第5話 悪魔と契約する

 コーヒーのお替りを淹れてくれるというので、猫を眺めながら待っていた。

 猫はとても気持ちよさそうに寝ている。呼吸に合わせて胸が上下するのに見入ってしまう。ただ寝ているだけなのに目が離せないのはなぜだろう。


「猫、お好きですよね」


 新しいコーヒーカップを置きながら女が言った。

 顔が緩んでいたのかもしれない。

 好きだと言ってしまってもよかったが、からかわれるものイヤだと思って、コーヒーに口をつけてごまかした。

 すると、女は「それで、契約の話をしたいのです」と言って話題を切り替えた。


「あなたには、この猫ちゃんのお世話と、私の話し相手をしてもらいたいと思っています」

「猫の世話はわかりますが、話し相手というのは?」


 猫の世話はやったことないが、まあ教わればできるだろう。しかし、こんなおっさんに若い女性と茶飲み話で盛り上がれというのだろうか。

 そう思ったら、女はまた話題を切り替えた。


「その前に、自己紹介がまだでしたね。こちらの猫ちゃんは魔王さまです。とっても強いんですよ。そして、私はバエルと言います。自分で名乗るのは烏滸がましいのですが、知恵の悪魔を名乗っています。」


 女は猫を撫でながらそう言った。続けて、「バエルなので、バーちゃんと呼んでくださいね。見た目通りの年齢ではないですし」とか言っていたが、これは無視でいいだろう。


 それはさておき。

「私は人間に興味があるのです」

 女はそう言って、「話し相手」について説明してくれた。どうやら、自己紹介は「話し相手」の説明をするために必要だったらしい。

 というのは、この知恵の悪魔は、オレに、茶飲み話ではなく、オレから人間についての情報を得ること。オレと議論して自らの知見を深めること。この二つを求めているそうなのだ。

 話題は、人間に関することならば何でもいいらしい、それこそ、世間話でもいいし、人間社会や科学技術、政治、経済なんでもだ。

 そんなの茶飲み話どころではない。とんでもなく高度なことを求められていた。知恵の悪魔というくらいだから、知能も知識も相当なもののはずだ。


「書物もいいんですが、誰からの意見を聞くのも面白いですからね。それに、いろんな視点を持たないとバカになっちゃうので、たまにこうして人間に話を聞いているんです」


 この知恵の悪魔は、その名の通り、知恵に関して貪欲で、真摯で、志が高いようだ。オレで大丈夫なのだろうか。


「それになりの知能や経験は必要ですが、誰でもいいというわけではないですよ。人間は大きな挫折を経験しないと、真摯に他人と向き合うことができないらしいですから」


 挫折という言葉で匂わせているあたり、オレのことは調べているようだ。オレのことを招くつもりだったと言っていたし、最低でもあの事件のことや、オレの経歴、知能レベルくらいは知られていると思ったほうがいいだろう。


「もっとも、挫折しても、意固地になって、ますます他人に向き合わなくなる人も多いようですけど……。その点、あなたは私の話もきちんと聞いてくれていますし。合格です」


 目の前の悪魔はにっこりと微笑みながら、オレに合格を告げた。知らない間に試されていたらしい。

 この悪魔はたまに人間と直接会って、話をしているそうだが、どれだけ博学で知能が高くても、話を聞かない輩だったら、さっさと話を切り上げてしまうのだという。

 オレは別に博学でもないし、とびきり知能が高いわけでもない。しかし、話しを聞いたり聞かせたりするくらいはできるだろう。

 人と話していると予想外のことを思いつくこともあるし、人に教えることで自分の理解も深まる。この悪魔がオレに求めているのはそういう関係なのだろうか。それならばオレでもこなせるかもしれない。

 悪魔に確認してみると「そういう理解で構いません」と返ってきた。


 こちらが引き受けそうだと思ったのか、悪魔は話を進める。

「対価として、この地獄にいる間の衣食住と、身の安全を保証します。それに、ここを出て行くときにはまとまったお金をお渡ししましょう」

 死んでいたところを再生させられたのだから、てっきり「あなたは私の所有物です」くらいのことは言われるかもしれないと思っていた。そうしたら、破格の報酬を提示された。

 さらに詳しく聞いてみると、労働時間も無理はさせないし、しかもイヤになったらいつでも出て行ってもいいという。

 さすがに話がうますぎる気がする。


「ウラがあるのではないかと疑っています」

「なるほど……。では、契約書を作って、違約条項を盛り込みましょうか」


 切り込んでみたら、あっさり切り返されてしまった。

 そこで気付いたのだが、約束が破られても、オレにはこの悪魔に制裁を加える手段なんてない。それに悪魔との契約で裁判所に駆け込むなんてできないだろう。だから、これに関しては、オレが折れるしかない。

 それにオレはその時にはもう、別に契約しても構わないとも思っていた。

 条件は、――ちょっと怪しいところを除けば――文句はない。それに、この悪魔は人をからかってくるが、悪い奴ではなさそうだ。なにより、一度ひどい死に方をしたのだから、あれ以上のことはそうそう起こるまいと思ったのかもしれない。


 契約で構わない。そう思ったが、そこでふと、さんざんからかわれた仕返しをしたくなった。

「もし契約しないといったら?」

「契約してもらえないのなら仕方ないです。お好きなところまでお送りしてもいいですが、傷が癒えるまではこちらに滞在するのがいいかもしれませんね」

 残念そうにそう返してきた。傷は治療してくれたんじゃなかったっけと思っていたら、続けて言われる。

「もっとも、丸焦げの肉団子になって地獄の門の底に戻りたいというなら、それでも……」

 また物騒な冗談を言われた。

 この悪魔は、たまに物騒なことを言ってくるが、本気ではないのは分かる。人をバカにするわけでもなく、嫌な感じもしない。純粋にいたずらを楽しんでいるようだ。人をからかうことに関して、オレはこの悪魔に勝てそうにない。

 まあ、ともかく、この悪魔は、オレに居場所と役割を与えてくれると言う。それにオレのことを色眼鏡で見ずにまともに扱ってくれている。

 だからだろうか、自殺してしまうほどに生きるのが嫌だったはずなのに、この時には、オレは死にたいとは思っていなかった。

 丸焦げの肉団子なんて嫌なので、顔をしかめてイヤそうな表情を作ると、悪魔は嬉しそうにしていた。


「すみません。とりあえず、基本は合意です」


 手を差し伸べて合意を告げると、悪魔はにっこりと笑って、握手を返してくれた。


「にゃ」


 テーブルの下から鳴き声がしたので見ると、いつの間にか魔王さまがオレの足元に座ってこちらを見上げていた。

「膝にのせてあげてください」と言われたので、椅子を引いてスペースを作る。すると、魔王さまは飛び上がって、ちょうどよくオレの膝に収まった。

 撫でてもいいだろうかと思って、魔王さまの鼻先に手をもっていくと、魔王さまは、自らの頭をオレの手にこすりつけてきた。これはかわいい。

「私の膝だと狭いみたいで、あまり乗ってくれないんですよ。そこだとちょうどいいみたいですし、これからよろしくお願いしますね」

 というわけで魔王さまとも契約成立らしい。猫は人見知りすると聞いていたので不安だったのだが、魔王さまはすんなりと受け入れてくれた。


 魔王さまと悪魔とオレとで、これからよろしくとなったところで、オレの名前に話題が移った。

 マスコミのせいで、オレの本名は悪評にまみれてしまった。それに、オレのことを偏見でしか見ないヤツらを思い出すので、本名で呼ばれるのは嫌になっていた。


「一度死んだ身ですから、好きに呼んでください。本名以外で」

「では、ケイさんとお呼びしますね」


 本名は嫌だと言ったら、悪魔はあまり考えることもなく、オレの呼び名を決めてしまった。

 Kはオレのイニシャルでもないが、どこから持ってきたのだろう。聞いてみると、「なんか思いつきました」。だそうだ。

 まあ別に否はない。ここでのオレの呼び名は「ケイ」に決まった。


 契約の細かい内容は、後日打ち合わせることにして、夕食を取ることになった。

 献立は、喫茶店らしく、カレーとサラダだった。サラダは山盛りだった。

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