第6話 過去と、後悔と

「俺が六歳の時、いきなり母さんが俺の手を引っ張って家を出て行ったんだ。『もうお父さんはお父さんじゃなくなったのよ』って言われて。そんなこと突然言われたって、俺はまだ子供で、理解できるわけないのにさ」


 あの時の母さんの顔は、それまでのどの母さんの顔とも違っていた。


 恨み疲れて果ててしまった人が浮かべる、薄い笑み。


 いまの俺なら、あの時、母さんがどんな気持ちだったのか、事細かに察することができたと思う。


 ただ、何度も言うけど、俺はその時たったの六歳で、大人はみんなすごい人だと勘違いしてしまうような年頃で、その中でも自分を育てているお母さんは特別すごい人間だと思い込んでいて、どんな時でも俺に優しくしてくれると思い込んでいて。


 お母さんが、どこにでもいるような普通の人間なのだと、あの時正確に理解していれば……と何度後悔したことか。


 でも、幼いながらに、母さんがなにかでショックを受けていることだけはわかったので。


『お父さんがいないなら、じゃあこれからは、僕がママと結婚するー』


 俺の手を引いて、後ろを振り返らずにぐんぐんと歩くママの手を【ぎゅー】って握った。


『ありがとう。私も、彰と結婚するわ』


 振り返ったお母さんは泣きながら笑っていて、すぐに俺のことを【ぎゅー】って抱きしめてくれた。


『彰は私が、なにがあっても守るから。安心してね』


 この時二人が使った結婚という言葉の意味は違ったかもしれないが、二人の思いは一緒だったと信じたい。


 それだけが、唯一の救いだから。


「それから俺たちは二人暮らしを始めた。でも俺は全然楽しくなかった。母さんは俺のために寝る間も惜しんで働いてくれたから、一緒にいる時間が少なくなったんだ」


 母さんからの【ぎゅー】が好きな幼い俺にとって、それは耐えられないことだった。


 母さんが俺のために頑張っていることは幼いながらに理解していたから、その日、俺は母さんを癒したくて、【ぎゅー】が欲しくて、自分から母さんのことを【ぎゅー】ってしに行った。


 そしたら、こめかみを抑えた母さんに、こう言われた。


『ママはいま疲れてるの。後にして』


 崖から突き落とされたような心地だった。


 母さんの口から漂ってきたのがアルコールのにおいだと、その時の俺は気づけなくて。


 母さんが水商売をしていることを俺はまだ知らなくて、母さんのそっけない反応が受け入れられなくて。


 僕の大好きな母さんがいなくなってしまったように感じて、体がぷるぷると震えはじめた。


『ごめんなさい。僕のせいで』


 服の裾を握って謝ると、母さんが慌てて【ぎゅー】ってしてくれた。


『ごめんね。ママ、彰のこと好きよ』

『……うん』


 しかし、その【ぎゅー】からは、温かさと柔らかさが失われていた。


 ママは疲れている。


 僕がいるから。


 だったら僕は、ママと一緒にいない方がいい。


 幼い俺の単純な思考が、そんなアホみたいな答えを導き出す。


 だから俺は翌日、学校から帰ってきた後、ランドセルから自由帳を取り出して。


 ――パパのところにいってきます。


 そう書き残して、三か月前に出て行った家へ向かった。


 昔の家に行けば、そこには僕の大好きな母さんが残っているような気がして。


「幼いころの俺は、それを母さんのためだと思ってた。母さんを楽させてやりたい。母さんにとって父さんは恨めしい存在でも、俺にとって父さんは、まだ大好きなままだったから。母さんは、父さんの愚痴を俺の前で決して零さなかったから」


 小さい足でとぼとぼ歩いて、ようやく元の家にたどり着く。


 二階建てアパートの二階、一番奥。


 背伸びして、ようやくピンポンが押せた。


『おとーさん。僕だよ』


 十秒くらいたってから、中からどたどたという音が聞こえてきて、お父さんが姿を現した。


 ジャージのズボンによれよれのTシャツを着たお父さんは、「……あ」と呟いて、目を見開いたまま固まる。


『おとう、さん?』


 その顔は、記憶の中のどのお父さんとも違っていた。


 男特有の汗臭さと、女性用シャンプー売り場のにおいが混じったような不快なにおいも漂ってきた。


『おとう、さん?』


 お父さんに対して、初めて抱いた不穏な感情。


 小さな手が汗でびしょびしょだった。


『僕、帰ってきたんだけど』

『ねぇ! お父さんって、いったいどういうこと!?』


 部屋の中から、知らない女の声がする。


『おとーさん。その声、誰?』


 幼い俺が声を震わせると、お父さんは頭をガシガシとかきながら、あからさまな舌打ちをした。


『ねぇったら! だからその子は誰なの?』

『うちによく来るガキだよ! ここが自分の家で、俺が父親だと勘違いしてんだよ! 放置子ってやつだよ!』


 おとーさん? なに言ってるの? わけわかんないよ。


 奈落の底に突き落とされたと思った。


『そういうことね。でも放置子ってどういう意味?』


 勘違いじゃないでしょ?


 僕だよ。


 彰だよ。


『うっせぇーなぁ千秋ちあき! 社会問題になってるやつだよ!』


 お母さんの名前は千秋じゃないよ。


『おい坊主!』


 だから、僕の名前は坊主じゃないよ?


『お前は、いったい誰と勘違いしてるのかな?』


 お父さんの目は冷淡に歪んでいた。


 幼い俺は委縮して、一歩も動けない。


『さっさと消えろ。もう二度と来るな』


 そう吐き捨て、お父さんは扉をバタンと閉めた。


 つづけて聞こえてきたガチャリという音が、お父さんという存在をはるか遠くに追いやっていく。


 記憶の中のお父さんが、真っ白になっていく。


『おとう、さん』


 俺はその時、初めて声を出さずに泣いた。


 ぽろぽろぽろぽろ。


 涙と一緒に大切ななにかが流れ出ていく。


 それを止めたいのに、涙を止める方法がわからなくて、俺はそのまま歩いて母さんのもとに帰った。


 母さんは、家で首を吊っていた。


「俺が母さんを殺したんだ。守っていきたかったのに、俺のせいで……」


 俺が残した置手紙は、母さんの足もとでくしゃくしゃになっていた。


 俺はそれを丁寧に広げて、母さんの涙でにじんだ文字を見つめつづける。


 母さんは俺に愛想をつかされた、見捨てられた、と思って絶望したのだろう。


「俺は、だから、そういうやつなんだ」

「あなたのせいじゃないよ」

「俺のせいだ! 母さんが死んだせいで、ばあちゃんたちも苦しめてる。ばあちゃんが俺に隠れて、夜、母さんの仏壇の前で泣いてるのを俺は知ってる」


 俺を十七歳という若さで身ごもった母さんは、あの最低な父さんと結婚するために、勘当同然で家を出た。


 だから離婚した時に両親を頼れなかった。


 祖父母も意地を張った。


 俺は祖父母に恨まれても仕方ないけど、俺が祖父母を恨んでいいはずがない。


「俺がいなければ母さんはあんな奴と結婚しなかったし、ばあちゃんたちと喧嘩することもなかった。母さんは死ななかった! 全部俺が原因なんだ! どうやったってこの体にはあいつの! あいつの血が流れてるんだ!」


 心に閉じ込めていた思いを叫んで、ようやく気がつく。


 ああ、俺は男が嫌いなのではなく、俺自身が嫌いなのだと。


 俺以外の誰かになりたいのが、女装の本当の動機なのだと。


「俺は、俺であることを辞めたいんだ」


 最低な父さんの血を受け継いだ、最低な人間だという事実が許せない。


 俺はいままで、俺を恨む俺という存在に気づかないふりをしてきたのだ。


「……そんなことないよ」


 瀬能さんがお世辞を言って励ましてくれる。


 苛立ちが加速する。


「そんなことあるんだよ!」


 瀬能さんを睨むと、瀬能さんは一度怯えたように身を引いたが、また前のめりになって。


「君のお母さんは、君を産んで、君と出会って、幸せだったんだよ」

「そんなわけないんだ! だって最期、俺は母さんを裏切って!」

「嫌いな人に、【ぎゅー】なんてしたいと思わないよ。好きだから、そう思ったんだよ」

「でも!」

「あなたのお母さんの【ぎゅー】は最後まで愛情を失っていなかったんでしょ?」


 彼女にそう言われた瞬間、お母さんからしてもらった最後の【ぎゅー】がよみがえってきた。


 そうだ。


 あの時も、たしかに俺は愛情を感じていた。


 失われていたのは温かさと柔らかさだけ。


 それまでと変わらない愛情がそこにはあった。


 そうだ! お母さん! 俺は!


「あなたは愛されている。お母さんの残してくれた愛情があなたの中にはたっぷりと詰まっている。だってあなたは私を助けてくれた。手を引いて走ってくれた。それはあなたがお母さんから受け継いだ、素敵なものだよ」


 彼女の言葉にこもっている優しさと共鳴しているものが、俺の心の真ん中にある。


 母の、愛だ。


 俺の中には母さんの愛がある。


 俺は母さんの血も、母さんの優しさも、きちんと受け継いでいる。


「俺は! お母さん!」


 そんな俺を否定することは、母さんの優しさを、愛を否定することと同じだ。


「ごめんなさい……」


 そっか。


 俺はただ、ずっと謝りたかったんだ。


 あの日のことを、お母さんに謝りたかったんだ。


「出ていって、離れていって、ごめんなさい!」


 いまさらここで叫んでも意味なんてない。


 だけど、ずっとずっと遠くの空の上にいるお母さんに届くように、自己満足でもいいから、偽善者なりに、何度でも叫びたい。


「見捨てたわけじゃないんだ! ごめんなさい! お母さん! ごめんなさい!」

「……大丈夫。きっと届いているよ」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」


 俺はそう泣き叫びつづける。


 瀬能さんは、そんな俺の隣にずっといてくれた。

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