第5話


「尊、お兄ちゃんの気に障る様な事したの?」


俺は後退る。

けれど、エレベーターの中じゃ、すぐに壁が背中に当たって、逃げ場を失う。


「天吏、俺は…お前の兄さんじゃない」


重苦しい空気から逃げる為に、咄嗟に出た言葉がそれだった。

俺は彼女の本当の兄じゃない。彼女の兄は、別にいる。

それを聞いた彼女は、口端を横に引いて笑みを作るが、目は笑っていない。


「え?…冗談やめてよ、お兄ちゃん、お兄ちゃんは、尊のお兄ちゃんでしょ?」


違う。俺はお前とは関係ない。

お前の兄さんは、俺の友達だった男の名前は。


「違う…お前の、お前の兄さんは、天吏あまりみかどは…死んだんだ」


『気怠い神童』。

人は彼をそう呼んだ。

あらゆる分野に置いて一流でありながら、気概は低く怠慢な性格。

自身の才能を鼻にも掛けない、そんな男が、天吏尊の兄なんだ。

事実を告げる、それから逃げる様に、彼女は首を横に振る。


「…違う、生きてる、此処にいる。お兄ちゃんは、此処にいるもん」


これ以上は、俺を兄なんて呼ぶな。

俺を、あいつと同等な呼び方をするな。


「天吏、もうやめてくれッ」


俺の声は悲痛な叫びだったに違いない。

けれど、彼女は地獄の底から引き摺り下ろす様な声で冷酷に告げる。


「じゃあなんで見殺しにしたの?」


言葉が、心臓を掴んだ。

息が止まりかけて、事実を否定したくなる。


「お兄ちゃんが帝兄さんを助けてくれれば、こんな事にはならなかったんじゃないの?」


迷宮内。

あいつに起きた死は、事故だった。

其処に俺が居て、どうにか治療すれば助かったのに。

出来なかった、いや、してはならなかった。


「ねえ、なんで。なんで見殺しにしたの?兄さんはすごく苦しんでいたのに、生きたいって思ってたのに、どうして、どうして、ねえ、どうしてなの?」


ただ残った事実は。

俺が、天吏帝を見殺しにしたと言う事実だけだ。

受け止めなければならない事実。俺が否定したい事実。


「やめ、やめてくれ…」


あの時の事を思い出したくない。

心が痛む、精神が病んでしまう。

忘れたいから、だから彼女に逢いたく無かった。

けれど…天吏尊は俺を追い詰める。


「やめないよ?兄さんを見殺しにして、その事実を隠して生きようとする最低な人が、なんの罰も受けずのうのうと生きていられるなんて、許されると思ってるの?」


地獄を見て生き続けろ。

忘れる事は許さない。

天吏尊がそう言って俺に手を伸ばす。

喉に触れて、徐々に力を込めていく。


「俺はただ…ッ。勘弁、してくれ」


壁に靠れて地面に座る。

その上に跨り、天吏尊が俺の首に力を込める。


「駄目。一生、罪を償ってもらうから、手始めに、兄さんの代わりになって、私の大好きだった兄さんの役になって、褒めてくれて甘えさせてくれて、私の事が大好きで、誰よりも大切な人として、私と言う存在が一番な、お兄ちゃんになって」


どうにかして、許されたかった。

だから俺は、贖罪として提案してきた、天吏の言葉に頷く他無かった。

それ以外の道はきっとある筈だ。それでも、それが誰かが望む答えならばそれに従おう。

俺は、自分が出した答えを、間違え過ぎてしまったから。


「…分かった、分かったから。責めないでくれ、頼む」


言葉を呑む。

手の力は緩んで、甘い匂いが鼻を擽る。

天吏尊が手を首に回して優しく抱き締めてくれた。


「…大丈夫?お兄ちゃん?ダンジョンに潜った時の後遺症が残ってるんだね、大丈夫だよ。尊が居るから、今日くらいは、私に甘えても良いんだよ」


彼女の背中から影が見えた。

その影がボタンを押すと、エレベーターが再び動き出す。


「あ、間違えて屋上押しちゃった、でも、二人きりの時間が増えるって思うと、素敵だよね、そう思うよね?お兄ちゃん」


悪魔の様な微笑みで、俺は首を縦に振るしかなかった。


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