5-1

 私は大学のサークル棟で、レポートの為の資料と睨めっこしていた。あっぷっぷって言って資料が先に笑ったらこの課題が無かったことになったらいいのに。そのためなら全力で変顔してやる。なんてくだらないことを考える程度には追い詰められている。私は一人きりの部屋で大きくため息をついた。


 香ちゃんと会ってからちょっとして、本当に課題が馬鹿みたいに忙しくなった。目下の私のモチベーションと言えば、香ちゃんの恋愛成就、なんかじゃなくて、数週間後に控えている夏休みだ。

 紫陽花を見に行きたいなんて考えていたけど、いつの間にか時期が過ぎていってしまったり、とにかく多忙な日々を送っていた。来年こそは絶対に行くんだから。


 だけど、それよりも先に絶対に行かなきゃいけないところがある。それはどこか。香ちゃんとの約束の場所、そうあの喫茶店だ。

 この間会いたいって言ってくれたのに、本当に切羽詰まってたからその日の内に会ってあげることが出来なかったんだ。


 前に会った時にどれだけ大変そうかを愚痴っておいて良かった。そうじゃないと、恋人もいない、友達もほとんどいない私が忙しいなんて言っても絶対に信じてもらえなかったと思う。そして今日という日まで先延ばしにしたにも関わらず、課題は終わってない。死ぬ。

 サークルの部屋をこんな風に使うほどに追い詰められている私は、資料の文章の同じ行を二度読んでいることに気付いて、全然頭に入ってないことを自覚してまた焦った。これは、ちょっとマズいかもしれない。私は机の端に放置していたスマホを手に取って、香ちゃんにメッセージを送った。


『ごめん、今日ちょっとだけ遅れちゃうかも』

『全然いいよ。益子と時間潰してるから』

『え? そうなんだ』


 ねぇ全然集中できないときに更に集中できなくなること言わないで。何それ最強じゃん。

 でも、ちょっと元気出た。ここは妄想しよう。私が課題を進めれば進めるほど二人の仲は近付く。バタフライエフェクトという言葉がある、蝶の羽ばたきが起こす僅かな風が世界のどこかでは大きな風を巻き起こしてるかもしれないとかそういう話。つまりバタフライエフェクト的な何かが起こって、とにかくこの課題の進行が二人の仲の進展に関わってくる。よし、なんか秒で終わらせられそう。

 私の課題が遅れれば遅れるほど二人でいる時間が伸びてそっちの方がいいんじゃないかなんて極めて現実的な意見には気付かなかったことにしたい。そして私は思い付いてしまった素敵な提案を香ちゃんに投げかける。


『そうだ、益子さんも来たら?』


 メッセージを送ったあと、気合を入れ直して資料に目を落とす。さっきまで、部屋に散乱してる百合漫画を読み漁りたいと思っていたのが嘘のように、ぎゅんぎゅん頭に入ってくる。

 とっとと終わらせたら香ちゃんと益子さんが並んで座ってるところが見れるかもしれない、なんて強い原動力なんだろう。

 ノートパソコンのモニターが揺れるくらい力強くタイプしていると、スマホがちかちかと光った。香ちゃんからの返事だろう。


『無理無理無理』

『私も話してみたいし。あ、お金は私が払うから安心してね』

『そういう問題じゃないんだけど』


 香ちゃんは何かを抗議しているけど、私は生憎レポートの作成で忙しい。本当にちょっと前の私が見たら「ヤバいクスリでもキメたのか?」ってくらい手が止まらない。この調子ならあと一時間もあれば片が付く。


「ありゃ、先客がいたのか」

「……伊万里?」

「うん。隣、いい?」

「どうぞ」


 扉が開くまで足音に気付かなかった。サークルの部屋に入ってきたのは伊万里で、おそらくは彼女も課題をやる為にここを訪れたのだろう。私がパソコンから目を離さずにタイプし続けているのを見て、「頑張ってんなー」なんて呑気な声を上げている。

 こいつ、さては私よりも進捗いいな? 許せん。余裕を見せる伊万里への怒りも全て手を動かす原動力にする。すごい、いつもこんな風にできれば、課題なんて一瞬で終わるのに。


 香ちゃんからの返事は来ない。きっと、香ちゃんは益子さんを連れてくる。それを確信して、更に軽やかに指が動く。


「なぁ信楽」

「何?」

「信楽が恋人に求める条件って何?」

「何それ。伊万里の課題に関係あるの?」

「うん。少し」

「そう。じゃあ、無い」

「は? 無いのか?」

「無い。いらないから」

「そんなこと言ってられるの、きっと今だけだぞ」


 いつもは適当な伊万里が、やけに食い下がる。この子、心理学とかそっちの講義取ってたっけ? 記憶にないけど。


「そうかもね。でも、今は課題と香ちゃん達のことしか考えられない」

「……じゃあ、課題が終わって、香ちゃんのことが落ち着いたら、考えてみてくれ」

「はいはい」

「私とのこと」

「……はい?」


 手が、止まった。顔を上げて隣を見ると、見たこともない下手くそな笑顔を浮かべる伊万里が居た。Vネックのシャツにジーンズという、最高にスタイルがいい人間にしか許されないシンプルな出で立ちで。

 スレンダーで、背が高くて、そのくせこうして座ってみると、私と視線の高さがほとんど変わらない。そんないつも通りの伊万里の、表情だけがいつも通りじゃなかった。


「今日、もし信楽に会えたら、言おうって思ってた」

「えっと……」

「信楽、ホントに鈍いよな。別にいいんだけど」

「……?」

「ほら。課題終わらせなって。このあと、香ちゃんに会うのか?」

「うん、その予定だけど……」


 あの、私、今さり気なく告白された……? いや、まさか。伊万里がそっちだったとしても、彼女のような素敵な人が私を選ぶ理由なんて無いし。選ばない理由ならいくらでも思い付くけど。

 黙々と手を動かしていると、久方ぶりにスマホが自己主張をした。


「鳴ってるよ」

「うん。伊万里、なに読んでるの?」

「資料だよ。ま、来週提出のやつだけど」

「……明後日提出のやつは?」

「あぁ、課題ヤバいって聞いてるから、その講義取ってない」

「ズルい!」

「ズルくはないだろ……」


 私はぷんすか怒りながら端末を手に取った。メッセージの差出人は香ちゃんだ。もしかして益子さん来れないとか?

 だったら悲しい。私は、少しハラハラしながらアプリを起動した。



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