遅刻した時計ウサギ - 2nd January
——〝ピーターパン症候群″ってのは知ってるかい?
——うん。良くある、大人になりたくない〜ってやつでしょ?
——それじゃあ、〝不思議の国のアリス症候群″はどう?
——なぁに、それ?
鉄球の中に埋め込まれたラビの時計。そのトゲの上で曲芸のようにバランスをとりながら考えて、ラビはニタリと嗤う。
——どうして不思議の国のアリス症候群はそんなに知られてないのかって、そんなの簡単さ。
フフンッ、と得意げにラビは鼻を鳴らした。
「あの〝アリス〟は、物語の中で語られているようにちゃんと〝元の世界に帰った〟からだ。わかるか? それに対して、ピーターパンは〝未だあの物語の中″だ。つまり物語が、夢が終わってない。だから反対の世界にも影響して、ポピュラーな病名として知られてんのサ」
夢が……終わってない?
つまり、どういうこと?
——でも、物語の、絵本のピーターパンはちゃんと完結しているじゃないか。
チッチッチ……、ラビナズはその大きな鉤爪を左右に振った。
「よぉーく、考えてみろ? 完結したのは〝ピーターパン〟か?」
いつだったかそう、ア・バオア・クゥーが囁いていた言葉があるんだ。
——大人になることを拒否したピーターは
——元の世界に帰ることもなく、物語の中で何百年もフックと戦い続けています。
——もしかすると、フック船長は……
——そんなピーターの目を覚まそうとしている大人なのかもしれませんよ?
空を飛ぶ、大人にならない少年ピーターパン。
いつまでも、子供の心のピーターパン。
純真無垢と自分勝手は鏡合わせ。都合よく忘れてしまう。
そんなピーターパンの物語、よく絵本で目にした物語。
じゃあどうしてあのお話が、こんなにも童話として広まったかって?
だってほら、ちゃんとあの世界から帰ってきた人がいたじゃないか。
それは、あのお話の最後で大人になる事を選んだ……。
「そう、あれはウェンディの夢だったんだ。完結したのはウェンディの物語、だからピーターパンはまだずっと……」
ラビが口を大きく開け、そう彼が囁かれる、まるで悪魔かのように笑った。
「ピーターパンは元の世界に戻った人物じゃない。ピーターパンとウェンディはイコールじゃない……だからこの世界ではまだ物語が継続したままなんだ」
精神が大人になれない、そんなピーターパンシンドローム。
いつまでもネヴァーランドにいたいピーターパン。
大人になる事を拒否したピーターパン。
ネヴァーネヴァーランド。
——確かに、彼にとっては〝理想郷″。
ああ、だから。
「つまり〝ピーターパン″の物語を真に終わらせられる登場人物は……」
「そうさ、〝僕か、フックか〟って事なのさ」
チクタクがまた泣きそうな顔で言った。
ピーターパン、彼ももしかすると、本来は何かを探しに……誰かに連れられこちらの世界にやってきていた人物だったのだろうか。
それが、逆に現実世界の人間をネヴァーランドに引きずり込む側になってしまったのだろうか。
——在る、と。無い、は。背中合わせ。
何かが足りない人間を。
うさぎ穴に落ちていって、おとしていって。
おとぎ話に正直者のハッピーエンドが多いのは理由がある。
……だって、正直者は無事に元の世界に帰っているからサ。
"欠けたモノ"を取り戻してきたから、語り継がれていく物語。
反転の逆さま世界、影を挟んだ向こう側の世界に、人間は何かを置いてきてしまいがち。
取り戻せなかった人間は? 帰っていないんだよ、その世界から。
帰ってしまったウェンディは大人になった。
足りないモノを見つけて、帰ってしまった。
ウェンディを取り戻そうとしたピーターは、大人になったウェンディにがっかりして去っていってしまう。
そして何年も何年も、ウェンディの子供達を誘いに窓際にやってくるのだ。
ピーターを倒そうとするフック船長。
フック船長を食べようとする(本当はそうじゃないけど)ワニ。
ピーターパンと一緒にいた、光の鱗粉を持ったティンカーベル。
それじゃあピーターは?
ピーターがフック船長を倒したら?
ティンカーベルは消えてしまったのに?
ウェンディもロストボーイ達も帰ってしまったら?
……どうしてそこで物語が終わらない?
「ピーターが永遠に帰れないまま、独りぼっちになるからだろう?」
『ご名答』
だけどもはっきりと、その原色鮮やかな嘴を開いた——。
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