9-2
「いいよ、別に。っていうか有田よりも越前だよ」
「え? 私?」
「あんま熱くなんない方がいいよ。自分の感覚を基準に、あいつらは無意識にああいうことを言っちゃうだけだもん」
まぁ、それがめんどくさいんだけど。益子はそう続けて空になった菓子パンの包みをくしゃりと握りつぶした。
「それが許せないって言ってるんじゃん」
「全ての人間に配慮した発言を心がけているって、越前は言える?」
「さ、最低限はしてるよ」
「本当に? 先天的に持病がある人、心に病を抱えている人、親族に後ろ暗いことがある人、みんなが当たり前に持っている者を何かしら欠いてる人、全員に配慮してる?」
益子の顔を盗み見る。たまに見せる悪戯っ子のような表情は鳴りを潜めていて、真剣そのものといった顔でこちらを見ていた。目が合って、私は言い淀む。さっきの有田の気持ちが、ちょっとだけ分かった気がした。
「……それは」
「それと一緒だよ。悪気はない、それでいいじゃん。そりゃ、どうして同性愛者だけが、誰かに惹かれる理由を説明しなきゃいけないんだろうとは思うよ。みんな、異性が好きな理由を人に話したりする? というか存在する? そんな理由。どいつもこいつも「男の人にトラウマがある」とか、それっぽい理由を引き出したがる。そんなの、無いのにね」
益子は何かを諦めているように感じた。私にはそれがすごく悲しかった。上手く言えないけど、彼女には誰かに自分を理解してもらうことを諦めて欲しくない。だからって傷付いて欲しい訳じゃないけど。言わないと伝わらないし、言えば伝わることだってあるし。誰かに理解してもらうことを、益子にもどちらかと言うと喜んでもらいたい。
それは私の意見を押し付けているだけかもしれないって、思わないわけじゃないけど……。分かって欲しいって思ってもらいたいなら、私も伝えなきゃいけない。だから、彼女の眼を見たまま告げた。
「でも、傷付くじゃん。やっぱり」
「それはしょうがない、割り切るしかないよ」
「はぁ?」
益子は勘違いしている。同性を愛したことをあるのは私も同じで、私達は自分達のことについて話してるって思ってる。だからこんなムキになってるって思ってる。だけど違う。今は私のことなんてどうだっていい。私は益子の為だけに悲しんで、こんなに怒っているんだ。
「しょうがないじゃん。普通じゃないヤツはどんな風に言ってもいい世の中なんだから」
きっと、私が考えることは益子にとって全て綺麗事で、絵空事で、夢物語なんだろう。益子の言ってることも分かる。私の主張はそれらを全部無視した感情論だって、自分でも感じる。
「ね? 私が人付き合い面倒になった理由、ちょっと分かったでしょ」
益子は鼻で笑って、おそらく大好きであろうリンゴジュースのストローをくわえた。こんな風に割り切って考えるまでに、一体どれだけの出来事があったんだろう。何度他人に期待して、裏切られて、傷付いて、また人を信じようとしたんだろう。私も、益子と同じような何かを抱えた誰かを、平気な顔で傷付けてきたのかもしれない。
気付いた時には、私は静かに涙を流していた。益子がぎょっとした顔で私を見て、やっと自分の頬に涙が伝っていることを知った。
「ごめ……」
「越前……信楽のこと、いつから?」
益子は私の涙については何も言わずに、信楽のことを訊いた。同時に、私の頭を抱き寄せてそっと胸に抱えて、ここには誰もいないけど、世界中の誰にも見えないようにしてくれた。
顔が熱い。泣いているせいなのか、別のことが原因なのかは分からないけど、たった今、一つだけ、分かったことがある。私、やっぱり、益子のことが好きだ。
本当のこと、言いたい。消え入りそうな掠れた声で益子の名を呼ぶ。これまで、一度も訊いたことのない優しい声が耳に落ちてきて、また涙が溢れた。
「……最近だよ」
「そっか」
結局、本当のことは言えなかった。いま伝えたら、なんか涙を盾にしているみたいで、卑怯だと思ったから。こんな流れで気持ちを伝えたんじゃ、前向きな返事をもらえたとしても、きっと近い将来、私は不安になる。
益子に限ってそんなことはないと思うけど、私の涙に絆されて、優しくするつもりで付き合ってくれたのかな、とか。だから、益子のことを想いながら、最近だと告げるくらいのことしか、できなかった。
「あんまり真に受けない方がいいよ。あぁ、あとさ。誰かにとやかく言われたくないなら、もう学校で私に話しかけない方がいい」
「なんで、そういうこと言うの?」
「今は越前が私をいじめてるとか、そんな噂になってるんでしょ? それならいいと思ってほっといたけど。私のことで有田を叱るなんて、どうかしてる」
益子が言うのは全部私を守るための正論だ。だけど、どんな理由であれ、話し掛けないでほしいなんて言われて喜べるほど、私は大人じゃなかった。もう泣きたくないのに。
「その内、私と関係を疑われてもおかしくないよ。っていうか実際いるでしょ、うちの学校にも。そういう人達」
「でも、悪く言う人なんてほとんどいないじゃん」
「そりゃね。でも、良くは思われない。なんとなく悪口を言っちゃいけない空気があるから、そういうのに理解が無い古い人間だって思われたくないから、黙ってるだけ。あいつらは人の噂をするくせに、中身の人間のことなんてこれっぽっちも見てないんだよ。話を円滑に進めたり、自分のパーソナリティを指し示す基準として、私らみたいな人間をどう思っているのか言葉にしたり、寛容なふりをすることがあるだけ」
「……なんか、難しくてよくわかんないよ」
「分かるように、シンプルに言おうか?」
優しいのに、刺すような言葉だった。結局、益子は私の返事を待たずに続けた。
「元々いじめに近いことをされてた、つまりいじめてもいいと思われていた私との仲を疑われることを、その辺の同性カップルとして認識されるようになるのと一緒にすんなってこと。楽観視し過ぎなんだよ」
はっきり言いたかった。そんな人達にどう思われてもいいって。でも、益子はきっと、私が悲しむから、それを良しとしない。
「……私、傷を舐め合うみたいで、嫌だったんだよ。同性に惹かれる人と仲良くするのも。だから誰とも仲良くしてこなかった。今の越前にはちょっとキツいかもしれないけど……」
益子は息を大きく吸い込んで、それを全部吐き出した。胸に抱かれているせいかそれがはっきりと分かる。
「……でも、
あだ名じゃない本名を呼ばれたこと。他の人よりも大切にしてくれていること。全部嬉しかったけど、ここまで来ても自分のことは考えようとしない益子の心が、同じくらい悲しかった。
「私って。なんでいっつもこうなんだろう」
ゆっくりと彼女の体から離れると、その呟きの意味を問う。だけど、益子はなんでもないと言うばかりで、何も教えてはくれなかった。
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