っている気がして、ちょっと匂いをかいで――――俺キモッ。
……っと、そんなことより。
俺は、床の上に正座をしてから、祖父母の家に電話をかけた。
夜も遅いしどうかなぁ……と思ったが、ここでずるずると先延ばしにしたら、明日でいいやという怠惰の心に一生勝てない気がした。
「もしもし?」
電話に出たのはおばあちゃんだ。
声に張りがある。
寝ていたわけではないらしい。
「もしもし、俺。彰」
声と一緒に水分が外へ出ていっているらしく、口が奥の方から順に渇いていく。
「彰なの? 久しぶりね。あなたから電話するなんて珍しいじゃない」
「そうかな? 普通だと思うけど」
祖母にそんなことを言わせるような孫でごめんなさい。
「学校生活はどう? 大変?」
「まあ、それなりに。でももう慣れたよ」
「それはよかったわ」
他愛もない話がつづく。
ただ、俺はこんな話をするために電話をしたわけではない。
強く目を閉じて、瀬能さんの笑顔を思い出してから、意を決して尋ねる。
「あ、そうだ。おばあちゃん。それって子機?」
「え? そうだけど」
それを訊いてどうするの? っていう感情がその声に乗っている。
「じゃあスピーカーボタンってわかる?」
「すぴーかー?」
おばあちゃんは機械に疎い。
やっぱり知らないようだ。
「おとうさん。スピーカーボタンってわかる?」
近くにいるらしいおじいちゃんに訊いたようだが、
「え? するめいか?」
どうやらおじいちゃんも知らないようだ。
「えっと、スピーカーボタンっていうのは……」
電話越しになんとか説明し、無事スピーカーモードにしてもらうことに成功する。
「彰、こんなことして、いったいなにをするの?」
「うん。実はお願いがあるんだけど」
一度言葉を止めて、胸のざわめきを静めるために深呼吸をした。
「お母さんの仏壇の前に、この電話を置いてくれないかな?」
「……え?」
「いや……、帰った時にちゃんとやるけど、いまここで、きちんと伝えときたいと思ってさ」
俺は、この一人暮らしの空間に母親の写真を持ってきていない。
母親のに関するものがあれば、あの日の丸いロープが否応なしによみがえってくるから、そんなもの、この新生活に持ち込みたくなかった。
「……彰」
俺の名前を呟いた後、おばあちゃんは「ちょっと待ってね」と言った。
それから小声で、「おとうさん、彰が……」と不安げにいま俺が言ったことをおじいちゃんに説明している。
まあ、おばあちゃんの困惑も理解はできる。
祖父母の家に住んでいた時、俺は母親の仏壇に近づくことすらなかった。
お線香もあげたことがない。
母さんを殺してしまった原因が俺にあるから、そんなことをする資格はないと思っていたのだ。
「わかったわ。あの子の、仏壇の前に置けばいいのね?」
おばあちゃんの、【あの子の】という言葉を聞いて、整えていたはずの呼吸が乱れてしまった。
おばあちゃんにとってお母さんは、いまも昔も大切な娘なのだ。
「お願い、します」
おばあちゃんのバタバタという足音が聞こえる。
つづけて建付けの悪い襖を、ぎぎぎと開ける音がした。
祖父母の家の中でそんな音がするのは仏間しかない。
「来たわよ。置けばいいのね?」
「ありがとう」
おばあちゃんの離れていく足音が電話越しに聞こえてくる。
その音がなくなると、電話の向こうはしんと静まり返った。
目を閉じる。
お母さんのことを、お母さんとの思い出を、順に思い出していく。
小さく息を吐いてから、胸に中に閉じ込めていた思いをそのまま口にした。
「お母さん。俺、もう高校生になってるよ。産んでくれてありがとう。また、帰省した時に改めてお線香あげるね」
――彰、大きくなったわね。
背後からそんな声がした気がして、振り返る。
誰もいない。
でもお母さんに【ぎゅー】ってされた時の、あの暖かさと柔らかさと愛情が、体の内側から溢れ出てきた。
「よしっ」
お母さんが俺の中に残してくれた暖かさが、恥ずかしさを覆い隠している間にこれも言ってしまおう。
スピーカーモードにしているので、多分聞こえているはずだ。
「おばあちゃん、おじいちゃん。いままで育ててくれてありがとう」
やっと、言えた。
「これからもよろしくお願いします」
これも、言えた。
指先が震えて、スマホを落としそうになる。
おじいちゃんから恨まれていても、おばあちゃんから恨まれていても、俺が感謝している事実に変わりはない。
「……彰」
少したってから聞こえきたおばあちゃんの声は、お母さんの声によく似ていた。
「おばあちゃんも、彰がいてよかった。本当にありがとう」
「じいちゃんも、彰がいたから、悲しみから救われたんだ」
じいちゃんが泣いているのも初めてだった。
なんだ。
俺が勝手に思っていただけで、恨まれてなんていなかったんだな。
「おばあちゃん。おじいちゃん。俺も同じなんだ。俺、おじいちゃんとおばあちゃんがいてくれて、本当によかった」
俺はいままで自分のことが大嫌いだった。
でも、いまは違う。
こんな自分に笑顔を向けてくれる人がいるのなら、感謝してくれる人がいるのなら、自分のことを好きになってもいいんじゃないかと、そう思えるようになった。
「ねぇ、おばあちゃん。本当に申しわけないんだけど、いまから学ランって注文できるかな? それがだめなら誰かのおさがりでもいいんだけど」
「わかった。任せといて。すぐ送るわ」
おばあちゃんの嬉々とした声は、やっぱりお母さんの声にそっくりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます