第32話
「思い出したかい?加咬、キミの失ったモノを」
…俺が記憶を失っていたのは。
『カウンセラー』と名乗る人物に記憶操作をされたから。
「…ああ」
俺は膝を突いた。
雨が体を濡らしていく、額に触れる暖かな雫が、涙を流しているのだと教えてくれた。
泣いた所で、どうしようもないだろう。
「辛いだろう、苦しいだろう、出来る事ならば、忘れていたかった、そう思うかも知れない…それでも、加咬、加咬くん、キミは立ち上がらなければならない」
何故?
俺は立つ理由が無い。
立ち向かうべき理由がない。
例えあったとしても、俺はもう何も出来ない、してはならない。
「乗り越えるんだ、キミが俺を殺す存在になるんだ、でなければ、キミも俺も、此処迄生きた理由にはならない」
「無理だ、俺は…」
「じゃあ、キミは何の為に戦ってきた?此処で絶望する為に生きて来たのかい?キミは、迷宮探索師になるんじゃないのかい?その人生すら否定するのかい?それで、それを失えば、キミは何になるんだ?何も残らない存在が、此処で生きてても良いと言えるのか!?違う、違うんだよ、だから、立つんだ、立って戦え、俺を乗り越えるんだッ!!」
…どうでもいい。
俺はもう、体が動くなと言っている。
それに従うだけだ。
「…そうかい、残念だよ。キミは唯一、唯一、俺と同じ領域に立つ存在だったのに…俺を乗り越える事が出来ないのなら…その無様な姿を晒すのを止めさせてあげよう、俺の記憶の中で、一番輝いていたキミだけを想う、今のキミを殺して…」
「んーッ、あ、だめーっ!!」
統道が叫ぶ。
東王十字郎の傍に立つ黒い粒子で形成された化物がナイフの様に尖った五指を開いて俺に向けて手を振り下ろす。
終わりの一撃。
それで俺は楽になれる。
そう思っていた。
「お兄ちゃんッ!!」
けれど。
俺を殺す五つの凶器が止まる。
同じく、黒い粒子で形成された手が、化物の手首、上腕、二の腕を掴み、行動を制止させた。
同時に、東王十字郎が、統道旭を拘束する腕にも、黒い掌が出現すると同時、肘から先が何十にも渡って旋回して捻じれた。
「あはっ!」
その攻撃を受けた東王は痛みを訴える所か目を輝かせた。
激痛は、彼を乗り越えると言う意志を持つ輝きに見惚れる感情の方が上回った。
ぶちりと千切れる腕、包帯が筋の様に繋がっている。
「はぁ…はぁッ」
俺は声のする方に顔を向ける。
息を荒げて、雨に濡れる天吏尊の姿があった。
両手を前に突き出す。新たな『虚飾掌握』が統道の衣服を掴み、俺の胸倉を掴むと、天吏の方へと引き寄せられる。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんッ!!」
涙を流して、彼女が俺を強く抱き締めた。
…強く抱き締めて、息が出来ない。
「馬鹿な真似しないで、死なないで、嘘でも、血が繋がってなくても、もう、尊には、私には…お兄ちゃんしか居ないんだからッ」
泣き叫ぶ様に告げる。
彼女の涙が、とても綺麗で、美しく見えた。
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