第12話 知らない悪魔について行ってはいけません
リクエストしていたシューズとウェアを用意してもらえたので、店の敷地の外の道を走ることにする。最近は昼間でも空気は冷たいくらいなので、ジョギングにちょうど良い。
この地獄の道路は車も通らないのに、なぜかアスファルト舗装されているので走りやすい。
走るのは久しぶりなので、ゆったりペースで走っていると、道端のベンチに美人なおねえさんが足を組んで座っていた。おねえさんは体のラインが強調されるようなニットとスキニーパンツを身に着けている。こんな所で何をしているのかと思って見ていたら、こちらに気付かれた。少し不躾に見すぎたかもしれない。
なんだか気まずいが、ここで引き返すのも不自然だ。だから、そのまま適当に挨拶をして通り過ぎようとした。
そうしたら、そのおねえさんに声をかけられた。
「ねえ。――。――。」
何と声をかけられたか全く覚えていないが、気付けば見知らぬ部屋でベッドの端に腰掛けている。そして、先ほどのおねえさんが目の前に立っている。おねえさんはチロリと舌を出して、自分の真っ赤な唇をなめてオレのほうに近寄ってくる。
このままではやばいと思ったので動こうとするが、なんだか頭がぼーっとしているし、身体が言うことを聞かない。
女はオレの肩に手をかけて、顔を近づけてくる。
「いっただきまーす」
そう言って、女は肩を押して、オレを押し倒した。
***
気付けば道端のベンチの前にいた。まだ頭がぼーっとするが、とにかく早く帰らなければならない。一時間ほど走って帰る予定だったのに、だいぶ遅くなってしまった。
そして、夕方になるころに店に帰り着いた。
ドアを開けると、魔王さまがバエルに抱っこされて、おとなしく爪を切られているところだった。ちなみにオレはまだ、魔王さまの爪切りは任せてもらえていない。
魔王さまは気持ちよさそうに抱っこされていたが、こちらに気付くと、目を見開き、口を半開きにして、おどろいたような表情をしていた。そして、バエルを見上げて「にゃ」と弱々しく一鳴きして、するすると腕から抜け出し奥のほうへ走って行ってしまった。
バエルは、魔王さまの行方を目で追っていたが、魔王さまが見えなくなると、向き直ってオレを一瞥した。
バエルは、オレを見て「ふーん」とつぶやいた後、厳しい表情になった。
「とりあえず、シャワーを浴びてきてください。それから服もすぐ洗濯です。念入りに洗ってくださいね」
バエルはそう言い置いて、そのままオレと視線を合わせることなく外へ出て行ってしまった。
言われた通り、服を洗濯機にかけた後、念入りに身体を洗ってから店に戻ると、ちょうどバエルが外から帰ってきたところだった。ところどころ服が破けてボロボロになっている。どうしたのかと聞こうとしたが、バエルは「ちょっとシャワーを浴びてくるので、コーヒーを淹れておいてください」とだけ言って、オレの前を素通りしてそのままバスルームに向かっていった。
***
「ちょっとそこに座りなさい」
シャワーを浴びて戻ってきたバエルに席に着くよう言われた。用意していたコーヒーを持って、おとなしく席に着く。
「ごめんなさい」
「なにについて謝っているんですか?」
席に着くや、頭を下げて謝ったら、間髪入れず言い返されてしまった。
怖い。
不潔な男は生理的に受け付けないと怒っているのではないのだろうか?
そうであれば謝ったところで許してくれるつもりはないのかもしれない。それでもなんとか許してもらいたいが、どうしたら許してもらえるだろう。
オレが何も言えずに黙っていると、バエルはコーヒーを飲んで一言言い放つ。
「ゲロマズですね」
確かにオレはいまだにバエルのようにコーヒーを上手に淹れることができない。オレが淹れたコーヒーが不味いというのなら甘んじて受け入れるしかない。
「面目ない……」
それしか言葉が出てこなかった。
再び沈黙が続いたが、その間もバエルは自分が不味いと言ったコーヒーを飲むのをやめない。しかし思う所があったようだ。
「あー、こういうときにコーヒーを飲んでも味が分からないんですね。初めて知りました……」
気まずそうに言って、さらに続ける。
「コーヒーに罪はありませんから」
そうして、気を取り直したのか話し始めてくれた。
「今回は我々も迂闊でした。身の安全を保証すると言ったのに、一つ間違えばひどいことになっていたところです」
バエルによると、あの女は色欲の悪魔なのだそうだ。オレには名乗らなかったが、名前をリリスといい、それはもう淫乱なやつなのだという。ここ何十年かこの地獄には姿を見せなかったが、地獄に帰ってきてすぐにオレの前に姿を現したのだそうだ。
それで、あの悪魔が恐ろしいのは、求めた分だけ求めてくるところ、なのだそうだ。
うーん。よく分からない。求めた分だけ返ってくることの何が恐ろしいのだろうか。オレがピンとこないでいると、バエルはいつにない強い口調で説明してくれた。
「分かっていないみたいですね。今回は向こうも遊びだったからこれくらいで済んだんです。人間の体力には限界がありますが、向こうは体力が無尽蔵の悪魔ですよ。それに、あの悪魔に魅了されて抗えましたか? あの悪魔に魅了されたら、体力が限界でも心は求めてしまうんです。そして求められた分だけあの悪魔も求めてきます。そうして――」
そこまで一息で言い切った後、バエルはいったん言葉を区切ってから、脅すように続けた。
「干からびるまで、搾り取られます。……これは比喩じゃないですよ。文字通り物理的に干からびます」
身震いがした。そして同時に理解できた。オレは本当に迂闊だったし、バエルはオレのことを心配してくれていたのだ。今度こそ、きちんと謝ることができる。
「本当に迂闊でした。余計な心配をかけてしまってすみません」
「はい。本当に危なかったんですよ」
バエルは、安心したようにそう言って、笑ってくれた。
「そういえば、服がボロボロになっていたのはどうしたんです?」
「ああ、ちょっとお仕置きをしてきたんです」
気になっていたことを尋ねると、バエルは事も無げに答えを返してきた。
聞いてみると、あの女に物理的な制裁を加えてきたらしい。服がボロボロだったのは、ちょっとやり返されたからだというが、「最終的にはちゃんと懲らしめてきました」と言われてしまった。
さらに詳しく聞いてみると、あの女をこの地獄からたたき出して、再び入ってこられないように「権限」を剥奪しようとしたら思わぬ抵抗を受けて、手を出してしまったそうだ。
悪魔は他人の決めたルールになど従わない。そんな悪魔に「お願い」を聞いてもらうには、契約を結んで取引するか、暴力などで無理やりいうことを聞かせるか、二つの方法しかないのだという。もっとも、暴力に訴えても頑丈な肉体のせいで、あまり効果はない。そのため、仲が悪い悪魔はお互いに不干渉になるのが普通なのだそうだ。
バエルは実はこの地獄の管理者もしているそうで、今回、言うことを聞かせるために、権限の剥奪という形をとったらしい。
なにはともあれ、あの女が今後オレの前に現れることはないと断言された。
「魔王さまにもちゃんと謝るんですよ。毎日、魔王さまがマーキングしてくれていたのに、あんな女の匂いをべったりつけて帰ってくるなんて」
そういえば魔王さまは毎日オレに身体をこすりつけていた。親愛の表現かと思っていたがそれだけではなかったらしい。バエルによると魔王さまが匂いをオレ摺りこむことで、他の悪魔はオレが魔王さまに親しい関係者だと分かるのだという。
「ん? そうすると襲われないはずじゃ……」
「あー、あのインラン悪魔は、ケイさんが魔王さまの縁者だと分かっていて、わざと襲ったのかもしれません」
バエルはちょっと気まずそうに教えてくれた。
あのインラン悪魔は、魔王さまのことが大好きなのだそうだ。魔王さまと遭遇するとしつこく構おうとしてくるので、魔王さまのほうは、あのインラン悪魔のことは好きではない。バエルの推測によると、あのインラン悪魔はオレから魔王さまの匂いがしたので、魔王さまの持ち物にちょっかいを出せば、魔王さまに構ってもらえると思ったのではないかという。
「それが本当なら、むしろオレは被害者では?」とか思ったが口には出さない。
彼女たちにしても想定外だったのだし、オレは知らない悪魔に声をかけられてもついて行ってはいけなかったのだ。
***
魔王さまは、いつの間にかカウンター席に寝ころんでいた。
先ほど探しても見つからなかったから、どこかに隠れていたのかもしれない。
魔王さまは、寝ころんだままオレのことをじっと見ているが、逃げようとはしない。
ゆっくり近づいて、指を差し出してみたら、両手でガッとつかまれ、ガシガシとかじられた。血は出なかったが、ものすごく痛い。涙が出てきた。
ひとしきり指をかじって気が済んだのか、指を解放してくれた。
「迂闊でした。ごめんなさい」
魔王さまにも謝罪して、頭に手を置くと大人しくしている。魔王さまはそのまま撫でさせてくれた。撫でるのをやめようとしたら、もっと撫でろと視線で訴えられた。オレは魔王さまを膝にのせて、魔王さまが寝入るまで撫で続けた。
***
「お守りです」
翌日、バエルがそう言って、ネックレスを差し出してきた。
なにかの宝石をはめ込んだ小さなトップに、細めのチェインを通したシンプルなものだ。アミュレットともいうらしい。肌身離さずつけていれば、オレに危険が迫ったときに助けてくれるという。
オレはアクセサリなんて結婚指輪くらいしか着けたことはなかった。離婚したので、今はアクセサリの類は何も身に着けていない。
だが、これはありがたく身に着けようと思う。地獄では、オレは一番の弱者なのだ。バエルにお礼を言うと、背中に回って留め具を止めてくれた。留め具を止め終わると、バエルはそれを知らせるようにオレの背中をポンポンとたたきながら言う。
「絶対に外しちゃだめですよ?」
ええ、外しませんとも。
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