8-1

 妙な誤解を肯定してしまった数日後。朝、教室に入ってすぐに異変に気付いた。恐らくはクラスの中で、私だけが気付いていること。益子さんが居ない。電車の時間の関係か、益子さんが私よりも遅く来ることは無かったはずだ。遠くから通っているらしいし、多分ちょうどいい時間の電車が無いんだと思う。


 朝のホームルームで先生が益子さんは体調不良で休みだと言ったけど、そうだったんだと思ったのも、きっと私だけだ。心配をしているのも。


***


 その日は何の変哲もない普通の日だった。彼女がいないだけで、一日が味気なく感じてしまう。どうせほとんど話なんてしないのに。誰にも使われていない机と椅子が視界に入るだけで、私の一日の気分は左右されてしまうようだ。


 進路関係のプリントを配り忘れていたとかで、先生は非常に申し訳なさそうに、期限が二日後であることを告げながら前列の席の女子達に渡していく。自分の分を取って残りを後ろに回す。中身は三者面談の日程についてのアンケートだった。期限と言うのは提出期限か、と一人で納得する。

 私なんかはお母さんがいつも家にいるからいいけど、共働きのお宅なんかは二日後に間に合うように日程を決めろと言われたら困るだろう。想像していた通り、誰かが「期限内って無理かも」なんて声を上げた。


「そうだよね、本当にごめん。ご家庭の事情もあるだろうから、なるべく早く出してくれればいいから。遅れそうな人はあとで先生に教えてくれるかな」


 終始眉をハの字にして、先生は少しどきまぎしながら言った。多分、三者面談当日に、一人一人の親御さんに急な案内をして申し訳ないって頭を下げるんだろうな。大人って大変だ。

 そうして号令がかかって先生に挨拶をして、一日の役割から解放される。自分の席の横から鞄を取って筆記用具などをしまおうとしていると、背後から声を掛けられた。その声は明らかに放課後に浮かれている有田のものだ。私は手を止めて振り返った。別に急いで帰らなきゃいけない用事も無いし。


「なぁ、香」

「何?」


 有田は周囲の様子を少し窺うと、さっさと本題に入る。


「最近、益子と話してるだろ」

「……なんで?」


 心臓が高鳴った。やましいことなんて何もないはずなのに。やや潜められた声に、勝手に嫌な予感がしてる。人前で話し掛けたり昼食に誘ったりと、構い過ぎたせいで彼女にいらない苦労をかけてるんじゃないかな、とか。

 あと、益子さんに対する私の気持ちを誤解されてるかもしれないということに、心の隅っこで身構えたんだと思う。


 だけど、有田が口にしたことは、私の予想の範疇を軽く超えていた。


「お前、あいつの家行ってやってくれよ」

「え?」


 私が彼女の家に? なんで? 不思議に思う気持ちと、私なんかが会いに行って迷惑がられないだろうかという気持ちが拮抗して声が震える。当然、有田はそんな私の気持ちに気付く様子も無く、言い訳をするように続けた。


「あいつってクラスに友達いないだろ? だから昼休みに笠間がプリントを頼まれたらしいんだけど。ほら、三者面談のやつ、さっき配られたろ。でも、色々因縁があって嫌らしい」

「……なんかめんどくさいんだね、そっちも」

「も?」


 過去の出来事から益子さんが逆高校デビューという道を選んだことを思うと、自然とそんな言い回しになってしまった。私は「なんでもない」と言って誤魔化しながらも考える。

 もしかすると、笠間さんと喧嘩をしたりしたのかもしれない。後輩を取られたとか言ってたらしいし。もちろん、益子さんの事情を勝手にペラペラ話すようなことはしないけど。あ、信楽は学校外の人間だから特例ってことで。


「っていうか、私が益子さんと話してることなんて有田が言わない限り、笠間さんは知り得ない気がするんだけど。勝手に安請け合いしてきたんでしょ」

「信用ねーな。確かにあたしはそういうことするけど」

「胸を張るなよ」


 呆れて冷ややかな視線を送っていると、有田は私の肩にがしっと腕を回した。結構な勢いだったからちょっと首が痛い。有田はこういう加減が雑、というか力強過ぎるので、私はこうして度々予想外の痛みに見舞われる。

 肩を組んだ勢いとは裏腹に、有田は私の鼻に自分の鼻がくっつくくらい近付けて囁くように言った。


「でも、今回ばっかりはあたしのせいじゃない」

「……どういうこと?」

「ホントに自覚ないんだな。結構噂になってるよ、お前ら」

「……へ?」


 お前ら、というのは言わずもがな私と益子さんのことだろう。ここでいきなり別の人達の話になってたって言われた方が私は気が楽なんだけど。きっとそんな都合のいい話じゃない。

 私は有田のうるささとは少しギャップのある丸い瞳を覗き込んだ。その中を覗く自分と目が合った気がする。喉が渇いたと、ふと思った。


「香がいじめをする奴だなんて思わなかった、なんて言う奴はブチのめしといたけど……正直、そう言われるのも無理ないって思うよ」


 思いがけない単語が出てきて、ぽつんと置いて行かれた気持ちになる。あまりオーバーな反応はしたくなかったので、表情筋を宥めすかしながら有田の言葉の意味を考えた。私の顔で一番嘘が苦手なのは眉だったようだ。眉間に皺が寄っているのが自分でも分かる。

 一拍遅れてやっと彼女が言ったことを理解すると、ひっそりと脱力しながら私は吐き捨てた。


「噂って、そっちね……」

「他に何があるんだよ」

「いい、忘れて。で、笠間さんがそれを私のところまで持ってくるの?」

「まさか、もう受け取ってある」

「やっぱ安請け合いしてんじゃん」


 私がそう言うと、有田はバツが悪そうに笑った。本当に、もう。有田からプリントを受け取る。下の三分の一くらいのところに切り取り線が入っていて、希望日に丸を付けて提出するようになっている。先ほど私達が配られたのと同じものだった。

 そんなに緊急を要するなら電話で聞いたり、メアドを聞いてデータで送ればいいんじゃないかとも思ったけど、彼女の家に行く口実が無くなるので黙っておいた。もしかしたら先生も、益子さんに友達が出来たらいいな、なんて思ってたりして。


「あと、これも渡しとく」

「……地図?」

「おう。家が分からないって笠間が断ろうとしたら、これを渡されたんだってさ」

「あはは」


 こんな丁寧な地図を渡されたら、場所が分からないなんて口実は綺麗に潰される。私は駅からの道が記されたA4の紙を見て笑った。

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