第35話 悪魔の力の一端を知る
一安心していたら、バエルはおもむろに立ち上がって、オレのところまで歩いてきた。どうしたのかと思っていると、そのまま、オレのほほに手を添えて、顔を近づけてくる。
「目を閉じてください」
オレが言われるがまま目を閉じてから数瞬あと、唇に柔らかい感触があった。
バエルにキスされたのだと分かった。すぐ近くでバエルの息遣いが聞こえるし、バエルの匂いもする。バエルの唇と舌は、先ほど飲んだコーヒーの味がした。
しばらくそうしていたが、バエルは唇を離すと、微笑んで言った。
「ふふ、悪魔の力の前払いです。……今ので、ケイさんにナノマシンを移植しました」
キスで口移しにされたのは、知能や知覚を底上げするナノマシンなのだと言う。
いきなり高レベルに能力を底上げしてしまうと身も心も追い付いてこないので、少しずつゆっくり効果が表れるようにするそうだ。とりあえず、最初の段階で四、五パーセントくらい底上げするのだという。
「他の方法でも移植できるんですが、せっかくなので堪能させてもらいました」
バエルは微笑みながらそう言った。その笑顔は蠱惑的でドキリとさせられてしまう。
こういう所は、やはり悪魔だ。バエルは嬉しそうだが余裕の態度だ。こちらはいい歳をしてドキドキしているのに……。
「それから、エルです。ケイさんって、私のことバーちゃんとしか呼んでくれませんでしたよね。これからはエルって呼んでくださいね」
確かにオレはこれまで、バエルのことをバーちゃんとしか呼んだことがなかった。もういい歳なのに、名前で呼ぶのは照れ臭かったのだ。
「エル」
そう呼ぶと、彼女は満足そうに笑ってくれた。
ナノマシンの効果はすぐに実感できた。普段よりも集中力が上がっているし、感覚もいつもより冴えてきたのが分かる。
これが悪魔の力の一端なのか。これは楽しい。
普段より四、五パーセント能力が上がっただけでこんなに頭が冴えるのか……。単純に知能指数が四、五パーセント上がったというわけでもないだろうが、これはちょっとした全能感だ。今なら何でも理解できる気がするし、どんな細かいことでも記憶できることが分かる。
そして、これは楽しすぎてやばい。悪魔になると、力に溺れるというのもよく分かる。
「もしオレが力に溺れて元に戻れなかったら、エルが殺してくださいね」
「や、そんなことになるのは許しませんからっ。でも、万一そんなことになったら、私がちゃんと殺してあげますね」
オレの悪魔は相変わらず頼もしい。にっこり笑って請け負ってくれた。
しかし、バエルの言うとおりだ。ずっとそばにいると誓ったのに力に溺れるなんてことはあってはならない。
「わー。エルちゃんてば大胆……」
声がしたので見ると、レトちゃんがこちらを見て顔を赤らめている。レトちゃんは、一応はこちらを見ないように配慮したのか両手で顔を隠していた。しかし好奇心には勝てなかったのか、指の隙間からは両目をしっかりと覗かせている。
バエルは、レトちゃんのつぶやきを聞いて、ようやく見られていたことに気付いたようだ。その時になってようやく、口を半開きにして顔を赤らめた。
「エルちゃんは、昔から夢中になると周りが見えなくなる時がある」
レトちゃんはニマニマ笑って、バエルをからかっている。
バエルはしばらくそのまま赤くなっていたが、「そうだ」と言って、なにか思い出したかのように、話を切り替えた。
「そういえば、レトちゃんは一体どんな姿で、ケイさんとお話していたんですか?」
バエルがニコニコしながらレトちゃんに尋ねている。
今まで見たことのない表情だ。口は笑っているが、目が笑っていない。どうやらちょっとご立腹のようだ。
レトちゃんもギクッとしてバエルから視線を逸らせている。
ははあ。これはレトちゃんがバエルの姿でオレと話していたことはバレてしまっている……。
「ケイさんは、レトちゃんのこの姿を見るのは初めてみたいですよね? さっき確認していましたし」
流石に目ざとい。あんな交渉の最中のこともしっかり覚えていた。
「レトちゃん、またやりましたね?」
どうやら、レトちゃんには、前科があるらしい。
「うー、ケイがさみしそうにしていたから……」
レトちゃんはそんな言い訳をしていたが、さすがにこれはレトちゃんが悪いと思う。
レトちゃんは、恨みがましくオレに視線を向けてきたが、別にレトちゃんに謝る気はない。オレのせいでバエルにレトちゃんの悪戯がバレてしまったのかもしれないが、誰だって自分の姿に変身されていい気分でいられるわけはないのだ。それに、オレもさんざんからかわれたし、レトちゃんは一度しっかりとバエルに叱られたほうがいい。
そんなことを思っていたら、オレにも火の粉が飛んできた。
「他人事のようにしていますけど、ケイさんなら、レトちゃんが他の姿に変身できるって分かっていたんじゃないですか?」
エルはジトっとした視線でオレに問い質してくる。
……あー、はい。なんとなく察しはついていました。
バエルの姿にもオレの姿にも変身できたのだ。他の姿になることぐらい簡単だろうとは思っていた。
言わなかったけど。
オレもバエルに構ってもらえなくてさみしかったし、レトちゃんのバエルも別の趣があってよかったのだ。レトちゃんにからかわれはしたが、オレもそれなりに堪能していたといっていい。
そういうわけで、オレもレトちゃんと一緒に怒られることになった。
「それで、私の姿になって変なことしていないでしょうね?」
「別にしてない。ちょっとからかったけど、相談に乗っただけ。私のおかげで二人はくっついた」
バエルの質問にレトちゃんは淀みなく答える。
しかし、オレはレトちゃんに「この声とこの顔が好きなんでしょう?」とからかわれたことを思い出していた。あれは、バエルの言う「変なこと」に入るのだろうか?
「ケイさん? 何か言うことがありそうですね?」
オレが「変なこと」について考えていると、バエルは何か察したらしい。
レトちゃんは、何か言いたげにオレのほうを見ていたが、すぐに諦めたようだ。
結局、オレはレトちゃんにからかわれたことを白状させられてしまった。
「二人して何てことをしているんですか!? 全くもうっ!」
バエルは恥ずかしさで顔を赤くしながらも怒る。
……なにこれ。おもしろかわいい。
しかし、いくら微笑ましくても、怒られているのに笑ってはいけない。
だから、口元が緩むのを必死にこらえた。そして、それはレトちゃんも同じだったようだ。オレと同じように必死にこらえている。
バエルもオレたちの様子がおかしいことに気付いたようだが、自分でもその原因が分かっているようだ。そのまま、顔を赤らめながらも、オレたちに、なにがダメのか。そして、その理由を噛んで含めるように説明する。
「二度とやっちゃダメですからね!?」
最後は、そう言って許してくれた。
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