第2話 地獄の喫茶店

 ふと気付くと、地図が描かれた看板の前に立っている。

 あたりを見渡すと森と山が見える。森の中に住居らしき建物も何件か建っているようだ。見知った場所ではないが、高原の別荘地という風情だ。


 しかし、オレは死んだはずだ。


 オレの身体はミンチになってクレーターの底でこんがりグリルにされてしまったはずだが、この体にはケガも火傷もない。目は見えるし、身体もちゃんと動く。髪の毛やヒゲは燃えてしまったはずだが、頭に触れるとフサフサとした感触がある。一方で口元を触るとひげはなかった。剃った直後のようにツルツルしている。

 服は燃えてしまったはずだが、こざっぱりとした服を身に着けている。オレの持ち物ではないが誰か着せてくれたのだろうか。

 そして、足元には置いてきたはずのバックパックが置いてある。中を覗くとオレの財布にスマホとタブレットが見つかった。財布の中に現金はないようだから、無事ガイドの男に渡ったのだろう。

 スマホで日時を確認すると、オレが身を投げてから数日経過していた。そして時刻は午後三時を回っている。

 地図アプリが使えればここがどこか分かるかと思ったが、電波が届いていないためか「位置情報が取得できません」と言うメッセージが表示されるばかりで使えなかった。


 次いで、目の前にある地図を見てみる。この地図はなぜかオレの母語で書かれているので問題なく読める。

 道路と建物の案内が表示されていることからすると、住宅街の地図のようだ。

そして、大きく丸みを帯びた文字で地区の名前が大きく表記されている。


「地獄一丁目」


周囲は閑静で地獄と呼ぶのに全くふさわしいとは思えないが、地図の表記に従えば、どうやらこの辺りは地獄という地区の一丁目らしい。


 どういうことだろうか? 

 説明は二通り思いついた。一つは夢か幻覚を見ているというもの。もう一つは、ここが本当に死後の世界だというものだ。


 夢だとすると、いつから夢を見ていたのだろうか。まったく分からない。

 一方、地獄だとしても、言い伝え通りではないようだ。幼いころ祖父母から聞いた話によれば、死んだら裁判にかけられて、地獄で拷問のような刑罰を受けることになるはずだ。

 しかしあたりは至って長閑である。日差しは暖かく、森から吹く風も気持ちがいい。鳥のさえずりも聞こえている。

 もしかすると地獄というのは間違いでここは天国なのかもしれない。地獄の門の先が天国というのもおかしな話だが、うまい説明は思い浮かばない。

 訳の分からないことだらけだが、ここにいても埒が明かないことだけは分かる。


 とりあえずあたりを散策してみることにして、バックパックを背負った。

 地図をみると近くに喫茶店があるようだった。ひとまずそこへ向かうのがいいだろう。喫茶店ならば、人もいるだろうし何かしらの情報も手に入るはずだ。


 道路に案内の看板が出ていたので、喫茶店はすぐに見つかった。看板によると喫茶店の名前は「Hell」というらしい。

「地獄一丁目」もそうだが、「Hell」って……。一体だれが名付けているのだろうか?

 ここがオレの夢の中だとすると、「地獄一丁目」も「Hell」もオレのセンスということになってしまうが、そうではないと信じたい。


 気を取り直して進んでいくと、森の中にちょっとした庭があり、その奥に喫茶店「Hell」があるのが分かった。木と漆喰のしゃれた洋風の建物だった。

 ドアには「OPEN」のプレートがかけられている。ちゃんと営業しているようだ。よかった。


 さらに近づいたところで気付いたのだが、ドアの前には黒猫がいる。体毛は黒一色だが短めで、つやつやした毛並みのきれいな猫だ。

 座ったまま身じろぎ一つしなかったので、先ほどまで猫の置物だと思っていた。ちょうどあくびをしたので本物だと気付けたのだ。

 猫はひなたぼっこをしていたようで眠そうに座っている。


 喫茶店で飼われている猫だろうか。

 ともかく地獄で出会った最初の生き物だ。

 黒猫は不吉だという人もいるし、猫は悪魔の使いだという迷信も聞いたことがある。信じるわけではないが、敵対するのはよくないと思う。

 何よりかわいいらしいし、友好的にいきたい。


 それで、猫と仲良くするにはどうするのだっけ?

 たしか視線を合わせずに、近づいてくるのを待つのだったか……。

 オレがそんなことを考えていると猫もこちらに気づいたようだ。猫はこちらを一瞥すると、背を向けてドアの前まで歩いて行って、座りなおした。

 どうしたのだろうかと思っていると、こちらを振り向いて「にゃあ」とひとなきした。

 たぶん、ドアを開けろということだろう。猫はこちらが動き始めるのを流し目で確認するとドアに向き直った。


 猫に求められるままドアを開くと、ドアに取り付けられたドアベルがカランコランと鳴り、猫は少し空いた隙間からするすると中に入っていった。

 続いて中に入ると、猫は日当たりのいい席の上に飛び乗ったところだった。

 まだ若いようだが、とても賢い猫だ。そしてひとつひとつの所作から目が離せない。あくびも流し目もジャンプする姿もどれもが印象に残る。

 動きは軽やかだが力強さも感じる。猫ってこんなにもきれいな生き物だったっけ……。


「いらっしゃいませ」


 猫が毛づくろいを始めるのを眺めていたら、店の奥から声がかかる。

 声のしたほうを見ると店員らしい若い女性と目が合った。

 小柄で線の細い、若い女だ。短めの黒髪を後ろでまとめて、清潔感のある白いブラウスにふんわりとした膝下丈のスカート、それに黒い腰エプロンを身に着けている。


「久しぶりのお客様です」


 女はそう言って、目を細めて微笑んだ。


 ……さて、いろいろ尋ねようと思ってここに来たわけだが、いざとなると何から質問すればいいのか分からなくなってしまった。

 そもそも喫茶店でものを尋ねるのならば、何か注文するのが礼儀だろう。そうすると支払いをしなければならないが、現金はガイドのために置いてきてしまった。カードとか使えるだろうか。

 それに、ここがどこか聞きたいが、いきなりそんなことを聞いても相手を混乱させてしまうかもしれない。とにかくよく分からない状況なので、助けてくださいと言ってしまおうか。

 ……いろいろ聞きたいとこが浮かんでくるが、何から聞けばいいのか分からない。


 それで、考えがまとまらないうちに何か話そうとして、もごもごと言葉にならない声を発してしまった。恥ずかしい。何でもないかのように取り繕ったつもりだが、どう映っただろう?

 女は特に気にしたふうでもなく。こちらを安心させるように微笑んで言った。


「大丈夫ですよ」


 そして、その後、ふっと悪戯が成功したような楽しげな表情になってこう続けた。


「だって、ここにお招きしたのは私ですから」

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