第5話 瀬能さんの過去
「ねぇ、ちょっと、もうっ」
男は最低だ、男はいつだって女を傷つける。
「ちょっと、まっ、ねえっ」
俺はそんな存在になんか、誰かを傷つける男になんか、なりたくない、なってたまるか。
「ねぇ、ちょっと待ってっ!」
「……えっ?」
ゼェゼェ、という瀬能さんの呼吸音がつづけて聞こえてきた。
ふっと我に返り、立ち止まる。
いったい俺はどれくらい走りつづけていたのだろう。
急にふくらはぎが痛くなった。
呼吸も苦しく、体も火照っている。
服の中が汗でムワッとしており気持ちが悪い。
「もう、追ってないよ」
瀬能さんも前屈みになって、肩で息をしていた。
風に晒されていた耳が赤くなっている。
「あ、えっと、その……」
なんと声をかけていいかわからない。
言葉を探しつつ、あたりを見回す。
ってかここ、どこなの?
俺たちがたどり着いていたのは、住宅街の中にぽつんと存在する小さな公園の入り口だった。
街灯に虫が群がっている。
じじじ、じじじ。
その羽音は非常に耳障りだった。
「ごめん。いきなり、俺、助けたくて」
とりあえず謝ることにする。
「いや、それは、なんとなく。……でもさ、あの……」
瀬能さんの声はだんだんと小さくなっていき、最終的に耳を近づけないと聞こえない大きさになった。
「……手、私の」
「て?」
て、と言われましても。
なにが言いたいのだろう、と思いながら瀬能さんの視線を追うと、そこにはつながった二つの手があった。
一つは俺ので、もう一つは彼女の――
「――ああぁ! ごめん!」
慌てて離す。
俺はなんて大胆なことをしてしまったんだ。
「必死だったから、それでつい、連れ去っちゃって」
いやいや、ついってなんだよ俺っ!
普通に犯罪、誘拐だろうが!
「うん。それは、わかってる」
わかってくれてよかったぁああ!!
瀬能さんは、さっきまで俺が握っていた右の手首を左手で握り、胸に押し当てている。
よく見ると、右の手首から肘の辺りにかけて赤い斑点が浮かんでいた。
ああ、そうか。
鼻の奥につんとした痛みが走る。
汗ばんだ体には、四月の夜風はとても冷たい。
「それ、あの、手のぶつぶつ……」
「あ! ごめんなさい」
彼女の右手首を指さすと、なぜか謝られた。
腕を背中の後ろに隠される。
「これはその、あなたの、せいじゃないの。これは違うの。私が悪いの」
「……そっか」
申しわけなさそうにうつむく瀬能さんに、返す言葉が見つからなかった。
どくどくと、心臓から熱くてどろりとした血液が流れ出ていく。
口の中が猛烈に苦くなって、己に対する怒りが血管の中をぐるぐると駆け巡りはじめた。
「本当に、あなたのせいじゃないの」
じゃあ誰のせいだって言うんだ!
瀬能さんはあなたのせいじゃないと言ってくれたが、そんなものは優しい建前でしかない。
彼女はいまもなお血まみれのゾンビが目の前にいるかのように、体を小刻みに震わせている。
辻星彰という存在が、瀬能響子を怖がらせていることは明白だった。
「ごめん。俺さ、強く握りしめすぎた? 痛かったかな?」
それが理由でないことくらいわかっている。
そんなことで蕁麻疹などできるはずもないが、それが理由であってほしかった。
彼女の腕の発疹が、俺が手首を掴んだことに対する拒絶反応なのだとしたら、俺は俺が嫌悪する男たちと同じ行為をしたことになる。
また俺は、偽善で他人を傷つけるのか。
「必死だったから、力加減ミスってさ。握力、そんなないはずなんだけどな」
「ううん。そうじゃない。そういうことじゃないの」
顔の前で手のひらを開いたり閉じたりする俺を見ながら、瀬能さんはゆっくりと首を振る。
ああ、あからさまに気を遣われた。
もう死にたい。
「私ね、すごい意味不明なんだけど、男性恐怖症……なの」
男性恐怖症。
初めて聞く病名だったが、どういう症状を引きおこる病気なのかは容易に想像できた。
男性恐怖症。
なんて醜く、最低な響きを持つ言葉だろう。
瀬能さんにとって、その言葉は呪い以外の何物でもない。
「そっか、男性……恐怖、症、か」
「そう。男性恐怖症。だからこうなっちゃうのはあなたのせいじゃなくて、男に触られると絶対そうなるっていうか、無意識で出ちゃうというか……」
「そっか。……本当にごめん」
頭を下げながら、ぐっと奥歯を噛みしめる。
彼女にとって俺は害悪なんだ。
男は害悪なんだ。
本当に、男はいつもこうして、男として存在しているだけで誰かに恐怖を与え、トラウマを植えつける。
「身勝手な正義感で君を怖がらせて、本当に俺は最低だ。ごめん」
うなだれるしかない。
ああ、本当に、男は存在するだけで罪なんだ!
「ううん! そんなことない!」
だから、少しだけ前のめりになって、必死でそうじゃないと伝えてくれる瀬能さんの反応は、完全に想定外だった。
「あなたは優しい。それは本当に伝わってるの。だけどどうしても、これは出ちゃうの」
瀬能さんは、ぶつぶつのできている右の手首をさすりながら、苦しそうにふにゃりとはにかむ。
「私は、助けてもらって嬉しかった。あの人、私の元父親なの。いきなりバイト先まで来て困ってたから、その……」
瀬能さんは大きく息を吸い込んで。
「本当に、ありがとうございました」
丁寧に、ぺこりと頭を下げた。
え、……感謝、された?
頭の中が真っ白になる。
え? どういうこと?
彼女は俺に感謝している?
「…………どうして?」
気がつけば、俺の口からはそんな言葉が漏れていた。
思わず瀬能さんに向けて踏み出していた右足を、ゆっくりと元に戻す。
顔を上げた瀬能さんは、にこりと笑いながら肩を竦め。
「私の元お父さんのせいなんです。私が、男性恐怖症になったのは」
俺はその意味で「どうして?」と訊いたのではなかった。
どうして俺に感謝なんかしているの? が正しい解釈だったのだが、勘違いしている彼女は、そのまま自身の過去を語り始めた。
「私のお父さんは、私には優しかったんですけど、それは薄っぺらい善人の皮を被っていただけだったんです。お母さんには暴言、暴力は当たり前で、お母さんの親友と二股もしていたらしくて、でもお母さんは私が小さいからってずっと我慢しつづけていて……」
淡々と言葉を紡ぐ瀬能さんの姿を見るだけで胸が痛む。
「そんなお母さんにも我慢の限界が来たみたいで、お母さんが私を連れて家を出て行く形で、九歳の時に離婚が決まりました。私は最初、どうして? って思ったんです。家を出た週の日曜日が私の誕生日で、お父さんと遊園地に行く約束があったので」
瀬能さんはそこで一呼吸置き、夜空を見上げる。
彼女の大きくて黒々とした瞳に映っているものは、いま夜空に浮かんでいる三日月ではないと思う。
夜空よりももっと遠くに行ってしまった、家族が離れ離れになる前の幸せだった過去なのだと思う。
それが取り繕われていた偽物の幸せだったのだとしても、なにも知らなかった彼女にとっては、かけがえのない宝物なのだ。
「その日から、私はお母さんと二人で暮らすようになって、お父さんの裏の顔をどんどん聞かされました。私はお父さんの表と裏のギャップが耐えられなくて、信じられなくて、苦しくて、気がついたら、こんな体になっていたんです。お母さんも離婚以来、男性のことを信じられないみたいで」
「……そっか」
男性恐怖症なの、という彼女の言葉を脳内で繰り返してみる。
本当に切ない響きだ。
「お父さんは取り決められた養育費もちゃんと払ってくれなくて、お母さんは毎日毎日苦労してお金を稼ぐために働いて」
「じゃあ、さっき塾から出てきたのは?」
「採点のバイトです。それなら人と、男と触れ合わなくて済むから」
「なるほど……」
いや、なにがなるほどなんだよ。
唾液が苦くて苦くてたまらない。
「はい。だから本当にごめんなさい。あなたのせいじゃないのに、私の、こんな体のせいで」
「瀬能さんのせいでもないだろ!」
俺は声を張り上げていた。
瀬能さんは口をぽかんと開けて、こちらを見ている。
「あ、ごめんいきなり叫んで。……でも、だからその……」
やってしまったと、後悔が押し寄せる。
赤くなっているであろう頬をぽりぽりと掻きながら、また羞恥に悶えるだろうと確信しながら、それでも瀬能さんのアホみたいな勘違いを正すために適切な言葉を探した。
「それは瀬能さんのせいでは、絶対にないから。悪いのは、瀬能さんや、瀬能さんのお母さんを苦しめた」
過去形ではなかったと思いなおす。
「苦しめている瀬能さんのお父さんなんだから、こんな体に、なんて言っちゃダメだ。瀬能さんは絶対に悪くない」
「……ありがとう」
瀬能さんは意外そうに目を見開いた後、くしゃりと表情を綻ばせた。
女性特有の柔らかい笑顔に、少しドキリとする。
まるで俺の母親のような……と思ってしまったから、俺の胸は暖かくなってから痛みを訴えた。
「あなたは、すごく優しいんですね」
そんな可愛らしい笑顔で、そんなこと言うなよ。
俺は自分勝手な偽善野郎なんだ。
「あなたみたいな人ともっと早く出会っていれば、もしかしたら私はこんな」
「優しくなんかない!」
ああ、また我を忘れてしまったのか、俺。
彼女が俺のことを【優しい】なんて言ったせいだ。
指摘したばかりなのに【私はこんな】と自分を卑下したせいだ。
「俺は全然、優しくないんだよ」
目の奥がつんとする。
こらえようと思う間もなく涙が出てきた。
「俺は俺が嫌いなんだ」
その場にしゃがみこんで、抱えた膝に額を押しあてる。
「あの最低の男の血が、この体には流れてるから」
血液をすべて取り替えたいと思ったことは、一度や二度ではない。
「俺の……俺のせいで母さんは自殺したんだ」
瀬能さんがどんな表情で俺の言葉を聞いているかはわからない。
時の流れという力で圧縮して忘れてしまおうと思った過去は、長い年月をかけて押し固め続けた分だけ勢いよく弾けた。
花火のようにドカン! と体に後悔の火花が広がっていく。
ふざけるなふざけるなふざけるな。
口から吐き出ださないと、いますぐ舌を噛み切ってしまいそうだった。
「もう、話さなくて大丈夫だから」
瀬能さんが俺に寄り添うようにしてしゃがんでくれたのが、ほのかに漂ってきた甘い香りの近さでわかった。
こんな風に寄り添ってくれる優しさを、男は持っていない。
本当に男は最低だ。
彼女のそんな女性的な優しさが懐かしくて、母さんとの思い出が頭をよぎっていく。
『ねぇママ。【ぎゅー】ってして!』
『もう、彰は甘えんぼさんね』
『だってママのこと大好きなんだもん。早く、【ぎゅー】』
『はいはい。【ぎゅー】』
母さんは俺を思いきり抱きしめてくれる。
母さんの温かさ。
柔らかさ。
愛情。
この三種の神器を一度に手に入れられる【ぎゅー】が、俺は好きだった。
「俺も同じだよ。父親の浮気で、全てを狂わされた」
瀬能さんの優しさに甘えたいと思っている弱い自分が情けない。
俺はずっと、【ぎゅー】ってされたかったんだ。
母という甘える対象を失ってから、俺は一人きりで強く生きようと決意したはずなのに、全然強くなれていなかったのだ。
「そっか。あなたも、同じだったんだ」
瀬能さんの相槌が耳に心地よい。
俺が話すのをやめないと悟った瞬間に、彼女はすべてを聞き受け入れる体制を瞬時に整えてくれた。
そのおかげで、話の内容は闇過ぎるのに安心して話せると思った。
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