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 講義が終わって解放された学生達が、思い思いに時間を過ごしている。私は窓際の席に座って一人昨日のことを思い出していた。あとどうでもいいけど、左右で別のもの履いてきてしまった靴下のこともちょっと気になっている。


 香ちゃんはそういう意味じゃないなんて言ってたけど、いやそれは彼女の言う通りだと思うんだけど、益子さんに悪い感情を抱いていないというのもまた確かなことだ。

 これまで一度も話したことのないクラスメート。本当の出会いは入学式や廊下、遅くても三年生になってクラスメートになった時に済ませたと思うけど、それでも香ちゃんにとっての出会いは昨日の喫茶店だったと思う。

 きっとそれまで、一つの記号のようにしか『益子さん』という存在を認識していなかっただろう。だけど昨日、それががらりと変わった。明確に彼女を意識して、そこで初めて香ちゃんは益子さんという人物の性格や気持ちを考えることになった。

 いや、「あの人、なんで友達作ろうとしないの?」なんていうのも一種のそれだけど、それはちょっと置いておいて。何が言いたいって、昨日のあれはすごく運命的だった。大嫌いからスタートする百合作品はたまに見かけるけど、こんな風に「気まずい」から始まるものはなかなか無い。


 当然、私は友達や幼馴染をコンテンツのように茶化したり楽しんでいるというのを態度に出したりしない。誰だって自分の真面目な恋愛や気持ちを面白おかしく観察されているなんて知ったら気味が悪いと思うから。だけど、うっかりテンションが上がってしまうのは、なんていうか、もうしょうがないと思う。

 そういう性質を持って生まれてきてしまったと言っても過言ではないくらい、私はリアルで遭遇したそれに喜びを隠せない。いや隠してる。埋蔵金レベルでしっかり厳重に隠してる。


 人がまばらになっていく教室で、私だけは帰り支度を整えずにぼーっとしていた。足元を見る。よし、靴下は見えない。でもこういう時に限って友達の家にお呼ばれしたりするから、気を抜かないようにしないと。

 もしサークルの友達に誘われたら、「ごめん、今日は家族でディナーなんだ」。私の家では夕飯のことを一度もディナーなんて呼んだことはないけど、こう言うこと。だって左右で違う、しかも穴が開く一歩手前くらいの生地がメラメラになった靴下を履いているなんて知られたら絶対引かれるし。


 香ちゃんは私のことをオシャレになったとか綺麗になったとか、やっと人っぽい見た目になったと思ってくれているみたいだけど、当然死ぬほど無理をしている。服なんて何を買ったらいいか分からないから、情けないことにこの歳で大学が始まる前にお母さんに付き添ってもらった。

 友達くらい、いるにはいる。だけど、友達にそんなことを頼んだら、「え? なんでそれとそれ合わせるの? 狂ったの?」等と思われてしまう可能性があるから。それくらいファッションに疎い。

 結局、お母さんに付き添ってもらったというのに、私が下した決断はマネキン買いという、金にものを言わせるような暴挙だった。お金無いくせに。だってマネキンに着せてるってことは超イチオシのイケてる、誰から見ても素敵な組み合わせってことでしょう? 自分で上下の組み合わせを考えて失敗してクスクスされたら一週間は家から出たくなくなるくらい凹むけど、マネキン買いしたものに何か言われても私のセンスはノーダメだし。

 だからバイトを始めた。自分で服をチョイスできない私が人らしくある為に。そして自分の心を守る為。なんかここだけ聞いたらめちゃくちゃ立派な若者に見えるけど、実態はファッションセンス皆無の喪女が精いっぱい普通の人に擬態しようとしているだけっていう。辛いな。

 私は今日もショッピングモールのマネキンと同じ格好で一日を終えようとしていた、ということになる。


「まだ残ってたんだ」

「あぁ、伊万里」


 そろっと教室に現れて私に声を掛けたのは、同じサークルの伊万里だ。伊万里が苗字だっていうから下の名前を訊いたら「真理だよ」って言われて、この子の親ちょっとおかしいなって思った。

 伊万里は私みたいな残念大学生とは違って、正真正銘の素敵な女子大生だ。どこに住んでるのか訊いたらこの辺の一等地を答えられたから、私は運命を呪った。そんな恵まれた環境なのだから、きっと伊万里が望めばドレスだって着させてもらえただろうに。伊万里はスキニージーンズやライダースジャケットがとてもよく似合うイケメン女子に成長している。

 顔はいいからこのショートカットの頭にカツラをかぶらせたらドレスも似合いそうだけど、あいにく私がそんな伊万里を見たくない。


「今日はサークルに顔出さないの? バイト?」

「うぅん、どうだろ」

「アンタ、自分がバイトかどうかも分からないのか?」

「今のどうだろはサークル行くかどうかにかかってるんだよ。バイトがあるかどうかじゃないよ」

「あ、そういうことか」


 伊万里は私が大学生になってから初めて出会うタイプの人だ。すっごくキツそうに見える、というか実際にキツいところもあるんだけど、かなり天然っていうか。同じサークルの仲間だけど、彼女だけは全くと言っていいほど百合に興味がない。

 「本を読むのが好きだし、雰囲気が好きだから、このサークルに居させて欲しい」なんてかなり丁重にお願いされてしまって、誰も断りきれなくて今に至る。


「今日も可愛くしてるね」

「またマネキンだけどね」

「そうなのか。あれって「これ下さい」って言ったら脱がせて用意してくれるのかな」

「全裸のマネキンが店に鎮座することになるじゃない」

「そうなんだ、怖いな」

「そんなことは有り得ないって言ってるんだよ」


 伊万里は歩いてきて私の隣に座る。鞄を持っているところを見ると、彼女もまたこれから何処かに行く途中のように見えたけど、もしかすると家に帰るだけのつもりかもしれない。私がサークルに顔を出すって言ったら付いてきそうだけど。


「信楽、なんかいいことあった?」

「特に何もないよ」

「そっか」


 彼女は相槌を打ちながらスマホを取り出す。今日はバイトも無いし、このまま帰ってもいいんだけど、どうしても昨日の出来事が気になってしまう。香ちゃん、ちゃんと益子さんにポーチ渡せたかな。


「なんか、彼氏待ってるみたい」

「まさか」

「そんな感じでそわそわしてるってこと。嬉しそうにね」


 伊万里に昨日の出来事を話しても、絶対に頭に疑問符を浮かべるだろう。サークルの他の仲間なら私と同じように喜んでくれるかもしれないけど、それこそ香ちゃんの日常を玩具にしているみたいで申し訳ない。

 この件については私一人でそっと応援しようと思っていたんだけど、百合に萌えたりしない伊万里になら伝えても問題ないようにも思えてきた。


「幼馴染の子がね、クラスメートと仲良くなれるかもしれないんだよ」

「へぇ? 良かったね。で?」

「そこ、女子高なの」

「ふぅん」


 伊万里はスマホの画面に指を滑らせて私の言葉に耳を傾けている。やっぱり彼女は何も感じないらしい。同志であれば女子高ってだけでテンション爆上がりなんだけど。

 だけど決してドライとかどうでも良さそうって感じもしなくて。ただ私の話を聞くのが目的ですって顔で、スマホでアプリゲーをしながら、その場から離れる様子もない。ところでそのトマトをタップしてひたすら潰していくゲームなに? どこが面白いの?


「え、それで?」

「え?」

「いや、だから、それでなんで信楽が嬉しそうなの?」

「分かってないね、伊万里は」

「えー」


 全くピンと来ていないところが伊万里らしいというか。私なんかと話して何が楽しいのか分からないけど、伊万里は香ちゃんのことを訊いてきた。どんな子なのかとか、幼馴染ってことは家が近いのか、とか。

 自慢じゃないけどこれまで友達らしい友達がほとんどいなかったから、こんな私の取り留めのない、オチもない話を聞いて何が楽しいのだろうと思ってしまう。だけど、綺麗でかっこいい伊万里が私に興味を持ってくれているのは分かる。それは嬉しい。

 だから私はそれを噛み締めながら、こんなこと聞いて楽しいのかなって心配になるような話をいっぱいした。伊万里は私と話し始めてから、千個のトマトを潰した。


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