第二章 第三話

 奇妙なたそがれどきの台所から母親ははしりだした。『あの日』にかえってきた母親にとって次男の遺書をよむ必要はなかった。『あの日』から六〇〇回はゆめのなかで閲覧してきたのだ。『あの日』に警察からうかがった情報によると次男はたそがれどきの六時一五分に神保町のはいきよのマンションの屋上にちよりつしているすがたが目撃され目撃者によって一一〇番がなされた。警察署から覆面しやりようで二人組の警官が到着するとたしかにはいきよの屋上に少年がたたずんでいた。以前にとびおり自殺した人間がせつだんしたとおもわれるフェンスの間隙をくぐりぬけてへりにたったらしい。あきらかに自殺するつもりだ。といえども少年の両脚はけいれんしておりすぐさまとびおりる気配はなかった。警官二人はかいわいの路地裏に覆面しやりようをとめておんみつ裏にはいきよのマンションをかけあがっていった。はいきよの屋上に到着した警官のひとりは少年にかたりかけ自殺を阻止せんとする。同時にもうひとりの警官は消防に連絡して少年がとびおりてもたすかるように救命班の出動を要請した。危機的状況だった。はいきよのマンションのかいわいりにいりくんだあいになっており消防は出動できないという。最後ののぞみは交渉係の警官だ。警官はにこりとしてかたる。「おれも むかし死にたくなったときがあってな 公園の樹のえだにベルトをぶらさげて首をつろうとしたんだ 何分間もベルトをながめていたら 死ぬのがいやになって――」と警官がしゃべったところで少年はとびおりた。恐怖心があしかせになったらしくバランスをくずし頭部から道路に直撃し即死だった。『あの日』を自分はいま生きている。母親ははしった。免許をもっておらずタクシーをひろうひまもない。大丈夫だ。『あの日』はゆめのなかで六〇〇回以上体験している。『自分はあの日のすべてをって』いる。ただし『あの日を体験できるのはおそらくこれが最後』だ。『最後のチャンス』だ。母親はたそがれどきりの神保町の路地裏をはしっていった。あった。くだんのマンションだ。母親はちゆうちよせずに侵入し階段をかけあがってゆく。途中で消防と連絡している警官をおしのけて屋上へとでた。しどろもどろの警官がしゃべっている。「おれも むかし死にたくなったときがあってな 公園の樹のえだにベルトをぶらさげて首をつろうとしたんだ 何分間もベルトをながめていたら――」といっている警官をなぎたおして母親ははしる。茶褐色にさびついたフェンスのむこうに次男がいる。次男はおどろく。母親はフェンスの間隙をくぐりぬけてへりにでる。母親はへりをはしる。次男は片脚を空中にほうった。そのとき母親は次男を抱擁してへりにてんとうしさけんだ。「これで六一五回目なんだからね あんたがいなかったら こんな世界ほろんでもいいんだよ あんたがいなかったら――」と。次男は無表情で夕空をながめ母親は号泣していた。

 次男はもうひとつの人生を生きた。

 生存した次男はうまずたゆまず勉強をつづけた。かつて家族をしあわせにするためにした猛烈なる勉強ではなかった。自分がいるだけで家族はしあわせなのだと次男は確信していた。根拠はない。根拠のない正解はこの世界にたくさんある。このように確信して次男は勉学につきすすんでいった。元来天才肌ではない次男はいわゆる名門の大学には進学できなかったがつつがなく教員免許を取得した。最初は平平凡凡なる市立中学校できようべんをとっていたがやがて教師としてのてんぴんの才能をみとめられて国立だいがく附属中学校にまねかれることとなった。自分自身は中流の市立中学校をへて教員になった。なので周囲からは難関進学校の教師になるのはちゆうちよすべきではないかとみられていた。実際には次男の希望どおりの人生だった。次男は難関中学の一年生の担任となりかれら生徒の進級とともに二年生の担任となって三年生を担任する季節になった。進学校の生徒はみな全身全霊で勉学にはげんでいる。はずだった。実際にはよくあるはなしで男女交際や不良仲間との関係によって脱落し三流高校へ進学せんとする生徒もおおかった。次男はそんならくしやを心配しなかった。かれらが偉大なるらくしやとして歴史に名前をのこさないともかぎらない。そもそも次男にとってはかれらにべんたつをふるうほうが容易であった。問題はひとりの生徒だった。関東の進学校を視野にいれて最終的には旧帝國だいがくの医学部をめざしている生徒である。次男はくだんの生徒の心配ばかりしていた。某日のたそがれどきにくだんの生徒の母親から電話があった。生徒が遺書をのこして失踪したのだという。遺書の内容をきいた。『みんなを楽にさせたいからお金持ちになろうとしたけれどもう限界です。みんなありがとう。』とのことだった。次男は学校からまっしぐらにはしりだした。なぜかゆきさきはわかっていた。根拠のない正解はこの世界にたくさんある。神保町のはいきよのマンションに到着した次男はまっしぐらに階段をかけあがっていった。途中でひとりの警官が消防に連絡をしていた。くだんの警官をおしたおして屋上にでるともうひとりの警官がなにやらしゃべっていた。警官の視線のさきにはフェンスごしにあの優等生がへりにたたずんでいる。「わたしも自殺くらいかんがえたことはあります 実際にはこわくてできませんでしたが――」とはなしている警官をなぎたおして次男ははしる。かつてせつだんされてぜいじやくになっていたフェンスの箇所はおぼえていた。次男は溶接されたせつだん箇所をこじあけてへりにでる。優等生が片脚を空中にほうりだした。そのとき次男は優等生の肉体を抱擁しててんとうした。次男は真摯な無表情でさけぶ。「きみがいなかったら こんな世界ほろんでもいいんだ きみがいなかったら――」と。優等生は肉体をけいれんさせながら慟哭していた。

 父親も運命に翻弄されていた。

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