2-2

 陽が沈みかけた頃。私達は大学構内の広い庭のベンチに座っていた。今度伊万里の家のゴールデンレトリバーを撫でに行くという、いつになるか分からない約束を取り付けた。「なんなら今から来る?」と言われたけど、靴下がヤバいということを忘れていなかった私は、ディナーという単語を口にしたのだ。

 そろそろ帰ろうと立ち上がって少し歩いて。門の前を通ると、それを通知してきたようなタイミングでスマホが震えた。大学に出入りしたときにスマホが鳴るような妙な設定にした覚えはないので、私は歩道の端に立ち止まってスマホを開く。

 香ちゃんからの呼び出しだった。いや、文面はもうちょっと柔らかいんだけど、なんかすごい「来いよ?」って圧力を感じるっていうか。私は伊万里と別れると、昨日の喫茶店に向かうことにした。


 歩きながら考える。昨日のこと。今日あったであろうこと。

 もしかすると、またとんでもない何かがあったのかもしれない。直接話を聞いてもらいたくなるような何かが。嬉しいニュースだったらいいな。昨日の会話を聞かれていて、それが原因で喧嘩しちゃったとかだったら、私はそんなことを香ちゃんに言わせた昨日の自分をブチ殺しに行かなきゃいけなくなる。

 そうだよ、それが無かったら、香ちゃんだってもうちょっと穏やかな気持ちでポーチを渡すというお使いを頼まれてくれたと思う。


 安物のパンプスを買った私が悪いんだけど、少し靴擦れを起こしている。足が痛い。履き慣れてないせいなのかな。でもマネキンがこの靴を履いてたから……。

 初めてマネキン買いをしたときは靴にまで気を配れなくて、可愛い服とよれよれの履きつぶした運動靴、という地獄のような着こなしで外に出る羽目になったっけ。あれ、結構死にたかったな。


 喫茶店に着いたけど、香ちゃんの姿は見えない。私は分かりやすいように、昨日座っていたところに通してもらうことにした。

 コーヒーを注文して十分後、香ちゃんがお店に入ってきた。すぐに私の姿を見つけて、店員さんに待ち合わせだと伝えている。香ちゃんは今日も天使みたいに可愛かった。っていうか多分天使だからね、あれ。自覚が無いだけで。私の向かいに座ると、香ちゃんは鞄を置いて一息ついた。


「どうしたの、急に」

「昨日食べたパンケーキ美味しかったからさ」

「それで呼び付けたの!? そのために!?」


 私は愕然とした。香ちゃんったら、どこでそんな、人を弄ぶ術を覚えたの? くせになっちゃったらどうするの……。だけど、香ちゃんの発言に対して私は若干懐疑的だ。昨日の今日で何もないなんて、逆に怪しいし。


 香ちゃんはパンケーキセットを注文して、店員さんにポーチを渡したと告げた。店員さんは喜んでいたみたいだけど、悪いけど私の方が喜んでいる。怖くて話し掛けられなかったという可能性も一応頭の片隅で考えていたので、それが杞憂だと分かってほっとしていた。

 まぁ香ちゃんなら渡してくると思ってたけどね。見た目に反して気が強いというか、怖いもの知らずなところあるし。ちなみに私が彼女の立場なら絶対無理。話し掛けられたとしても、第一声は多分「昨日は大変申し訳ございませんでした」だと思う。

 益子さん、すごく美人だったけど、怖かったし。話し掛けるまでに漏らさなかったらもう自分に満点あげたいくらい怖い。


「……そういえば、どうだった?」


 そういえばじゃないわ。昨日からそのことだけが気になってたくせに、私は「あぁすっかり忘れていましたけど」という素振りで今日の出来事を聞き出そうとした。

 だけど、そこから一気に香ちゃんの表情が曇って、苦虫を嚙み潰したような顔をして、彼女にしては珍しく吐き捨てるように漏らした。


「最悪だった」

「え?」

「だって、聞かれてたんだもん」


 うわ、ご愁傷様。心の中でそう告げながら香ちゃんを見つめる。

 思い出すだけでも辛いらしく、彼女はため息を漏らしていた。まぁ私ほどになると同じ立場に立たされたらため息どころか尿を漏らすんだけど。


「なんとか誤解は解いたけど」

「印象最悪だったろうに、よくそこまで持っていけたね。ガッツあるよ」

「そんな。大したことしてないよ」


 本当に、香ちゃんはすごい。あんな流れでも臆せずに挽回しようとするなんて。年下なんだけど、時々彼女のことを立派だと思うことがある。今もそう。可愛い見た目で、だけど簡単にはくじけない心と負けん気を持っていて、香ちゃんのそういうところを私はすごく尊敬している。

 そんな香ちゃんは、捨てられた子犬のような顔で私に問い掛けた。もし私が益子さんだったら、香ちゃんのような子のことをどう思うか、と。

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