第4話 踏み台 ブラッシュアップ不足バージョン

 今日もまた浜辺さんに会える。そう思うだけで、朝は素晴らしいものになった。元来、僕は寝起きの良いほうではないが、この朝は目覚めた瞬間からテンションが大気圏を突破していた。

 僕は、パジャマを高速で脱ぎ捨て、パンツ一丁になった。それから、カーテンを開け、清々しい朝日を素肌に浴びた。

 僕の自宅が山奥などに位置するポツンと一軒家であったならば、僕は窓を全開に開き、声の限りに叫んだだろう。「浜辺さん、好きだ!」と。しかし、僕の自宅は住宅街の一画に位置している為に、僕は自重し、心の中だけで、「浜辺さん、好きだ!」と叫ぶに止まった。

 意図せず、スクワットをしてしまう。寝起きである。僕は、自分で自分の行為が信じられなかった。

 僕は、制服に着替え、一階へ下りた。入室したダイニングからは、キッチンで朝食の用意をしている母の姿が見えた。

 「おはよう、母さん。朝早くから食事の用意をしてくれて、ありがとう。愛してるよ」

 浜辺さんと付き合う前だったら決して言えなかった、愛してる、という言葉をさらりと言えた。恋は人を優しくする魔法なのだと、僕は実体験として知った。

 母は驚いたような顔をして、それから、「ありがとう、潤」と言って微笑んだ。

 「朝食の用意、手伝うよ」

 僕は母の隣に立ち、ケーキナイフを手に取り、出来合いのキッシュを切り分けた。

 母と一緒に朝食の用意を進めていると、父と妹が同時にダイニングに入って来た。

 「父さん、陽菜、おはよう。素晴らしい朝だね。愛してるよ」

 愛してる、の声に動揺を示しながらも、父は微笑んで、「ああ、おはよう。今朝は早いね、潤。それに、朝食の用意の手伝いをしているなんて、偉いじゃないか」と言った。それから、父はコーヒーマシンを使ってカフェラテを淹れ、ダイニングチェアに腰掛けた。妹はというと、僕の声を完全に無視して、早々にダイニングチェアに着席していた。

 「お父さん。左耳の下にシェービングフォームの泡が付いてるよ」妹が優しい声で指摘した。

 「そう?」父は左耳の下をティッシュで拭った。「どう? 全部取れた?」

 「うん。取れたよ」

 「陽菜。僕のほっぺにも食べ物汚れが付いてたりしてないか、見てくれよ。さっき、キッシュをつまみ食いしちゃってさ」

 妹は、嫌悪に満ちた目を僕に向け、「絡んでくんなよ」と言い放ち、それから、父に笑顔を向け、楽しそうに学校の話などを始めた。

 父と兄を露骨に差別する憎たらしい妹。そんな彼女に対してさえ、僕は愛情に満ちた微笑みを向けることが出来た。浜辺さんに愛されている、その事実を噛み締めさえすれば、僕は世界中の全てを無条件に許し、愛することが出来るのだった。

 キノコ、ホウレンソウ、カボチャの三種のキッシュ。生野菜と卵焼き。それから、コーンポタージュ。それらの朝食を、家族四人で食す。慣れきってしまって有難味の薄れていた家族団欒に、新鮮な息吹が注ぎ込まれる。恋に満たされた心は、刺激のない平生さえをも幸福の楽園に変えた。幸せを咀嚼するようにして、僕は食事を進めた。

 朝食を済ませてからは、入念に歯を磨き、洗面化粧台の鏡を使って身だしなみを執拗に整える。妹に洗面化粧台の使用を譲ってからは、玄関の姿見を使って身だしなみを整え続けた。そうして、登校の時間が来て、僕は前髪の流れに若干の不満を懐きつつも家を出た。

 「陽菜。気を付けて行くんだよ」

 一緒に家を出た妹に向かって、僕は言った。妹は僕の声を無視し、歩き出した。朝日が差して、妹が身に纏っている小畑新町中学校の制服の紺色が映えた。

 僕も歩き出す。君ヶ浜高等学校への、通い慣れた通学路。その道程が、浜辺さんへと続く愛のトンネルであるかのような錯覚を感じ得て、僕の心は陽気に踊り、足取りは花の妖精のように軽やかに舞った。

 五月のまだ肌寒い朝風に吹かれてさえ、恋に浮かれて熱を帯びた体は上気し続けた。幸福の熱量がそのまま活力に変換されて、僕は生れて初めて、生産的な意欲を有して学校へと向かえた。幸福の熱量がそのまま慈善へと変換されて、僕は生れて初めて、赤の他人である道行く人々の幸せを願えた。恋は、僕を上質な人間に変えてくれた。

 「浜辺さんと付き合えて、本当に良かった」

 僕は自らの幸運を強く認め、拙いフランス語で愛の賛歌を口ずさみながら、喜びに満ちた通学路を行った。

 

 僕と浜辺さんの愛の箱庭、2年D組の教室。クラスメイトの半分以上は、もう教室に居たけれども、僕の目はすぐに、浜辺さんを見つけられた。浜辺さんは、昨日よりも更に綺麗になっていた。

 浜辺さんの美貌に圧倒されて、僕は糸の切れた操り人形みたいになり、教室の入り口で尻餅をついた。

 僕に気付いた浜辺さんが、近付いてきて、前屈みになり、艶やかな唇を動かす。

 「大丈夫、花井君?」

 降り注ぐ浜辺さんの視線は、僕のMな部分を刺激した。視姦の魔力が性感に絡みついて、僕は辛抱堪らず身をよじった。

 浜辺さんに見下ろされる快感に別れを惜しみつつも、僕は立ち上がった。そうして、「大丈夫だよ、浜辺さん」と震える声を発した。

 浜辺さんは僕の目をじっと見詰めた後、照れたように微笑み、「おはよう、花井君」と囁いた。その囁きに耳を犯されて、僕は文字通り骨抜きになった。弛緩する足腰に鞭打って、どうにか立った状態を維持する。そうして、僕はふやけた表情筋を引き締めて、よれよれの微笑みを拵えた。

 「おはよう、浜辺さん」

 まだスズメの鳴き声も聞こえる朝の時分に、おはよう、と言い合える至福。官能の残影が差して、そのかすかな光は僕の性を照らし、淫らを暴いた。僕は、ここが学校であることを失念して、二人きりの寝室で恋人に向けるような眼差しを浜辺さんに向けた。

 色欲が、浜辺さんの頬を染めた気がした。

 クラスメイトの女子が、浜辺さんを呼んだ。浜辺さんはその声に応え、僕から遠ざかっていった。

 僕は、情愛に酔った千鳥足で自分の席まで歩いていき、それに腰掛け、甘い吐息を漏らした。そうして、教壇の近くでクラスメイトと談笑している浜辺さんを見詰める。彼女の何気ない一挙一動が、僕の網膜を愛撫する。時折、目が合って、浜辺さんの瞳に恋慕の火が灯っているのが分かって、僕は増々、浜辺さんに見入った。

 織女星を見詰める彦星の眼差しに負けないくらい、僕の眼差しは真摯だった。真摯が過ぎて、僕の精神は恋の宇宙へと迷い込み、心地好い無限を漂った。

 「よお、花井君・・・・・・花井君ってば!」

 不意に声を掛けられて、僕は正気に返った。それから、声の主に目を向ける。厳つい風貌の男が目に入る。

 「島田君」厳つい風貌の男に向かって、僕は言った。「おはよう。良い朝だね」

 「良い朝もくそもないよ。昨日、君が訳の分からないことを口走ったりするから、気になっちゃって、一睡も出来なくて、最悪の朝だよ」

 「昨日? 僕、何か言ったっけ?」

 「電話で、言ったじゃないか」そう言って、島田君は頬を赤らめた。「俺のこと綺麗って言ったり、これからも彼女でいてくれって言ったり、したじゃないかぁ」

 失念していた前日の電話の件を思い出す。確かに、僕は島田君に対して愛の告白とも取れる発言をした。その上で、島田君は満更でもないリアクションを返してきているのだ。そんな現状を踏まえて、僕は激しい動揺を必死に抑えつつ、冷静を装い、口を開いた。

 「島田君。昨日の、僕から君への発言は、本来、別の人に向けられるべきものだったんだ。全ては、電話の発信者を確認せずに通話に応じた僕の間違いだったんだ」

 島田君は、腕を組み、民主主義を説かれたスターリンみたいな顔をして、黙した。

 数十秒の後、潮が引いていくようにして、島田君の熱情が冷静に変わっていくのが分かった。

 頬の赤みの薄らいだ島田君が口を開く。

 「つまり、花井君はあのメッセージを伝えるべき相手からの電話を待ってたってことだよな?」

 「そうだよ」

 「これからも彼女でいてくれ、ってことは、もう交際しているってことだよな?」

 「うん。昨日、生れて初めて交際を始めたんだ」

 そう僕が言うと、島田君は人懐っこいブルドックみたいな顔になって、僕の肩に腕を回した。

 「マジかよ! すげえ! やったじゃん、花井君! 先週までは彼女なんて一生できっこないって嘆いてたのに、超展開じゃん!」

 島田君が平生の友達然とした調子を取り戻してくれたことに、僕は安堵した。そうして、僕は島田君からの祝福を素直に享受した。

 「ありがとう、島田君。ありがとう」

 「それで、君の彼女ってどんな人? 俺の知ってる人?」

 島田君の声が大きかった為に、クラスメイト達の注意が僕へと向いていた。浜辺さんも、僕のことを見詰めている。

 浜辺さんが僕の彼女だよ、という真実の声が声帯に宿った。しかし、その福音が教室に響き渡ることはなかった。真実の声を発することが出来なかった理由は、僕が浜辺さんの彼氏である、という真実を周囲の人間に知らしめるだけの勇気が僕にはなかったからだ。才色兼備である浜辺さんと、凡庸の権化である僕。この不釣り合いな交際によって、浜辺さんが周囲から揶揄されてしまうことが、僕は怖かった。浜辺さんって男の趣味が悪いよね、などの誹謗を浜辺さんが浴びせかけられるかと想像するだけで、僕は心の底から恐怖に震えた。

 浜辺さんには、僕との交際で一切、傷付いたり苦しんだりしてほしくなかった。僕は、彼女の名誉と心の平穏を守るために、真実に蓋をする決意を固めた。

 「誰と付き合ってるかは、内緒だよ」僕は断固たる口調で言った。

 僕の返答に不満を示した島田君は、僕の両脇に両手を入れ、そのまま僕をくすぐりだした。

 「友達に秘密事とは何だ! この不埒者め! 吐け! 吐け、この野郎!」

 岩石みたいなごつい指をしているというのに、島田君の指は触手のように蠢いて、その器用な指使いが僕の体に送り込んでくるくすぐったさは、常軌を逸していた。僕は、椅子に座したまま激しく上体を振り乱したが、僕の両脇に深く突き刺さった島田君の両手は外れず、くすぐったさが絶えることはなかった。

 「言わない! 内緒だもの! 絶対に言わない!」笑い悶えながら、僕は叫んだ。

 「強情を張るんじゃないよ! 笑い死にしてえのか!」

 くすぐったさに乱れる痴態を、浜辺さんに見られているという快感。僕は、途方もないくすぐったさの中にも快楽を感じ得て、笑い声に喘ぎ声を混じらせた。

 「花井君。島田君」僕たちのそばまで歩いてきた浜辺さんが、言った。「さすがに、はしゃぎすぎ。教室はあなたたちの為だけにある場所じゃないんだから、もう少し静かにして」

 「すまん。クラス委員長」そう言って、島田君は僕の両脇から両手を抜いた。「花井君のリアクションがよかったから、ついヒートアップしちまった」

 「島田君が余りにもテクニシャンだったから、笑いすぎちゃった」僕は息も絶え絶えになりながら、声を振り絞った。「うるさくしちゃって、ごめんなさい」

 浜辺さんは寂しげな瞳で僕を一瞥した後、教壇の近くにいるクラスメイトのところへ戻っていった。

 朝のショートホームルームが始まるまでの間、僕は島田君ともう一人の友達である井上君と三人で談笑しながら、何度も何度も浜辺さんのほうへ視線を向けた。しかし、浜辺さんと目が合うことは、もう無かった。


 クラスメイトの多くが既に去った、夕焼けに染まる教室。僕は窓際の席に座って、浜辺さんを見詰めていた。朝のショートホームルーム前に言葉を交わしたっきり、浜辺さんとは何の接点もないままに、学校の一日のタイムスケジュールは終了していた。

 朝のショートホームルーム前はとても親しげだった浜辺さんが、急に余所余所しくなって、僕を避けるようにしながら一日を過ごしたことを、僕は訝った。

 浜辺さんは僕のことを嫌いになってしまったのだろうか? 時間が恋の魔法を解くようにして、今日になってみたら僕のことなんて大して好きじゃなくなってしまったのかもしれない。昨日始まったばかりの交際を忘却の彼方に葬り去って・・・・・・。

 不安が茨の鞭となって、僕の心を激しく打った。この痛みと苦しみを抱えたまま夜を過ごせる自信のなかった僕は、今日のうちに浜辺さんの真意を聞き出そうと考え、浜辺さんに話し掛ける絶好のタイミングを今か今かと待った。

 前日に実施された数学の抜き打ちテストで散々な結果だったクラスメイト二人に、浜辺さんは勉強を教えていた。その教示を終えた浜辺さんは、クラスメイトと別れの挨拶を交わし、一人で教室を出た。僕はすぐさま浜辺さんの後を追った。

 追いかけて、凝視した浜辺さんの後姿は、優美かつ優雅だった。小さな後頭部を包む豊かな髪の毛。ポニーテールと制服の襟に隠れつつも、その蠱惑な有り様が容易に想像できる、華奢な体躯に裏付けされた慎ましいうなじ。骨の髄まで色気を宿したかのような背骨によって成り立つ艶めかしい背中。小振りながらも芯が強そうに見える臀部。筋繊維の繊細さまでもが窺える、細く長い脚。浜辺さんは、後姿でさえ美しかった。

 後姿でさえ人を魅了する素敵な女の子が、僕のような冴えない男に愛想を尽かすのは必然のように思われた。声を掛けたら、振り向いた浜辺さんの顔にある怪訝の色を目撃してしまう気がして、僕の声は凍てついた。そうして、声を掛けることも出来ないままに、僕は浜辺さんの後方を歩き続けた。

 部活動に励む生徒たちの青く澄んだ声、吹奏楽部が奏でる発展途上ゆえの伸びやかな音色、ひんやりとした廊下に小さく響く浜辺さんの足音。そんな音に溢れた世界で、僕は音を失くしたストーキングマシーンと化していた。終わりの見えない苦渋の尾行に、僕の心は摩耗していった。

 校舎のA棟とB棟を繋ぐ渡り廊下まで来て、不意に、浜辺さんが振り向いた。僕を見つけた浜辺さんの顔には、怪訝の色はなく、唯、驚愕だけがあった。その反応に、僕はささやかな安堵を得て、ほっと息を吐いた。

 「どうしたの、花井君?」

 僕はもじもじしながら、「浜辺さんに話が合って・・・・・・」と呟いた。

 「話って、何?」

 僕は、持ちうる全ての勇気を振り絞って、「今日、浜辺さんが僕のことを避けていたように感じられて、それが僕の思い過ごしかどうかを聞きたかったんだ」という声を発した。

 浜辺さんは、慌てたように両手を振って、「ごめんなさい! 私、花井君にそんな風に感じさせていたなんて、気付かなかった!」と口早に言った。

 「浜辺さんは悪くないよ! 感じやすい僕が悪いんだ!」浜辺さんの謝罪に慌てて、僕も両手を振った。

 2階の渡り廊下には、僕と浜辺さんしかいなかった。二人きりで、見詰め合って、初々しい恥ずかしさがこみ上げてきて、僕たちは互いに、はにかんだ。

 「花井君、今朝、私と付き合ってることを隠してたでしょ。それで、私、あんまり花井君とべたべたしないほうが好いのかなって思って、花井君を避けるようにしていたの」

 「僕を嫌いになったわけじゃないの?」垣間見えた希望に縋るようにして、僕は言った。

 「嫌いになんて、ならないよ」浜辺さんの愛らしい瞳が、羞恥を体現するかのように、僕の視線から逃れた。「私、本当に花井君のことが好きだから」

 好き、という言葉の甘美な清流が、僕の心に巣くった不安や恐怖といった負の感情を全て洗い流した。不純物の消え去った裸の心にアザレアが咲き乱れて、僕は感激の絶頂に至った。

 感激の絶頂、その余韻を貪るようにして、僕は放心状態に陥った。

 「ねえ、花井君。私と付き合ってることを隠した理由、聞いてもいいかな?」

 憂いた声が聞こえて、僕は正気に返った。

 浜辺さんの憂いを感じ取り、愚かしい僕という人間は、ここに至ってようやく、交際の真実を隠した事実が浜辺さんの心に暗い影を落としていることに気が付いた。刹那、罪悪の刃が僕の心に突き刺さる。

 浜辺さんの心を乱した、大罪! 許されざる者、花井潤! ああ、この贖いはどのようにして!?

 心中に響いた絶叫、そこから始まる贖罪の探求。浜辺さんの心に落ちた暗い影、それを消し去るための強烈ながらも優しい光を求めて、僕は思案の迷宮を彷徨った。

 ほんの一秒間の思案が、十年間もの思案と同等であるかのように、僕の脳はフルスロットルで機能し、そうして、答えに辿り着いた。

 答えは、真実を話す、という極めて純粋なものだった。

 「僕なんかと付き合ってることが知れたら、浜辺さんに対するみんなの心証が悪くなるんじゃないかと思ったんだ。そう思ったら、怖くなって、浜辺さんと付き合っていることを言い出せなくなってしまったんだ」

 嘘偽りない言葉が淀みなく溢れ出した。自分の真実を言葉にしたことで、僕は、浜辺さんと不釣り合いな自分の不甲斐なさを改めて痛感し、込み上げてくる悔しさを噛み締めた。

 「どうして、花井君と付き合っていると周りの人が私を悪く思うの?」

 優しくも残酷な声だった。その声を聞いて初めて、浜辺さんが自分の魅力に無自覚であるのだということを、僕は知った。

 「例えるならば、浜辺さんは空を優雅に舞うアゲハチョウで、僕は地べたで排泄物を転がすフンコロガシなんだ。不釣り合い極まりない両者の交際は、周囲の嘲笑を買うよ」

 「どうして、私がアゲハチョウで花井君がフンコロガシなの?」

 「君は素敵で、僕は素敵じゃないから」

 「私は素敵じゃない。素敵なのは、花井君だよ」

 そう言って、浜辺さんは僕のすぐそばまで歩み寄った。浜辺さんの慎み深くも妖艶な香りが僕の鼻をくすぐる。浜辺さんは、僕の左手にそっと触れた。

 「花井君が私と付き合ってることを隠した時、私、すごく不安を感じた。花井君は私のことをそんなに好きじゃないのかもしれない、そう思えてしまって、すごく、胸が苦しくなった。そうして、強く実感したの。こんな些細なことでさえ激しく動じてしまうくらいに、私は花井君のことが好きなんだって」絡み合う視線の先にある浜辺さんの瞳は、湛える潤いに夕日の照り返しを浴びて、多様な色彩を帯びていた。「自分のことを素敵じゃないだなんて、言わないで。私の好きな人が素敵じゃないだなんて、言わないで」

 浜辺さんの声は、慈愛と活力の源泉だった。それを心身に浴びて、僕は己の卑屈を恥じ、同時に、強い決心を以て奮い立った。

 「浜辺さん。僕、もう浜辺さんとの交際を隠したりしないよ。島田君に、いや、学校中の皆に、いや、世界中のみんなに、僕は宣言するよ。僕は浜辺さんと付き合っています、って、胸を張って宣言するよ」

 「宣言なんて、しなくてもいいよ! 付き合ってることなんて、言いふらすようなことじゃないし!」浜辺さんは慌てた様子で言った。「私は、唯、花井君が今日みたいに誰と付き合っているのか尋ねられた時に、本当のことを言ってくれれば、嬉しいってだけ」

 「分かった。浜辺さんが嬉しくなることだけを、僕はするよ」

 気恥ずかしさが透けて見える微笑みを、浜辺さんは浮かべた。その微笑みが余りにも愛おしくって、僕は、僕の左手にそっと触れているだけの浜辺さんの右手を、ぎゅっと握った。

 「僕、浜辺さんと釣り合うような立派な男になるよ。約束する」

 「花井君は、今のままが素敵だよ」浜辺さんの右手が、僕の左手を握り返してくれた。「ずっと、今の優しい花井君のままでいて」

 恋慕が性の空気を纏った。浜辺さんの小さな唇が輝いて見える。僕は、動物的な情欲の凄まじい猛りに恐れを懐き、浜辺さんの手を握る力を弱めた。少しして、僕の手を握る浜辺さんの手の力も弱まった。

 僕たちは、手を離して、初な感性に頬を熱くした。

 「浜辺さんは、これからどこへ行こうとしていたの?」身を焦がすような恥ずかしさを誤魔化したくて、僕は言った。

 「図書室だよ。本を借りてから帰ろうと思って」甘い余韻の残った声で、浜辺さんは言った。

 「僕も付いて行っていいかな?」

 「うん。花井君さえよかったら、一緒に行こう」

 そうして、二人横並びで歩き、図書室を目指す。浜辺さんがそばに居てくれれば、学び舎さえもが愛の聖域に変わって、図書室への道程は、無限に煌めいた。


 採光窓は多いものの、その全てが東側に位置しているために西日を取り込めない図書室は、照明の無機質な白光で室内を満たしていた。蔵書が多く、普通教室の四倍ほどの広さを有した図書室に、人の姿は疎らだった。

 古典文学が収まっている書架の前に、浜辺さんは迷わず歩を進めた。僕は浜辺さんに付いて歩いた。

 背の高い書架に挟まれながら、難しいタイトルの記された背表紙を、浜辺さんは視線でなぞった。やがて、浜辺さんの視線の動きが止まる。浜辺さんの視線は、書架の一番高い段にある和泉式部日記に向けられていた。

 浜辺さんは爪先立ちをして、和泉式部日記に手を伸ばした。その手は、和泉式部日記まで届かなかった。

 「浜辺さん、僕が取ってあげるよ」

 そうは言ったものの、僕は浜辺さんより少しだけ背が高い程度なので、爪先立ちをして手を伸ばしても、和泉式部日記までは手が届かなかった。ジャンプをしてみるも、日頃の運動不足が祟って、バネの無いホッピングを使用したような跳躍になり、結局、和泉式部日記は取れず仕舞いだった。

 僕は辺りを見回した。踏み台がどこにも見当たらず、僕は、「図書委員の人に踏み台を借りてくるね」と言って、入り口付近のカウンターに座っている図書委員のそばまで歩いていった。

 僕が、踏み台はどこにありますか、と尋ねると、図書委員は、ステップスツールは破損してしまって今はないんです、と答えた。

 僕は、浜辺さんのところへ戻り、図書委員の言ったことをそのまま浜辺さんに伝えた。

 「それじゃあ、あの本はまた別の日に借りることにするよ」

 そう言って和泉式部日記を見上げた浜辺さんの目が酷く残念そうに見えて、僕は、どうにか和泉式部日記を取れないものかと思案し、そうして、名案を思い付いた。

 「諦めなくても大丈夫だよ、浜辺さん。僕が踏み台の代わりになるから」

 そう言い終わる前から、僕の体は四つん這いになっていた。脳が、四つん這いになるぞ! と命令を出すよりも早く、更には、脳が、四つん這いになるぞ! という信号を発するよりも早く、僕の体は四つん這いになるという目的を果たしていた。

 自分が直立二足歩行を行う動物であることを忘れるくらいに、四つん這いの姿勢はしっくりきた。僕は、意気揚々と浜辺さんを見上げ、「さあ、僕の背中に乗って」と口早に言った。

 呆気に取られたような表情を作っていた浜辺さんが、その愛らしい相貌を乱し、「いいよ、花井君。踏み台の代わりなんていらないよ」と慌てた口ぶりで言った。

 「大丈夫だよ、浜辺さん。ここは書架が死角を作ってくれているから、図書室に居る人たちに見られたりしないよ。だから、僕に乗っかったって浜辺さんの世間体が傷付くことはないよ」

 「世間体なんてどうでもいいよ。私は唯、花井君を踏み台の代わりにするのが申し訳ないだけ」

 「申し訳なく思う必要なんてないよ、浜辺さん。僕は、浜辺さんの役に立てることが何よりも嬉しいんだから。さあ、僕を踏んづけて、目当ての本を取って。さあ、浜辺さん」

 浜辺さんは、眉尻を下げて沈黙した後、小さな吐息を零し、徐に上履きを脱いだ。

 「どうして上履きを脱ぐの、浜辺さん?」

 僕が言って、浜辺さんの困惑の色が強まる。

 「どうしてって、上履きのまま乗ったら花井君の制服を汚しちゃうから」

 「構いやしないよ。上履きのまま乗っちゃって」

 「駄目だよ。汚しちゃうし、悪いよ」

 「悪くないよ。汚されるくらいのほうが、僕は嬉しいんだから」鼻息荒く言って、それから、浜辺さんの怪訝を感じ取り、僕は矢継ぎ早に言葉を継いだ。「ブレザーの上に靴下で乗ったら、滑り易くて危険だよ。落っこちて頭でも打ったら、大変だよ」

 「大丈夫だよ。滑ったりしないよ」

 「浜辺さん。僕は浜辺さんの彼氏として、浜辺さんに危険なことはさせられないんだ」僕は立ち上がった。「浜辺さんが靴下のまま僕の背中に乗るっていうのなら、僕が上半身裸になるよ。そうすれば、滑らないだろうからさ」

 僕は上半身裸になるべく、ブレザーのボタンを外しに掛かった。

 「いいよ、花井君。脱いだりしないで」

 浜辺さんは必死になって僕を静止した。

 「それじゃあ、上履きのまま僕を踏み台にしてくれる?」

 浜辺さんは、僕から目を逸らし、自身の細い二の腕を撫でた。

 「上履きで乗るのは、やっぱり悪いよ」

 「それなら、浜辺さん、裸足になってみようか。裸足なら、ブレザーの上に乗っても滑らないし、僕のブレザーを汚す心配もないから、僕と浜辺さん両者のニーズに適っているよ」

 「ここで裸足になるのは、やだよ・・・・・・」

 か細い声で言ってもじもじとする浜辺さんが、辛抱堪らないほど可愛くって、僕はごくりと唾を飲み込んだ。

 「それじゃあ、僕が上半身裸になるしかないね」僕は語気を強めて言った。「浜辺さんが裸足になってくれないのなら、仕方がないね」

 僕はブレザーのボタンを全て外し、ブレザーを脱いだ。そうして、Yシャツのボタンにも手を掛ける。

 「止めて、花井君。私が裸足になるから」

 切羽詰まったような静止を受けて、僕はブレザーを着直し、「それじゃあ、裸足になってね」と言って、浜辺さんを凝視した。

 浜辺さんの白く繊細な手が、左足に装着された漆黒のハイソックスに触れる。上質な絹織物が解けていくようにして、するすると漆黒が剥けていき、隠された清純が露になっていく。

 「そんなに見ないで、花井君」足首まで露になったところで、浜辺さんは言った。「なんか、恥ずかしい」

 「恥ずかしい? どうしてさ? 何も恥ずかしくなんてないよ。靴下を脱いでるだけじゃない」僕は言った。浜辺さんの足を食い入るように見詰めながら。「変な浜辺さんだなぁ」

 恥じらいを糧にして、浜辺さんの色気は増していた。諦めた様子で、浜辺さんは靴下を脱ぎ進める。踵が露になり、足の甲と土踏まずが露になり、そうして、足の五指が露になる。汚れ一つないその素足は、清流な小川、その源流に見る透明度で、エロスの結晶さえもが透けて見えた。

 全身を駆け巡る血が沸騰しそうなほど熱を持ち、僕は卒倒しそうになったが、気力を振り絞り、どうにか意識を保った。

 「それじゃあ、もう片方の靴下も脱ごうか」僕の声は震えていた。

 慣れることのない羞恥によって、浜辺さんは初々しい色に染まったまま、靴下を脱ぎ進め、右の素足も晒した。

 図書室の無骨なフローリングを慎ましく噛む妖艶な足指の十指に、僕の官能は掻き立てられた。僕は、浜辺さんの足に口付けをする心持ちで、四つん這いになった。そのまま、彼女の足が僕の背中を蹂躙する瞬間を待つ。

 二十秒ほど待っても、浜辺さんは僕の背中に乗ってくれなかった。僕は痺れを切らし、躊躇している浜辺さんを苛むような瞳で見上げ、「早く、早く乗って、浜辺さん」と急かした。

 「やっぱり、あの本は今日借りていかなくてもいいよ」消え入りそうな声で、浜辺さんは言った。

 「今更それはないよ、浜辺さん」嘆きを濃く滲ませて、僕は非難の声を口にした。「図書室で四つん這いになる、こんな恥ずかしい思いをしてまで浜辺さんに本を取らせようとした僕の真心、無下にしないでよ。浜辺さんが僕を踏み台にしてくれなくちゃ、僕、浮かばれないよ」

 浜辺さんに本を取らせてあげたい、そんな純粋な思いやりは、疾うに失われていた。浜辺さんの素足に踏まれたい、その欲望に忠実なだけのモンスターに、僕は成り果てていた。

 「浜辺さんが僕を踏み台にしてくれるまで、僕、このまま動かないから。ずっとずっと、動かないからね」

 言葉だけでなく、全身から発する気配にまで断固たる決意を滲ませる。そうして、僕は身も心も踏み台と化した。

 久遠をも感じ得る、果ての見えない、待機。その艱難辛苦は、やがて、報われた。

 優しく、労わるようにして、僕の背中に、浜辺さんの片足が乗せられる。刹那に、快感の気泡が背中一杯に弾けた。浜辺さんの足裏の感触は、一瞬で僕のサガを貫いた。

 続いて、浜辺さんがもう片方の足も僕の背中に乗せた。浜辺さんの尊い全体重、それを全身で感じて、必然、僕は喘いだ。

 「大丈夫? 重くない?」

 「大丈夫、とても軽いよ」

 全神経が背中に集中する。淀みなく滑らかな踵、太陽と月を連想してしまうほど美麗な母指球と小指球、一流ピアニストの手指に匹敵するほど繊細な足指。それらが惜しみなく、僕の背中に点在する性感のツボを刺激して、僕の魂は昇天し、快楽の極みに至った。

 至福の時は無情なほど早く過ぎて、浜辺さんの重みは消え去り、足裏の感触もまた、僕の背中から消え去った。そうして、快感の残響だけが僕の心身に残った。

 僕は、立ち上がり、浜辺さんを真っすぐに見詰め、「ありがとう」と言った。

 「礼を言うのは私のほうだよ」浜辺さんは手に取った和泉式部日記の表紙を僕に見えるようにした。「花井君のおかげで、取れたし」

 その声が余りにも儚げで、僕の良心は痛んだ。

 浜辺さんは、哀れを誘う様相で、靴下を履いた。そのいぢらしい姿が、僕の良心を更に痛めた。

 僕は、思いやりを失い自分自身の快楽にのみ固執した己を、強く恥じた。

 「ごめんね、浜辺さん。僕、意固地になっちゃって、浜辺さんの望まないことを無理強いしちゃった。本当に、ごめんね」

 上履きも履き終えた浜辺さんは、困ったような笑みを僕に見せて、「ちょっと、変だったよね、花井君」と零した。

 「ちょっとじゃなくて、大分、変だったと思う」羞恥心と罪悪感の混ざり合った声で、僕は言った。「ごめんなさい、浜辺さん」

 「私も、変に意識しちゃってたところがあったし、そんなに真剣に気に病んだりしないで、花井君」

 その優しい浜辺さんの声は、沈黙の呼び水となった。

 初めての性交渉が黒歴史となったカップルみたいに、気まずさが心の交流を妨げ、僕たちは、手を伸ばせば互いに触れ合える距離に立っていながらも、冴える孤独に身を縮めた。

 ちらちらと互いの瞳の奥を窺い合うも視線が重なることはなく、口を小さく動かすも言葉が生まれることもなく、それでも、僕たちは互いに離れられず、書架が作る薄暗い影の下、佇んだ。

 悪戯に時間だけが過ぎた。「あと五分で本日の図書室の利用は終了となります」という図書委員のアナウンスが、図書室内に響いた。

 「帰ろっか」と浜辺さんが囁いて、僕は、「うん」と囁き返した。

 図書室を出て、暗がりが広がっていく校舎を歩き、昇降口で靴に履き替え、学校を出る。そうして、僕と浜辺さんは夕闇の帰路を寄り添って歩いた。

 銚子電鉄の踏切を渡ってから、浜辺さんが、「なんだか、嬉しい」と言った。

 「嬉しいって、何が?」

 「こうやって、自然と、一緒に帰り道を並んで歩けているのが嬉しいの」

 浜辺さんが微笑んだ。その愛しい微笑みを目にするだけで、僕も自然と微笑むことが出来た。

 気まずさが豪雪のように降り積もっても、恋焦がれる気持ちさえあれば自然と雪解けを迎え、再び微笑み合うことが出来るのだということを、僕は身を以て知った。

 僕と浜辺さんの関係は、ちょっとしたことで距離が離れてしまう単なるクラスメイトや友人ではなくなったのだと、強く実感する。僕と浜辺さんの関係は、ちょっとしたことでは距離が離れたりしない恋人になったのだと、強く実感する。大好きな人との間に生まれた強い結びつきに責任を感じ得て、僕は浜辺さんを大事にしようと改めて誓った。

 一時の不協和音は完全に消え去って、僕たちは会話の花を咲かせながら、寄り添い合える時間を慈しんだ。歩調が自然と合って、笑みも絶えず、幸福は縁取られたようになって、思い出に焼き付いた。

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