第一章 第四話

 おれだけではなかった。叔父と叔母と母親も理解せざるをえなかった。おれたちがあお神社へと初詣にいっているさなか叔父は元来おれの子供部屋であった自室で胡あぐらをかきうなだれながらよっぱらっていた。叔父はいつもどおりだった。いつもどおり絶望していた。叔父はひとりごちる。「なんで おれがたすけてあげられなかったんだよ」と。いささか微笑した無表情のままで一粒のなみだをながす。「なんで おれが――」とくりかえしたときだった。雪曇りのきれまから自室にさしこんでいた斜陽がぱきっとおとをたててこなごなになった。のっそりと窓外の様子をたしかめようとした叔父がみたのはがらのわれるおととともに自室をまっぷたつに分断してじぐざぐにつながった『あの卒業式の日の母校』だった。初恋のひとと永遠にけつべつした母校のすがたをみて叔父は理解した。「そっか やっとおれにもこのときがきたんだな ありがとさん 神様」と。そのとき叔母はおれの自室に隣接する物置でスマートフォンを凝視していた。Youtubeで「good」をおした動画を百万遍くりかえしみていたのだ。「統合失調症のなおしかた」「スピリチュアルは時空をこえてたましいをいやす」「唯一神のメッセージをあなただけに」――。叔母はなにもかわっていなかった。いじめられて発狂した中学生時代からなにもかわっていなかった。時間も空間もすべてが中学生時代で断絶され『なにもかわらないいま』を生きつづけてきた。「あなたは絶対にわるくない~トラウマの心理学」の動画をみていたときだ。まばゆく明滅するスマートフォンの画面がひびわれた。スマートフォンだけではなかった。スマートフォンを接点とする物置の三分の二がひびわれた。がらがわれるかたちであらわれたのは過去の自分がいじめられていた中学校のかいわいのバス停だった。叔母は理解した。「いまいくよ まっててね わたしがたすけるからね」と。同時刻母親はいささか混乱していた。台所で朝食のお雑煮や麦茶の食器をあらっていた母親はやはりがらのくだけるおとをきいた。しゃりしゃりというおとは実家の周囲から実家の内部へと圧縮するかたちでとどろいてゆき母親のてのひらのなかであらわれている食器に集中した。『世界すべて』がとどろいていたのだ。すると食器を中心に視界のすべてがぼろぼろと崩壊していった。といえどもなにもかわらなかった。鏡面がくずれるかたちで世界がくずれてあらわれたのはやはりおなじ世界だった。おかしい。たしかに『なにか』がおこった。焦燥した母親は眼前のまどをひらいて外界をながめた。夕暮れだ。れんの夕空にいわしぐもがたなびいて臆病そうにすずめたちがさえずっている。母親は理解した。母親は次男の自室であった一階の子供部屋へとばくしんし引戸をひらいた。学習机のうえに封筒がおかれている。母親はさきほどのだんからの電話をおもいだした。「いいか これからビッグ・リップがおきる 世界はおわるんだ できることはすべてしろ」と。

 すくなくともおれたち家族は理解した。

 肝心かなめの父親自身は理解しおおせていなかった。おれや叔父や叔母や母親が時空の破滅を体験しているとき父親は京都だいがく附属宇宙物理学研究所で計算をつづけていた。理路整然とならべられた机上のコンピューターやたいしよてきに無秩序につみあげられた万巻の書類群にうずもれるかたちで唯一の部下であるぼさぼさあたまの助手とともに宇宙の膨張について演算していたのである。もっとも最近のNASAの記録から暗黒エネルギーの増加速度を予測する。一〇年ほどまえの計算において宇宙のビッグ・リップが発生するのはすくなくとも数億年の未来とかんがえられていた。そこで当研究所は一〇年前から五年前および数時間前の暗黒エネルギーの増加速度の微分値をとりつづけ指数関数的膨張の特異点をみちびきだそうとしていたのだ。父親はいう。「もういい 一〇年前からの増加速度は無視して 一二時間前から六〇分ごとの微分値と 六〇分まえから五分ごとの微分値の偏差を計算してくれ」と。ぼさぼさあたまの助手がいう。「おそらく ビッグ・リップまで一時間もありませんね」と。父親は愛妻の携帯電話に連絡する。「――そうだ世界がおわるんだ できることはすべてしろ」と。背後で助手がタブレット型にもなるPCのディスプレイを凝視しながら絶叫する。「教授 おそらく暗黒エネルギーの増加は二〇〇八年に金城教授が発表した金城関数をなしているとおもわれます 教授の予測どおりです 二次関数が発散した時点で点Pの正の特異点は三次関数の負の特異点と一致し 三次関数の正の特異点は四次関数の負の特異点と――というわけで 現在一二次関数の最後の特異点への発散へとむけて微分値が指数関数をなしはじめているとおもわれます 暗黒エネルギーが一年まえまで二〇〇四年のモデルのとおりに増加していたのは 暗黒物質とのバランスが金城関数の無限の特異点のつらなりのなかでぎりぎりなりたっていたからであり 暗黒物質とのバランスがくずれた昨年十二月あたりから暗黒エネルギーが一一次関数の発散へとむけて増加をはじめ 前述のとおり 現在最後の微分値的な特異点への発散へとむかいはじめているわけで――」と。さえぎって父親が絶叫する。「ならば発散まで何分なんだ」と。萎縮した助手がつぶやく。「あと九秒です」と。父親は沈黙する。携帯電話のむこうがわで母親のこえがひびいて通話をきられる。PCのディスプレイには反ドジッター空間共鳴場理論対応におけるホログラフィック宇宙全体と膜宇宙の破裂のはじまりがえがきだされる。助手はつぶやく。「いい人生でしたね」と。父親はげつこうする。「どこがだ」と。助手がしょげかえりながら微笑していう。「地球が破裂するまで あと五秒です 四 三 二 一――」と。父親は助手のかたを掌握する。「あ」と助手が頓珍漢なこえをあげたときだった。研究室の二分の一のコンピューターががらのひびわれるおととともにばらばらになってゆき視界の最涯てのシュヴァルツシルト半径へとむかって加速度的にのみこまれていった。しゆうえんを覚悟していた父親が奥歯をくいしばって沈黙していると助手がいった。「教授 これは本震かとおもわれます 現在はなんとかばらばらになった時空同士がつながってバランスをとってますけれど 今後さらに巨大な余震がきたら世界はおわります にしても これってどこなんですかね」と。ぼうぜんしつした父親はおそるおそるかえりみる。かつて父親とバンドのヴォーカルがけんをしてけつべつした真夜中のアパートが研究所とつながっている。父親がいちばん理解できていなかった。

「神様」と。

「あなたは最後になにをおのぞみなのですか」と。

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