第15話 魔王を怒らせた王様(前)
これは今から、数百年昔のこと。
一匹の猫と一人の娘が、とある屋敷のバルコニーに置かれた椅子に座ってくつろいでいた。
彼女たちは、のちに悪魔と呼ばれ、自分たちもそう自称するようになるが、この時はまだそうではなかった。
彼女たちが収まっている椅子はゆったりしているので、娘は椅子の上に胡坐をかいており、さらにその胡坐の上に猫を乗せて、丁寧にブラッシングしている。
ぷるるるるるるるるるるる
ふいに、後ろの棚に置かれた黒いガラス質の石板からそんな音が発せられる。石板の大きさは人間の手のひらほどで、長方形にきれいに成形されている。今、その石板には光る文字が浮かび上がっているが、それは人間たちが使っている文字ではない。
これは、娘の同族が互いに連絡を取るときに使う装置なのだ。この装置は同族の中で、黒曜石板とかオブシディアン・タブレットとか、あるいは単に石板とかタブレットとか呼ばれている。
「だれ?」
「おお、呼びかけに答えたぞ!」
娘が振り返りもせずに応答すると、装置の向こう側からと歓声が上がる。
「はぁ……」
ため息が出た。同族からの連絡ではなさそうだ。どういう経緯か、人間がオブシディアン・タブレットを手に入れ、通信を成功させてしまったらしい。
面倒だなと思った。タブレットは人間の手から回収しなければならない。あのタブレットは連絡以外にも用途がある。人間に持たせたままにしておくのは危険なのだ。
かといって通話口の向こう人間の相手をするのは面倒だった。これまでの経験から話の通じない手合いだろうと思われたからだ。
そんな思いとは関係なく、タブレットの向こう側からは仰々しい呪文のようなものが聞こえてきた。そして、最後に「我らの求めに応じその姿を現し給え!!」と声が届く。娘はもう一度「はぁ」とため息をついて、猫を抱っこしたまま椅子から立ち上がった。
「すみません。ちょっと付き合ってくださいね」
娘は猫にそう声をかけ、持っていたブラシを傍らに置くと、次の瞬間にはそこから姿を消していた。
その次の瞬間には、猫と娘はどこかの神殿か宮殿の大きな広間にいた。
ここに人間が使ったオブシディアン・タブレットがあるはずだ。
ところどころに置かれた燭台にロウソクが灯されているが、あたりはうす暗い。石で作られた太い柱が何本も立っており、暗さのせいで天井は見えないし、奥の方も暗くて見通せない。床は石で張られている。
そしてその石の床には、図形と人間の使う文字を組み合わせた模様が描かれていた。魔法陣と言うやつだろう。人間は魔法陣を使って精霊や悪魔を召喚できると信じているようがそんなことは出来ない。これはただの線と文字だ。魔法の力など籠っていない。猫と娘は単にオブシディアン・タブレットを回収するために自ら姿を現したのだ。
その目的のタブレットは魔法陣の中央に置かれていた。ちょうどいいから拾い上げて回収してしまった。
そして改めて辺りを見ると、魔法陣のすぐ外側には、男が立っている。男は白いヒゲをたくわえ、黒いローブに身を包んでいる。本物の魔術師がいたらきっとこんな雰囲気だろう。
周りには他にも人間がいたようで、娘たちが姿を現すと、数秒の静寂の後、次々と声が上がる。
「おほっ、いきなり現れたように見えたぞ!」
「成功したのか?」
「なんだ、猫と子供ではないか……」
「うへ。なかなか可愛らしい顔をしておる。用が済んだら儂の――」
「本当に願いを聞いてくれるのか?」
「マリードを呼んだのではなかったのか? あれではジンよりも弱そうではないか!」
皆好き勝手にわめいているし、中には聞くに堪えないセリフも混じっている。
やっぱりこういう連中だったか……。そう思った娘は、ゆったりとした動作で、空いているほうの腕を上げ、指を鳴らした。
パチッ
娘が指を鳴らした音が聞こえた直後。
ドッゴーンッ!
大広間に大轟音が鳴り響いた。
雷が落ちたわけでもなく、炸薬が爆発したわけでもないが、とにかく途轍もなく大きな音だけが鳴り響いた。
別に指を鳴らす必要などないのだが、誰がこの轟音を引き起こしたのか男たちに知らしめる必要があった。そのために、わざとゆっくりとした動作で指を鳴らしたのだ。
娘は早くも目の前にいる人間たちにうんざりしていたが、徒に人間を傷つけたいわけでも、命を奪いたいわけでもない。ただ、男たちがだれかれ構わずわめき散らかすのは止めたかったし、こちらの力も見せつけてやりたかった。こういった手合いは、丁寧に応対するとすぐにつけあがるので、力を見せつけてこちらの優位を確かにしておく必要があるのだ。
音ならば人間は驚くが、傷つくことはない。だから、こういう場合に好都合だ。もちろん、鼓膜が破れないように音の大きさを調整している。
果たして、目論見はうまくいった。
男たちは、一斉に口をつぐんだし、落ち着いた後は、恐ろしいものを見るようにこちらをうかがっている。
そうして、落ち着きを取り戻した男たちが目にしたのは、先ほどの轟音などなかったかのように、ゆったりとした豪奢な椅子に座ってくつろいでいる猫と娘だった。椅子など先ほどまでなかったのだが、轟音が収まった後には魔法陣の中心に置かれていた。娘はその椅子に猫とともに座っていた。ゆったりとした椅子で、小柄な娘ひとりと小さな猫一匹がくつろいで座るには十分すぎる大きさだ。
娘は、もうタブレットを回収してしまったので、さっさと帰ってもよかったのだが、人間は彼女の研究対象だ。話の通じない人間と関わるのは面倒くさいが、興味はあるのだ。
何か面白い話でも聞かせてくれたらいいな。そう思って、とりあえず話だけは聞いてやろうと場を整えた。
娘が場を整え、男たちが落ち着きを取り戻すと、男たちは、ひとまず安心したいのか状況の確認を始めた。
「おい、あちらからは本当に手出しができないのであろうな?」
「ははっ。先ほどは轟音が響きましたが、音だけにございます。実害は出ておりません。あちらからは手出しができない故のただのこけおどしかと。それに魔法陣の真ん中に陣取っているのを見るとあそこから出てこられないのだと思われます」
「そうかそうか魔法陣が効いているのだな。ガハハハハハ」
男たちは、取り繕おうともせずに、そんなことを話している。
それにしても都合よく適当なことばかり並べ立てている。男たちはこの魔法陣でこちらの動きや力を封じていると思っているようだが、もちろんそんなことはない。こちらは移動も攻撃も思いのままなのだ。
いちいち訂正する気もないので黙っているが、男たちが調子に乗るようなら次は閃光か軽い電撃でも食らわせてやるつもりでいる。
娘は、普段の丁寧な口調ではなく、できるだけ横柄に聞こえるよう、ひとこと言い放った。
「話だけは聞いてやる」
自分の声を大きく低く響かせることも忘れなかった。彼女たちの容姿を見て人間は舐めた態度をとってくるが、容姿に見合わない恐ろしげな声を響かせれば人間は勝手に誤解してくれるだろう。
男たちは、いきなりの大音声に戸惑っているのか、しばらく押し黙っていたが、やがて魔術師風の男が口を開いた。
「偉大なる御身にあらせられましては、我らが求めに応じ、ここにご来臨いただけましたこと。ひとまずは感謝申し上げます」
魔術師が仰々しく口上を述べる。
「卑賎なる我らに、まずは御身の正体をご教示願えませんでしょうか?」
そう聞かれたが、娘は何も答えずに頬杖をついた。
馬鹿正直に自分の正体を明かすつもりなどない。黙っていれば勝手に解釈してくれるだろう。
「イフリート……」
娘が黙っているので、男たちは勝手に解釈を始めたが、娘は答えるつもりはない。
「ではマリードであられますか?」
娘はまだ黙っている。猫は退屈そうにあくびをした。
そうして、むっつりと黙っているうちに、魔術師はこちらの機嫌を損ねたと思ったようだ。こちらをこれ以上怒らせないよう持ち上げてきた。
「よもや、御身はあのイブリースではございませんでしょうか。先ほどの大轟音といい、威厳のある御声といい、並みの妖霊とはとても思えませぬ」
イブリースとは、このあたりで信じられているジンと呼ばれる妖霊の中でも最高位の存在で、悪魔の王、魔王とも呼ばれる存在だ。
娘は当然それを知っているが、そのことについて否定も肯定もせずに、ようやく口を開く。
「それで、用件は何だ?」
これで男たちは娘たちのことをイブリースだと思い込んだはずだ。
向こうがそう期待しているのだからそれで問題ない。男たちは力の強い存在を召喚したかったのだろうし、自分たちの期待以上のものが現れたと勝手に思い込んだだけだ。
案の定、小さなどよめきとともに「本物のイブリース……」、「おそろしや」と言う声が聞こえる。
魔術師風の男も驚いてはいるが、疑ってはいないようだ。仰々しく用件の説明を始めた。
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