1-4
龍好が先陣を切って階段を下りていくと、柔らかくもしっかりと朝日の差し込むリビングが見えてくる。
几帳面な自称嫁のおかげで散らかる事なく整理整頓された空間。
栞の嫁力の高さを見せ付けていた。
龍好が一人暮し同然だった時は酷い有様だったのだから。
正に雲泥の差。
感謝の極みであった。
ゆったりめに取られた広さは、本来ここで暮すべき人数が多かった事を語っている。
大人が10人座っても持て余すソファーと大き目のテレビ。
それに対し、ダイニングキッチンと隣り合わせで置かれた横長のテーブルは小さめ。
最大で4人しか座らないのだから、コレで充分と判断し交換したからだ。
年配者の好みそうな木目調の椅子には小さな金髪が、ちょこんと座っている。
キッチン方向から見て右の奥。
そこが彼女――みらいの定位置だった。
既に朝食はテーブルに並べられていて、お味噌汁の香りが漂っている。
憂鬱になりながらも今朝の献立を確認しながら、
「おはよ~、みらい」
龍好が自分の席に座れば。
向かいに座る小さな口が開いて、
「おはよう……」
横一文字。
綺麗に切り揃えた前髪の奥から、きらきらした空色の瞳を細め、獲物を見据えていた。
やはり、ターゲットは龍好で、確実にロックオンされている。
「はぁ~」
溜め息を零して、朝食をいただこうと栞が隣に座ったのを確認する龍好。
三人で手を合わせて「いただきます」をする。
なんとなくさっぱりしたものから食べたくなった龍好は、キャベツときゅうりの浅漬けに箸を伸ばす。
しゃきしゃきした歯ごたえと、薄めの塩味は食欲旺盛な少年の胃袋を活性化させるには、じゅうぶんな役割を果たしてくれた。
みらいは、いつも通り大好きな卵焼きを、頬張っている。
今日は、ちょっぴり甘めの味付けだった。
その手に握られているフォークはお子様セットの食器。
見た目が幼ないために良く似合っていて愛らしい。
フォーク以外の食器も全て、みらいが使うものは、龍好が自らの腕でコツコツ貯めたお金で贈ったプレゼントである。
そのどれもが栞お気に入りのにやにやしたにゃんこが描かれている。
栞は、豆腐とたまねぎ。
それと油揚げを小さく切り刻んだお味噌汁を啜って聞く。
「おいし~い?」
「ああ、今日も生きてて良かったと思うよ」
龍好は、純粋に普通のご飯が毎日食べれる嬉しさを噛みしめていた。
「ええ、ほんとに美味しいわ。そろそろバカを見限って嫁に来ない?」
みらいは、早速とばかりに先制口撃を開始した。
相手を罠に嵌めて貶める。
それが、みらいの選んだ作戦だった。
どうせ、直に頼んでも無駄なら変化球で攻めるしかないと思ったからだ。
「いややわ~。うちはたっくんのお嫁さんになるからぁ。みらいちゃんとは結婚できひんよぉ~」
近所のおばさんみたいに手をひらひらさせて流す栞を横目で見て。
龍好は、何も言わずに、お味噌汁を啜る。
今日も良い塩梅だった。
相手の攻撃には乗らず、逸らし続けて――この場をやり過ごす作戦なのだ。
龍好が、その作戦でくる事くらい。
当然みらいは、予測済み。
それでも安い挑発に乗ってくれる可能性はゼロではない。
「うふふ。いいじゃない。西守が性別を無視して婚姻出来ることは龍好だってしってるでしょ。ねぇ、栞、私に頂戴よ」
名指しで言われた以上。ここで、スルーは出来ない。
無難な返答で誤魔化すか、斜め上に逃れるかである。
「それは、残念だったな。てっきり俺は、お前が婿に迎えてくれるものだと信じていたのに、がっかりだよ」
「――え!」
みらいの手が止まった、仕掛けた罠が殺傷力を倍化して自らに襲い掛かってきたからだ。
龍好の放った――斜め上から口撃は完璧なクリティカル。
みらいのハートをブレイクしていた。
嘘だと分っていてもどきどきと嬉しさが似染み出てきて、わざとキツク整えていた顔が、ふにゃりと蕩けていくのを止められない。
「は~い! たっくんの勝ち~!」
☆ぱちぱちぱち☆
栞が拍手喝采を勝者に贈る。
「ふっ。残念だったな。今日の俺は栞の作った旨い飯を食べるためなら鬼にでもなるぜ」
「そ……」
みらいは嬉しさと悔しさと悲しさと切なさをたった一言で呟くと、勝ち誇った顔して、乙女心を踏み躙った相手を睨む。
見えぬ恐怖を押し止めていた防波堤すら砕いてしまった龍好の言葉。
喪失感にも似た焦りと、子供じみたわがままを混在させて、みらいの心を掻き乱す。
『少女一人の命で、この局面が打開できるなら安いもの』
心が痛い。
栞が殺されるくらいなら。
『従わない場合は、本件の守秘義務違反として相応の処分をする事になっております』
涙が溢れそうになる。
両親すらも殺されると言うなら。
『返答次第では、この後葬儀の手配をせねばならなかったものですから』
全てを失う位なら!
苛立ちと感情の赴くままケンカになる事もいとわずに願う!
「じゃあ、もうまわりっくどい事は言わない! 今度は、栞じゃなくて私のために銀時計になってよ!」
☆パシーン☆
栞が放ったハリセンが、みらいの頭頂部で試合終了のゴングを鳴らす。
「はい! みらいちゃんの負けやっ! これ以上は、いくらみらいちゃんでも、うち本気で怒るえっ!」
今日ばかりは、無駄に大きな音を立てるハリセンがありがたく思えてしまった。
おかげで、暴走しかけた思考回路が落ち着きを取り戻してくれたのだから。
「ご、ごめんなさい。言い方が悪かったわね。負けを認めます……」
白旗を振るしかない。
己の心の弱さを呪うしかない。
焦燥から、目的を性急してしまっていた。
栞の本気で怒った顔が、みらいを睨み下ろし。
龍好は奈落の底でも見詰める様に下を向いて手を震わせている。
握り締められた箸が後悔と焦燥感をぐちゃぐちゃに掻き混ぜているみたいだった。
「ぐ……」
龍好は、ただ耐えていた。
血の気の引いた怯えた表情。
少年の心には、犯罪者という汚名を着て歩くだけの耐性が、まだ整っていなかった。
ネットで広がる誹謗中傷に耐えられなくなった少年は――それにフタをして逃げる事しか出来なかったのだ。
幸いにも銀時計という名と龍好を結びつける情報が露呈しなかった事から平穏な日常を過ごしていられたが。
見えない心はいつだって怯えていた。
『今度は、銀行強盗かよ! マジ死んでくれ!』
投石されるどころか最悪拉致られて、ボロボロになるまで殴られるのではないか?
ここ数年間、いつだって心の隅で怯えて生きてきた。
今が朝食の時間で、さっきまで美味しかったはずの手料理に手を付けることすら忘れ。
ただただ、震えていた。
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