7-2
翌日の昼。私は四時間目の授業が終わると、すぐに鞄から財布を取り出した。いつも通り、私とお昼を食べようと包みを持って、有田がふらふらと歩いてくる。私は自分に用事があるのを分かっていながら、立ち上がってすれ違うように動き出す。
「香は今日の昼飯なに?」
「さぁ。見てから決めるよ」
「あぁ、購買か。珍しいな」
「うん。あと、今日は他の人と食べて」
「マジ? 分かったー」
そう言うと、有田はあっけなく私を見送るようにひらひらと手を振った。私とお昼を過ごそうとしていた有田には悪いけど、あんまり重く受け止めてはいない。有田は本当に友達が多いから。私だって、もし私しか友達がいないような女子が相手ならもう少し気を遣う。
益子さんの後ろに立つと、彼女の肩に軽く触れた。ゆっくりとこちらを見上げる彼女は、少しだけ意外そうに目を見開いていた。
「益子さん、行こ」
「……え、なに?」
「気になる? じゃあ行こ」
頬杖を付いている益子さんは正面を向くと、言葉を飲み込むようにため息をつく。また誰かに茶化されたりしたら嫌だなと思ったけど、みんな自分達の食事やお喋りに夢中らしい。
そうして彼女を連れ出して、購買の業者が来ている一階へと向かった。うちの高校は学校の購買部ではなく、外部の業者が毎日一階のホールでパンを売っている。一応カウンターテーブルがあるけど、ほとんど意味を成していない。
久々に利用する購買だけど、やっぱり今日も業者を中心に黒山の人だかりができていた。腹を空かせた生徒達に、行列を成すような知性はないらしい。ここ、一応女子高なんだけどな。
「混んでるね」
「いつもこんなもんだよ。好き嫌いが無いなら人が捌けるまで待ってればいいよ」
「え、すっごいある。カレーパン以外食べられない」
「よりによって一番人気じゃん。もう無理じゃないの」
「えー。じゃあ他のでいいや」
「なんなの」
そう言って益子さんは笑った。私に付いてくる時はめんどくさそうにしていたけど、まぁいいかと思ってくれたなら良かった。私はよーし! と声を出すと、カウンターを目指して進んだ。
足を踏まれたりしたけど、よろめいた私も近くに居た誰かの足を踏んでしまったし、こういう場面では細かいことは気にしないに限る。誰の足を踏んでしまったのかも分からないまま、ごめんと声を上げて、それでも前進することを止めない。
適当に二つパンを掴んで、ついでにフルーツ牛乳にも手を伸ばす。お代をおばちゃんに手渡してお釣りを受け取ると、私はちょっとボロボロになりながら、益子さんの元へと戻った。
次は彼女の番だと思ったのに、なんと彼女は既にパンと飲み物を抱えていた。私みたいに髪や息を乱すこともなく、涼しい顔で私をニヤニヤと見ている。何それ、どんな魔法使ったらそうなるの。
「思ったより早かったじゃん」
「益子さんこそ」
「ルートを見極めるんだよ。端から行っても、お釣りが出ないように渡せば受け取ってもらえるし」
「先に言ってよ」
益子さんは笑いを噛み殺して歩き出した。なんとなく察してたけど、益子さんっていい性格してると思う。性格がいいんじゃなくて。
私は彼女の後を追うように小走りした。横に並んで、お互いにどこに向かっているかなんて確認しなくても目的地は分かっていた。彼女の足もそちらに向かっているし、私も最初からそこでお昼を食べるつもりだったから。
理科室が向かい合う廊下を突っ切っていく。既に先客が居たけど、私達はその先にある扉の向こうを目指しているので、特に気にせず歩いていく。小さな声で話をしていた子達、一人はクラスメートだった。益子さんにちょっかいを掛けて笑っている女子達とは別のグループの子だったからほっとした。
やっほーと声を掛けて、一緒に居た子にも軽く会釈してすれ違う。振り返って、非常階段に誰か居るか聞いてみると、クラスメートの女の子の方が少し考える素振りを見せてから、多分いないよと答えてくれた。ちなみに、益子さんはその間も私達を無視するように廊下の突き当りを目指して歩く。もうちょっと愛想よくすればいいのに。
扉を開けて誰もいないことを確認すると、スカートが汚れるのも厭わず、私達は階段に腰を下ろした。
「……で、なに?」
「別に。一緒にご飯食べたかっただけ」
「変なやつ」
益子さんはパンの包みを開けて、紙パックのリンゴジュースにストローを刺している。この間はたまたまなんて言ってたけど、多分好きなんだと思う。リンゴジュース。
「私、黙ってるのって苦手だから言っちゃうけど、迷惑だったらすぐ言ってね」
「なにが?」
「有田がさ、言ってたんだ。益子さんが中学の頃、女の子と付き合ってたって」
「……それがどうしたの」
否定、されなかった。たったそれだけのことで、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が体を襲った。別に、誰とどんな仲になろうと、益子さんの自由なのに。
「……露骨にウザそうにするね」
「そりゃね。奇異の目で見られて喜ぶのは変態だけだよ」
「益子さんは違うの?」
私がそう言うと、益子さんは明らかに苛立ったような、うんざりしたような顔になってしまった。何をどう誤解されたのかはそれで察した。益子さんはパンを齧ろうとして、だけどやめて、そうして口を開く。
「……越前って、思ってたよりもバカなんだね。なんかがっかりした」
「私は、同性に惹かれる人のこと、変態なんて言わないよ。そんなに幼稚じゃない」
品定めするような視線が私に浴びせられる。彼女は待っている。それならどうして「益子さんは違うの?」なんて言ってのけることができたのか、その答えを。
「逆高校デビューなんてして、自ら進んで奇異の目で見られるようなことしてる益子さんがそんな風に言うのが、意外だっただけ」
「あぁ。なるほど」
確かにね、そう呟いて、益子さんは自嘲する。
「で、何が聞きたいの? まさかその噂が本当かどうか確かめたかっただけなんて言わないでしょ」
「うん。そういう目で見る人と、そうじゃない人の境界線って何? どこにあるの?」
「はぁ……?」
私の問いに、彼女は冷めた視線を送る。だけど、さっきみたいに怒気を孕んだ視線ではない。
「越前」
「何?」
「人を好きになったこと、ないでしょ」
「ぐ」
一つ目のパンを食べ終わった彼女が吐いたセリフは、私のあんまり触れて欲しくない事実を無遠慮に殴った。私も似たようなことしてるし、それはいいんだけど。でも、益子さんに見透かされて、何も言えなくなってしまった。人を好きになったことがある人なら、こんなこと誰かに確かめずに済んだのかな、なんて。
「というか、そんな質問、わざわざ私に訊かなくてもいいじゃん。他のヤツに訊きなよ」
「えぇー?」
「男女のそれだって同じでしょ。みんながみんな異性に発情してるわけじゃない」
「発情って……いや、それは、分かるけど……」
分かるけど、私は益子さんの境界線が知りたいんだ。彼女がどう思って、どんなところで相手を意識してしまうのかが。この興味の源泉に何があるかなんて、今はまだ考えたくないけど。
昨日、帰路につく彼女を見て、このままじゃ嫌だと思った。何も知らずに、ただたまたま同じ空間にいたりするだけの間柄のまま、高校生活を終えたくないって。
二つ目のパンの包みを私が開けるとほぼ同時に、益子さんは「あのさ」と切り出した。身構えながらフルーツ牛乳にストローを刺す。ちょっとだけ、手が震えていた。
「私にそれを訊く意味、越前は分かってるの?」
「……え?」
「越前が同性に惹かれて戸惑ってるって、言ってるようなもんじゃん」
手に力が入る。持っていたストローから白っぽいオレンジの液体がぶしゃっと飛び出て手にかかる。制服に付かなかったことを安堵しながら片手でハンカチを出していると、益子さんが笑った。
「焦った顔、初めて見た」
「あ、焦ってなんか……」
説得力はゼロだ。そんなの自分でも分かってる。
「でも、相手大学生でしょ? 大変じゃん、色々と」
「はい!?」
「……? あの信楽って、
「いや……」
「なんだ、違うの?」
「えっと、そうじゃなくて」
益子さんは不思議そうな顔をしながら、菓子パンの最後の一口を口に放り込んだ。可愛いな、くそ。
どんな誤解を受けているのかはすぐに分かったけど、それを解いてしまうと、自分にとって都合が悪いこともすぐに理解できた。相手が信楽じゃないって言ったら、勘の良さそうな益子さんはきっと、限りなく正解に近い結論に辿り着いてしまうだろう。
「ううん、やっぱそれでいい」
「恥ずかしがらなくていいって。私の話になった時、いつもムキになるのもなんか分かったし」
いいよいいよと笑う彼女と、一命は取り留めたけど、どこか釈然としない私と。どこかから聞こえてきた自分とは絶対に無関係な女子達の笑い声が、私の心を少しだけ救った。
「頑張んなよ。私は応援とかしないけど」
「頑張んなよって言ってくれたのに?」
「口先だけじゃ応援してるなんて言わないでしょ。世間じゃそういうのも応援してることになるらしいけど」
「素直じゃないのかデリカシーがないのか、どっちかにしなよ」
「素直だしデリカシーもあるよ」
「へぇ」
私は彼女の自己申告を鼻で笑うと、食べ終わったパンの包みをポケットに突っ込んで立ち上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます