第3話 悪魔は笑う
「とりあえず、そちらにどうぞ」
そう言って勧められた席は、猫と同じテーブル席だった。四人掛けのテーブル席の猫の対角線上の席だ。
女はオレが席に腰掛けると、目の前にお冷とおしぼりを出してくれた。注文は聞かれなかったが、女はコーヒーを淹れてくると言ってカウンターの中へ戻っていった。
あちらが招いたというのなら、最低限のもてなしは期待してもいいだろう。そう半ば開き直って、店の中を観察することにする。
店には三人くらいが座れるカウンター席と四人掛けのテーブル席が三つほどしかないが、テーブルも大きめで、席の間の空間は広くとられている。全体的にゆったりとした居心地の良いつくりになっている。壁際には暖炉があり、暖炉の前の空間も広くとられている。カウンター席の向こうが厨房になっている。
先ほど久しぶりの客だと言われたが、店内は掃除が行き届いていて清潔感がある。客が来ないからといって、掃除もせずにほったらかしにしているわけではなさそうだ。
店の奥のドアに目をやると、ドアに取り付けられたガラス越しに本棚が見えた。ドアの向こうは薄暗くなっているが、大きな本棚が連なっている。奥にはかなりの面積の書庫が広がっているようだ。
オレが観察している間に、コーヒー豆を挽く音が聞こえていたし、コーヒーの香りもただよってきた。どうやら本格的なコーヒーを用意してくれているようだ。
向かいの席の猫は毛づくろいを終えたようで、丸まって寝息をたてはじめた。
「お待たせしました」
おしぼりで顔と手を拭いて、お冷を口に含みながら猫を眺めていると声がかかり、テーブルにコーヒーカップが二つ置かれた。
そして、女は猫の隣の席、つまりはオレの正面の席に腰かけた。自分のコーヒーも用意しているので、コーヒーを飲みながら説明してくれるつもりらしい。女は、カップに顔を近づけてコーヒーの香りを吸い込んでから、一口くちに含んで堪能した後、飲み込んで「ふう」と息をついた。コーヒーが好きなようで、実においしそうに飲む。
「コーヒーがお好きなんですね」
そう聞いてみた。
「はい。コーヒーこそ悪魔にふさわしい飲み物ですからね。これも私が配合したディアボラ・ブレンドです」
ニコニコ笑いながら答えてくれる。
「ディアボラ……」
確かディアボラは外国の言葉で「悪魔の」とか「悪魔風」という意味だったはずだ。それにしても、また、悪魔にディアボラか……。そういえば、コーヒーは今のように全世界に広まる前は、気味悪がれ、悪魔の飲み物と噂されたこともあったと、昔、なにかの本で読んだことがある。なんでも真っ黒な色や独特な香りが悪魔のようだと考えられたのだとか。
「冷めないうちに召し上がってくださいね。香りが飛んでしまうともったいないですから」
女がそうと言ってコーヒーを勧めてくれたので、ミルクと砂糖を加えて飲んでみると、確かにおいしい。
女はオレがコーヒーを堪能しているのを見て満足そうにしている。女はこちらの反応をうかがって楽しんでいるようで、まだ説明を始めてくれる様子はない。コーヒーを飲みながら、片手で猫を撫で始めた。
それにしても地獄とか悪魔とかアピールがすごい。先ほども女は「コーヒーこそ悪魔にふさわしい」と言っていた。自分のことを悪魔と言っているのだろうか?
しかし、これほど平和な場所が本当の地獄であるとは思えない。それに黒猫を飼っているのも、悪魔を自称することも露骨すぎる。目的はわからないが、本当は地獄ではない場所を地獄であると信じこませたいのかもしれないと思えてくる。
「ここは地獄なんですか? 先ほどは招いたと聞こえたんですが」
「ええ、ここは確かに地獄ですよ。ただし、死後の世界ではありません」
人を食ったような答えを返された。
「私は死んだと思ったんですが……」
「ええ、お迎えに行こうと思っていたら、自殺してしまうものだからびっくりしました。死んでしまったあなたをここに運んで、蘇生しました。いや、すでに死んでいたから再生というのが正しいかもしれないですね」
オレが一度死んだのは間違いがないようだ。
しかし、死んだときの記憶が欠落している。身を投げた記憶はあるが、痛みも苦しみもまるで記憶にない。
「私は本当に死んだんですか? どうもそのあたりの記憶があやふやで……」
「あら、そうなんですね……。うーん、おそらくですが身を投げたときに熱気と煙のせいで意識が飛んでいたのかもしれないですね」
丸焦げのミンチになってしまったら、流石に生き返らせることは出来ないと言う。
クレーターを滑り落ちていく途中で拾い上げてくれたらしいが、それでも全身は焼け爛れ、心臓は止まっていたと言う。
「あんなの絶対記憶に残らないほうがいいですよ」
それほど酷い状態だったらしい。
それはそうとして、地獄というのは死んだ後に行くところではなかっただろうか? しかし女は、ここは死後の世界ではないと言う。
これは、わざわざ生き返らせて、なおも生きて地獄を味わえということか。それとも、このゆるい雰囲気で油断させておいてさらにひどい目にあわせるつもりなのだろうか。オレの前世――一度死んだのだから前世でいいだろう――は、奪われ、裏切られ、最悪の終わりを迎えたので、これ以上は正直勘弁してもらいたい。
……まあ、そうは思っても、今のオレにはどんな選択肢があるのかも分からない。本当に分からないことだらけだ。
「それで、私はこれからどんな罰を与えられるんです?」
投げやりになって、そう聞いてみたら、女は一度驚いた顔になったが、そのあとすぐにオレから顔を背けて肩を震わせている。どうやら笑いをこらえているようだ。
それからしばらくして、女は笑いが収まったのか、こちらにまじめな顔を向けて、こんなことを言い出した。
「はい。ここは地獄で、私は悪魔ですからね。あなたの罪に応じて罰を与えなければなりません」
笑われたり、脅されたりして、オレはきっとおかしな顔をしていたと思う。
「冗談です。大丈夫と言ったでしょう」
女は、今度はクスリと笑いながらそう言った。
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