夜舟

田中政宗

夜舟

建久五年、文月のある暮れ方の話である。男は、港に続く桟橋に腰を下ろし、客を待っていた。初秋の東海の浜は凪ぎ、鈍色に泥んだ水面が薄橙の空を映していた。昼間は市や漁から帰ってきた漁師たちで賑わっていたが、海辺で遊んでいた子供たちが帰る頃には、あたりは閑散とし始めていた。

男は船乗りである。彼は早朝に旅人を一人乗せてから、帰りに一人くらい乗せていければいい、と港に留まっていたが、ついに誰も来ることはなかった。そろそろ空(から)の舟で帰ってしまおうかと思ったその時、乾いた空を割るように、くぐもった声があたりに響いた。男が振り返ると、砂浜よりもずっと奥の翆黛をなぞるように、鏃に群れを成した雁たちが空を泳いでいた。声の正体たちは、煤をこぼしたような北の空の中へ消えて行った。

男がふと目線を下げると、若い僧と尼僧がゆっくりとこちらに歩いてきているのが見えた。ちょうどいいと、男は腰を上げ、彼らを手招きした。

「お客さん、どちらまで」

船乗りの男が聞くと、僧の方がポツリと答える。尼の方は、仮面をつけたような表情でじっと俯いていた。

「武蔵の関まで、なるべく近くに」

男のいる港から武蔵まで三時間はかかる。日没前に着くことは出来ない。よしんば暗闇の中でたどり着いたとして、男は到着してから向こうで一夜を明かさなければならない。

「お客さん、困るよ、ここから武蔵までって言ったら、着くのは真夜中だ。どうしてもって言うなら連れていくが、その分高くつくと思ってくれ」

男がそう返すと、僧はこれまた生き霊のようにボソボソと答えた。

「正直なところ、金はそこまで持っていないんだ」

男は呆れて、半ば踵を返しながら吐き捨てた。

「仏さんのためにタダで命を掛けろって言うのかい? 申し訳ないがオレはそこまで信心深くないんだ」

すると、僧は懐から藤色の布に包んだ短刀を取り出した。男は強盗かと身構えたが、僧はそのまま短刀を男に差し出した。

「そのつもりはない。たしかに金は無いが、代わりにこれを持って行ってくれ」

男はそれを受け取ると、僧の様子を伺った。僧は何もせず、男が短刀をあらためるのを待っているようだった。尼僧は俯き、袖で顔を覆った。

男が徐(に布を剥ぐと、中からは赤樫に金の装飾を施した短刀が姿を現した。それは、いっぱしの武士には手が届かない、ましてや流浪する僧が持つほどのものではなかった。鞘だけでも今より良い船が10隻買えるほどである。

「おいおいちょいと待ってくれよ、こいつは赤木柄の短刀じゃあないか、こんなものお坊さんがどこで?」

室町に入り製法が確立されるまでは、赤樫のような堅木は加工が難しく、当時はこれを利用した刀剣は非常に数が少なかった。そのため、武士の間では自らの所領と引き換えにこの短刀を手に入れようとするものすらいた。これを貰えば、男は船乗りを辞めても妻と子供を食わせていける。しかし、男は僧がこれほどの刀をそこらの船乗りに渡してしまう訳がわからなかった。男はなにか“いわく”があるのではないかと疑った。

「これでどうか武蔵まで連れていってくれはしないか」

僧は続けた。男は唾を呑み、船の縄を解いて、行燈(あんどん)を灯した。

「構わねえ、今すぐ乗りな。だが、お客さん、こんなものを寄越す訳を聞かせてくれはしないか?」

「どうしてもか?」

「どうしてもだ。どんな由縁か分からない刀なんて、気味が悪くて受け取れねえ」

男はそう告げた後、船に乗り込み、二人を招く。

「わかった。話したところで、この話を誰も真実として取り合うまい」

僧がそう言って船に乗ると、それを追うように尼僧もゆっくりと腰を落とした。船体が少し傾いて、ぴしゃりと水音を立てる。

「今日は風も波も小さいから、だいぶ近くまで送ってやるよ」

男がそう言うと、僧は恩にきる、とこぼし、尼僧は両手を合わせた。

「あんたら、まだ随分若いだろう。一体どんな由縁でここまで来たんだい」

僧は細い黛を歪めた。坊主頭のせいか色気は薄らいでしまっているが、化粧を伸ばしたような彼の白く細い頬には童のような無垢な美しさがほのかにうかがい知れた。

「私は、弟を殺したのだ」

若くして出家するとなれば、それなりの理由がある。とはいえ、

「では、なぜ今、罪人にならずこうして坊主をやっているんだ?」

船乗りは聞いた。すると、僧は尼僧をやわらかく一瞥したあと、男を見据えて言った。

「それにはやはり、この刀の由縁を話す必要がある」

それを聞いて、船乗りは青黒い海に櫂を刺した。



「私たち兄弟はもとより武家に生まれた。だが、世間が想像するような暮らしはできなかった。なぜなら私たちが物心ついた頃には父親はもういなかったからだ。ただひとつ知らされていた父親にまつわる話といえば、狩に出たとき、所領を巡って怨みを買った一介の武士に殺されたということだけだ」

群れとはぐれ、遅れをとったのだろうか。夕闇へ向かって、二匹の雁が船の上を横切った。

「ところで、雁が列をなして飛ぶ理由を知っているか?」

ゆらゆらと船が波に煽られると、行灯の影も同じようにゆらゆらと僧の顔を照らす。凪は終わり、穏やかな風が吹き、やがて海は完全に黒くなった。船頭は方角を見失わないように星を読みながら返す。

「知らないな」

すると、僧は死人のような声で続けた。

「やつらは家族だからだ。先頭は父親で、その右後ろが母、左後ろは長男、その後ろは下の兄弟たちだ。畜生どもでさえ、家族があって生きている。されど、人倫の道に生まれた私には父親というものがいないのである。私より若い子供が、馬、鞍、弓矢をもって狩に出ているのを、私たち兄弟は馬の下から見上げることしかできなかった。

そして、自ずから、私たちは敵討ちを決意していた」

「それで?」

「私たちは元服したあとの巻狩で敵討ちをすると決めた。そして、今年の卯月、件の武士も参加する頼朝公主催の巻狩が富士の麓で開かれた。だが、私たち兄弟は三日目の酒宴のあと、すなわち敵討ちの直前に言い争いをした」

「それで、弟を?」

「まさか、喧嘩の勢いで殺すほど私たちの仲は脆くはない。問題だったのは、どちらが仇の武士を殺すかということだった。前夜、弟は自分がトドメを刺すと言って聞かなかった。父の形見であるこの赤木柄の短刀で奴を殺そうと約束していたから、大方、弟はこの特別な刀を一度でも振るいたかったためにそう言い出したのだろうと、私は思った。弟は元来向こう見ずで、眼前のことばかりに執着する性分だったのだ。そして厄介なことに、弟は私の身体よりひと回りもふた回りも大きい大男で、加えて剣術にも秀でていた。だから、たしかに斬り合いになったとあらば、弟の方が適任だった。その日まで何度か短刀をねだられることはあったが、その夜はしきりに私を説得しようとした。武具や馬の準備をしていると、兄さん兄さん、と声をかけてくる。それで、最初は『兄さんは家長だから、兄さんが敵討ちのあとに捕まったら、僕たちの家は次男が継ぐことになってしまうよ』などとこぼしていたが、私が『家長だからこそ、父親の仇を取るのだ。家はお前が継いでも問題なかろう』と返すと、しばらく黙った。すると今度は『兄さん、僕は兄さんより剣術が得意なんだから、もし斬り合いになったら僕の方が有利だよ』と言った。私は当然そのような口をきくと思っていたので『敵討ちは室内で行うのだから、大柄のお前が剣を振るうには狭すぎる。お前より小柄な私が短刀を扱う方がよい』と返した。ここまで言ったところで、弟は黙った。そして、ちょうど、全ての支度が整ったところだった。その時、恋人である“とら”が私の元を訪れた」

「とら?」

船頭が促すと、僧は少しだけバツが悪そうな風に答えた。

「今となりにいる彼女がそうだ」

「おいおい、どういうことだ。駆け落ちっていったら仏道に背くじゃねえか」

「これにも理由がある。だが後で話す。とにかく、私はとらに呼び出された。私ととらはこれで一生の別れになることを決意し、私たちはその別れを惜しみ歌を読み交わした。忘れもしない。私が『紅のふり出て嘆く涙には袂よりこそ色まさりけれ』と読めば、彼女は『紅の恋の涙のいかなれば果ては朽葉と袖をなすらむ』と返した。とらは『女が男に捨てられるのは世の常とは聞いていたけれど、これじゃあ、』と言いかけて、下を向き、私と一度目を合わせると、去ってしまった。私は後に続く言葉が分かったような気がしたが、深く考えるのはやめておいた。それから私はしばらく空蝉のような心地で、部屋に戻った。弟はなぜか部屋には居らず、後になって聞いてもいないのに厠へ行っていたなどといいながら、私の側に寄った。弟は、『上手くいくといいね』と言った。そのときの私はとてもじゃないが、首を縦に触れなかった。成功すれば縄につき、失敗すれば死ぬ。だから『ただ敵を討つだけのこと、それ以外は考えるな』と、何度か答えたと思う。

そして、私たちはついに敵討ちを仕掛けた。男は女と共に自身の寝室で寝ていた。私は奴に忍び寄り、男の喉笛に赤木柄のこの刀を突き立てた。しかし、どうも手が震えて上手く掻き切れなかったようで、男は畜生のような呻きを上げて暴れ始めた。それを見てたじろいだ私の前に、弟は割って入ってきた。あいつは自分の太刀を引き抜いて、迷いなく男の胸のあたりを何度も斬りつけた。するとしばらくして、男は糸が切れた人形のように横たわったので、私と弟は、息は荒いものの、ひと刹那、安堵した。十数年間の恨みというものがこの程度で終わってしまうのかと、妙に釈然としない何かが頭をよぎった、その途端だった。男と共に寝ていた女が金切り声をあげた。油断していた。しかしそう思うのもつかの間、次の瞬間、弟はその女をすぐさま袈裟切りにし、倒れこむまでを見届けてから、私の方を向いた。『兄さん、終わったね。よかったね』、弟はそう言った。私は弟がなんだか鬼のように見えた。いや、これは女をやすやすと切り捨てた残酷さのせいではない。人倫の道をどこかに置いて忘れてきてしまったような、そんな危うい諦念が見て取れたからだ。嫌な予感がした。返り血や敵討ちの興奮がそう思わせているだけだと思いたかったが、やはりそれは違うとすぐ後に知ることになる。弟は、刀を抜いたまま、夜叉のような瞳でゆっくりと私に近づいた。私はその時弟が何を考えているかがまったく読めなかった。しかし、後ずさりしようにも混乱した私の体は動かず、女の悲鳴でまもなく集まる夜衛のせいで話し合う時間の余裕もなかった。弟は発狂してしまったのだと思った。かといって、父の仇も満足に果たせなかった私に、唯一の弟に刃を向け制することができるはずもなかった。汗が顎まで滴るまでにいくつもの逡巡が飛び交う。そしてとうとう弟は口を開いた。『兄さん、赤木柄の短刀を貸してよ』。私はそれを聞いて、虚な心地で柄を弟に向けた。すると、弟は私の手からそれを軽々と拾い上げ、その刃をじっと見つめた。『兄さん、あのさ、やっぱりちょっと怖いね』確か、弟はひっそりとそう呟いたのだった。館の奥から足音が聞こえてくる。そうだ、こんなことをしている暇はない。私は襖の向こうを睨み、男の従者を警戒した。『おい、戯れている暇はないぞ』と、私が後ろの弟に呼びかけると、少しだけ間を置いてから『あっ、』という声が聞こえた。後ろを見ると、弟は、自身の腹に赤木柄の短刀を突き刺して、へらへらと笑っていた。『思っていたより痛くはないかな』、弟はそう言った。『馬鹿者!!』と私が叫ぶと、弟は蚊の鳴く声で『馬鹿は兄さんだよ。僕たち、このままじゃあ二人とも殺されてしまうよ。そうしたら、とらさんはどうするの? 兄さんだって、とらさんのこと……』すると弟は大きく咳き込んだ。抑えた手には鮮血が滴り、咳でよじれた身体には、入り口を広げながらより深く短刀が入り込んだ。『だからと言って、……どうしてこんなことを』と問えば、弟はにっこりと笑って『発狂して人殺しをした僕を、兄さんが止めたと言って。それで、とらさんのそばにいてあげなよ』と答えた。『どうしてそこまでするのか』、私は尋ねた。『兄さんは、僕の罪が軽くなるように、短刀を持たせてくれなかったから……でも……それは僕も同じ気持ちで、兄さんには幸せに生きて欲しかった。だって、兄さん、相手が父親の仇でも、手が震えるくらい優しいんだから』弟はそう言った。違うのだ。私が敵討ちを失敗したのは自身が臆病なためなのだ、私が敵討ちを決意したのは向ける悲しみの矛先がそこにしかなかったからだ、そう言おうとした。しかし、そのとき、部屋に何人もの従者たちが押しかけてきた。弟は『僕からのお願いだ。兄さん、この刀を抜いておくれ』とそう言った。おそらく、この時発狂していたのはむしろ私の方だっただろう。この世にいる心地がしないまま、私は弟の腹を掻き切ってやった。

それからはあまりよく覚えていない。罪がなかったわけではないが、大したものにはならなかったようだ。色々が終わって、私は弟の言う通りとらを訪ねた。しかし、とらは私が敵討ちの末に死ぬことを覚悟していたため、あの夜の直後に出家してしまっていた。だからというわけでもないが、これから武士を続けていくという気にもなれず、私も烏帽子を置くことにした」

僧が話し終える頃には岸は遠く、かすかに揺らぐ行灯と上弦の月だけが船体を照らしていた。話の間、男は何度か船の方向を見失いかけていた。尼僧は俯きつつも、両の袖で顔を隠していた。

「それで、どうしたんだ」

「武蔵の国に、仏の道にあったとしても、妻を持てる門があるという。今となっては、こいつと一緒にいたいという思いが自分のためか弟のためかどうかは分からないが、とにかく今はこうするほかはない」

尼僧は、これを聞いて僧に肩を寄せた。船頭にはその心中が分からなかった。尼僧の顔が能面のごとく露にも動かなかったためである。

「そうかい」

船乗りは僧の様子を盗み見た。彼が見ているのは水面でもなく、ましてや船乗りでもなかった。船の隅に転がっている赤木柄の短刀を見つめていた。まるで、これまでの話は自分に言い聞かせるためのものであったかのように。

船乗りは本来、刀の由来を聞くために僧に話を伺ったはずだったが、今やそれはどうでも良いことであった。刀に弟殺しの由縁があると分かったとはいえ、それに至るまでの僧の経緯と比べれば、その事実自体はひどく矮小なものである。船乗りは、僧の話に納得がいかなかったが、かといってぴたりと言い返せる言葉が思いつかなかった。僧はどこかで道理に背いたわけではないが、この話が道理にかなうといえば嘘になる。船乗りはいくつか考えを巡らせたが、このまま考え込んでしまっては櫂を誤るだろうと思い、考えることをやめた。しかし船乗りは、懐中になにかしこりのようなものがついて取れない心地のままでいた。

次第にふけていく宵の中を、行灯が照らす一艘の夜舟だけが黒い水の面を滑っていった。


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