第24話 悪魔は出張する

「すみません。今日は出かけてきます」


 ある初夏の朝、朝食を食べているとバエルがそんなことを言い出した。

 今日バエルはこの地獄の外に用事ができたそうだ。そういうわけで、今日は魔王さまと二人でお留守番することになった。

 彼女は急いでいるようで、せわしなく朝食を食べ終えて、身支度を整える。

 いつもはスカートをはいているが、今日は珍しく柔らかそうな細身のパンツとスニーカーを履いている。ゆったりとしたトップスを着て、キャップをかぶって、リュックを背負って、全体的に動きやすそうな恰好をしている。

「夕方までには帰ってきますね……。ではいってきます」

「いってらっしゃい」

 魔王さまと二人で見送った。見送ると言っても、オレが「いってらっしゃい」と言ったら、その場から消えていた。


 それにしても珍しい。

 オレがこの地獄へ来てから、バエルが地獄の外に出かけたことはなかった。昨日は、出かけるとは言ってなかったから、急用でもできたのだろう。急いでいたようなので、どこに何の用事で行くのかは聞けなかった。


 朝食で使った食器を片付けて、モップ掛けも終えた。さて、次は何をしようと思っていたら、魔王さまがオレの前で、爪を出し入れし始めた。

 うちの魔王さまは爪が伸びるのが気になるらしく、自分で爪切りの催促をしてくるのだ。爪を出し入れしてアピールする魔王さまはかわいい。

 爪切りを用意して、椅子に座って、魔王さまを後ろから抱っこする。

 指の肉球を押して爪を出す感覚が面白い。強く推すと魔王さまが嫌がるので、優しく押し出すのがコツだ。これは何度やっても飽きない。魔王さまの爪切りをする時のオレのひそかな楽しみだ。

 猫の爪の根元には血管が通っている。切りすぎるとそこから血が噴き出すので、爪の先のとがったところを少しだけ切断するのだ。魔王さまはもちろん大人しくしてくれたので、あっという間に終わった。

「はい。終わりましたよ」

 魔王さまにそう伝えたが、膝から降りる気配がない。


 そのまま横になって、「なあ」と鳴いて視線で訴えかけてくる。どうやら魔王さまは、このままマッサージをご所望らしい。こちらとしても望むところである。

 魔王さまはバエルにマッサージされているとき、本当に気持ちよさそうにしている。

 オレもバエルにマッサージの仕方を教わったのだが、魔王さまはバエルの時ほど気持ちよさそうではない。微妙な力加減が違うようだ。それに、魔王さまは、オレがお腹を触るのを嫌がるので、オレはもっぱら背中側のマッサージ担当だ。それでも気持ちよさそうにしてくれるのがうれしい。魔王さまはオレにマッサージされてゴロゴロと喉を鳴らしている。


 そういえば、魔王さまと二人きりというのは初めてだ。そばにバエルがいるのが当たり前になっていた。

 朝は慌ただしくしていたのでバエルには聞けなかったが、魔王さまはバエルの用事を知っているだろうか?


「あの子はどこに行ったんですかねー」


 マッサージしながら聞いてみた。

 魔王さまは一瞬、耳と目線をこちらに向けてくれたが、すぐ元に戻してしまった。魔王さまも知らないようだ。

 魔王さまは、その後、数十分ほどオレのマッサージを堪能し、満足したらしい。オレの膝から降りてからオレのほうに顔を向けて「にゃ」とひとなきした。

 どういたしまして。


 そのままどこかに行くのかと思っていたら、魔王さまはそのままオレを見つめている。

 どうしたのかと様子をうかがっていると、魔王さまは、テーブルに飛び乗ってそこにあったタブレットを操作し始めた。流石に文字入力は出来ないようだが、ニュースサイトのリンクをたどっているらしく、肉球で器用に画面を操作している。

 ときどきオレに視線を向けてくるので、何か教えようとしているようだ。

 やがて、魔王さまは目的の記事にたどり着いたようで、「にゃ」と一鳴きして、画面のニュース記事を肉球で指し示した。


 ***


 魔王さまに示されたニュースを読んでみる。

 それは大陸の北側の穀倉地帯で、春に種をまいた小麦が発芽したが、見たこともない雑草も一緒に生えてきたというものだった。雑草はよく発育しているが、小麦は発育が悪いらしい。記事には、見たこともない紫色の花をつけた植物が農地一面に繁茂している写真が添えられている。

 確か、小麦には冬小麦と春小麦があって、温暖な場所では冬小麦を、寒冷な場所では春小麦を育てるのだったっけ。冬小麦は、秋に種を撒き、越冬させて初夏に収穫する。一方、春小麦は春に種を撒き秋に収穫する。だから、このニュースの小麦は春小麦だろう。


「あの子はこれの調査に行ったんですね」


 魔王さまにそう確認すると、「にゃ」と返事してくれた。魔王さまは実は知っていたのだ。マッサージを終えたらちゃんと教えてくれた。


 ***


 オレが夕食の支度をしているとバエルが帰ってきた。

 行くときには持っていなかった植物の鉢植えを手に持っている。記事の写真に写っていたあの植物だ。

「おかえりなさい」

「ただいま帰りました」

 バエルはいつも通りにこやかに返してくれる。


 夕食は、イノシシ肉の生姜焼と山盛りサラダ、ライスにスープだ。オレもこれくらいは一人で作れるようになっている。それに食糧庫や冷蔵庫の中を見て、廃棄される食材を出さないように毎日のメニューを決められるくらいにはなっている。


 夕食を食べながら、バエルは今回のお出かけについて話してくれた。

 雑草の被害にあった農地はもちろん、周辺の農地も回ってきたそうだ。不思議なことに周辺の農地でも小麦を育てているが、まったく被害がないのだと言う。被害があった農地にだけ至る所に雑草が生えてきたが、そうでない農地は全く被害を受けていないという。

 そして、バエルもこの植物のことはよく知らないそうだ。どうやら昔、絶滅した植物に似ているらしいが、詳しくは調べてみないと分からないと言っていた。

 バエルは、他にもいろいろ話したそうにしていたが、謎の植物のことも気になるらしい。

 オレが片付けを引き受けると言うと、申し訳なさそうにしていたが、結局、謎の植物のことを調べるのを優先した。夕食を食べ終え、「ごちそうさまでした。美味しかったです」と言うと、研究室に潜ってしまった。

 忙しそうだが、オレに手伝えることは他にないのだろうか。あったら言ってほしい。

 まあそれでも、家事ができるようになっていてよかった。少しは役に立てるだろう。

 とりあえず、夕食の片付けだ。


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