第18話 悪魔になりたい(後)
バエルが淹れるコーヒーは美味しい。
バエルはドリップコーヒーが好きなので、この喫茶店にはドリップコーヒーの道具しかない。他にもいろいろ試したことがあるそうだが、結局ドリップに落ち着いたと言っていた。
オレはミルクも砂糖も入れるが、バエルは何も入れずに飲むブラック派だ。
オレがコーヒーを淹れることもある。
最初、オレはコーヒーの淹れ方もろくに知らなかった。おいしいコーヒーを淹れるには、コーヒー粉の粗さや、分量、お湯の温度や注ぎ方にもコツがあるのだと聞いたときは驚いた。そんなことも知らずにオレが淹れた最初のコーヒーは、苦くもなく香りもしない黒い色がついたお湯だった。
しかし、最近はバエルもオレの淹れたコーヒーがおいしいと言ってくれるようになった。
「お話」の合間に休憩することになったので、オレがコーヒーを淹れた。バエルは美味しそうに味わってくれている。
悪魔になる方法について、どう切り出そうかと思っていたが、やはりストレートに聞く以外思いつかない。
思い切って聞いてみた。
「私でも悪魔になれますか?」
「え? ええ。なれますよ」
こちらはドキドキしながら聞いたのに、バエルは世間話でもするように答えてくれた。
しかし、なぜそんなことを聞くのか、やはり気になるようだ。
「ケイさんは悪魔になりたいんですか?」
「はい」
「そうですか……。それで、なんで悪魔になりたいと思ったんですか?」
こちらはお願いをする側だ。問われるまま、悪魔に感じた魅力、それにバエルの役に立ちたいと思ったことを話した。バエルは、コーヒーを飲みながらオレの話を聞いていたが、聞き終わるとしばらく何かを考えていた。
バエルが考えている間に、魔王さまがテーブルの上に乗ってきた。寝そべって、オレたち方へ顔を向けている。オレたちの話に興味があるようだ。
「悪魔はそんなにいいものじゃありませんよ」
バエルは、口を開き、話し始めた。
「悪魔になるには、改造手術のようなものを受けてもらいます。悪魔は、元々人間です」
これはまた衝撃の事実が出てきた。
でも、そうなのか。もとは人間と言うなら、オレも悪魔になれるのか。
すこし視界が開けた気がしたが、バエルの話は終わっていない。
「悪魔の力は強大です。たいていの人間は悪魔になると、その力に溺れます。多くの悪魔は他の悪魔と関わるうちに力の使い方を学びますが、一部の悪魔は力に溺れたまま抜け出せません。そうなれば、人間にとってはもちろん、他の悪魔にとっても害悪でしかありません」
これは分かる気がする。人間でも昇進したとたんに部下に対して横暴にふるまうようになる奴はいた。
「まるで大きな子供です」
そうバエルは言う。力を使えば、大抵のことは自分の思い通りになる。そして、そのうちに、なんでも自分の思い通りにならないと気が済まないようになってしまうのだそうだ。
さらに、恐ろしいことには、いかに人格者であっても、実際に力を手にすると人が変わってしまうことがあるのだという。力に溺れ、力に酔いしれると、人間や他の悪魔を思い通りに支配できると思ってしまうのだろう。自分こそが正しいのだから、みんな自分に従うのが当然だと。
確かにそれは害悪でしかない。
「ですから、悪魔になったら、力に溺れないことを覚えなければなりません。そのことに失敗した悪魔は殺されます」
悪魔は他からの干渉を嫌う。これは以前バエルから聞いたことだ。
力に溺れて他の悪魔を思い通りに支配しようとしたら、当然、嫌がられる。支配したい悪魔と、干渉されたくない悪魔が出会ったら、最終的に殺し合いで決着をつけるしかなくなるというわけか。
「私たちもそんな悪魔を殺したことがあります。私たちが殺した悪魔は、自分の思い通りにならなくて、いつも怒っていましたよ」
彼女たちが同族を殺したと聞いても、オレは別に何も思わなかった。悪魔として生きるということは、そういうことなのだろう。
そして、オレが悪魔になれたとしても力に溺れたまま抜け出せなければ殺されるということだ。
「そして、もう一つ」
バエルはなおも続ける。
「おそらくケイさんの心には傷ついたままです。だいぶ回復しているようですが、そのまま力を持つことは危険です」
……例の事件のことを言っているのだろう。
自殺するまで追い込まれたのだ。今でも人間なんてうんざりだ。最近は、忙しかったが楽しかった。それで徐々に癒されていたのだと思う。
しかし、また以前のような生活をしろと言われたら無理だ。人間社会で生活することを考えると体が強張る。いつか戻れるようになるかもしれないが、今すぐは絶対に無理だ。
オレは、あの事件で服役して出所した後、他人の視線が気になりはしたものの、普通に暮らせているものだと思っていた。しかし、多分、そうではなかったのだ。体が強張るのに必死に気づかないふりをして、普通に生活が送れていると思い込んでいたのだ。
そして、結局、限界だった。気付かないふりをしていても、どこかで分かっていたのかもしれない。ついには、どうにもならなくなって、逃げ出して、誰も知らないところで死にたいと思ったのだ。
今、バエルに心が傷ついていると言われて、オレは改めてそのことを自覚した。今の今まで自分の心が傷ついているのに、そこから目をそらしていたのだ。我ながら能天気にも程がある。
同時にバエルのありがたさも理解した。この優しい悪魔は、オレに居場所と役割をくれた。オレの話を聞いてくれた。何もできないオレに丁寧に教えてくれた。一つ一つできることを増やしてくれた。
たぶん、バエルとの「お話」はオレのリハビリの一環でもあったのだろう。
確かに、心が安定しないまま力を得ても、また自分を傷つけるかもしれないし、他の誰かを傷つけるかもしれない。ひょっとすると力に酔いしれてしまうこともありうるのか。
――少し考え込んでいたようだ。
視線を上げると、バエルが心配そうにオレの様子をうかがっていた。
バエルには後で改めて助けてくれたお礼を言おう。そう思って話の続きをお願いした。
「それに、悪魔として生き続けるには、心の支えが必要です。生き甲斐と言ってもいいでしょう。私の場合は知の研鑽を積むこと。マモンくんは商売ですね。なにか生涯を捧げられるものがないと心が持ちません」
なるほど。それは今のオレにはないな。
「それに、悪魔は一人でも生きられるように作られてはいますが、実際一人で生きていくなんて地獄ですよ。私は魔王さまがそばにいてくれましたが……。そういうものがなかった悪魔は、結局自殺していきました」
バエルが、テーブルの上の魔王さまを撫でながらそう言った。
オレは悪魔について思い違いをしていたらしい。悪魔は能力が高く、不思議な力も使えるが、精神は人間とあまり変わらないようだ。力に溺れることもあれば、何か心の支えがないと生き続けられない。
それに、たとえ何かやりたいことを見つけたとしても、バエルのように永遠に何かに打ち込むということが、今のオレにできるのか自信がない。
「ここの暮らしが気に入ってくれてうれしいです。なんなら、ずっといて下さい。心の傷が癒えなければ治療もできますし、ここにいれば、何か生涯を捧げられるものも見つかるかもしれません」
そうバエルは続ける。
「だけど、私は今のあなたを悪魔にはしてあげることできません」
そう言われてしまったら、オレは納得するしかなかった。
魔王さまは、丸まってはいたが、ずっとこちらに視線と耳を向けていた。そして、話が終わると立ち上がって、伸びを始めた。背中に前足、後ろ足。魔王さまはよく伸びる。
魔王さまは、全身のストレッチを終えると、その場に座って「にゃあ」と一鳴きした。
ご飯をご所望のようだ。
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