第3話 夜伽 ブラッシュアップ不足バージョン

 僕は、父に注意されたことは何度もあるけれど、怒られたことは唯の一度もない。もっと言うならば、父の怒っているところを見たことすらない。骨の髄まで温厚な男、それが父であり、その温厚さは、痴態の権化と化した息子を前にしても全く薄れることはなかった。

 父は、リビングのソファに僕をそっと座らせた。ソファの布地のソフトな肌触りに、僕の剥き出しの腿はぞわぞわと鳥肌立った。

 父は、僕の座るソファの斜め向かいに置いてあるラウンジチェアをテレビの真ん前に移動させて、そのラウンドチェアにそっと腰掛け、コーヒーテーブルを挟んで僕と向かい合った。

 向かい合って、父は僕の剥き出しの膝を見やり、ハッとしたような顔をして、「潤。取りあえず、ズボンを穿いてきなさい」と慌てた声を出した。

 父は冷静さを失っている、と僕は察知した。座らせてしまってからズボンを穿いてくるように指図するその要領の悪さが、父の動揺を現していた。

 僕は席を立ち、自室へ行き、脱ぎ捨てた制服のズボンを穿き、リビングへ戻った。

 父は、腕を組み、眉間と額に皺が出来るほど強く目をつぶっていた。僕について、痛ましいほどに思案していることが窺い知れる顔付きだった。

 僕がリビングに戻ったことに気付いた父は、目を開き、腕組みを止め、「座りなさい」と悲痛な声で言った。僕は素直に父の言うことを聞き、ソファに座り、父と向き合った。

 一緒に暮らしてはいても、改まって家族の顔を見詰める機会などそうそうない。久しぶりに見詰めた父の顔は、僕が思っていたのよりもずっと、くたびれていた。僕は、居たたまれなくなり、父から目を逸らし、俯いた。

 「潤。改めて、聞かせてくれ」父はゆっくりとした口調で言った。「潤は、浜辺さんという子に、何をしてしまったんだい?」

 父にどうやって浜辺さんとの一件を説明すればいいのか、その思案に答えを出せていなかった僕は、何の考えもないまま、「ちんちんをおねだりした」とだけ口にした。

 沈黙が、あった。

 僕は、父の顔をちらっと盗み見た。父は、この世の終わりのような顔をして凍り付いていた。

 父さんの誤解は僕が思っている以上に大きい! そう確信して、僕は慌てふためき、立ち上がり、叫んだ。

 「浜辺さんは僕のおねだりを拒否したよ! ちんちんは未遂に終わったんだ! 父さんがどんな誤解をしているのか知らないけど、犯罪的なことは何もなかったんだ! いや、もしも浜辺さんが嫌な思いをしてしまったのならば、犯罪になるのかもしれないけど、でも、とにかく、僕の言うところのちんちんは如何わしいものではないんだ!」

 「潤」僕を見上げた父の目は、12ラウンド目に挑むボクサーみたいに落ち窪んでいた。「落ち着いて、座りなさい」

 興奮で火照った体を理性で冷ましながら、僕はソファに座り直した。

 「少し、話しを整理してみようか、潤?」父は僕を真っすぐに見詰めた。

 僕と父の理解の相違を埋めるには話を整理するのが最善だ! と考え、僕は首を縦に振った。

 「浜辺さんというのは、潤のクラスメイトの女の子なんだよね?」僕を見詰めたまま、父は尋ねた。

 「そうです」僕は父を真っすぐに見詰めて、はっきりとした声で答えた。

 「ちんちんをおねだりしたっていうのは、具体的にどういうことなんだい?」

 「ちんちんを見せてくださいって、お願いしたんです」

 少しの間、沈黙。

 「浜辺さんは、女の子なんだよね?」父の声は夜明け間近の波止場みたいに霞んでいた。

 「そうです。とても素敵な女の子です」僕は力強く答えた。

 徐に、父は僕から目を逸らした。それから父は、飛び回る妖精でも探すようにして、空に視線を泳がせた。

 「そうだね。うん。そうだね。心が女の子なら、女の子だ」父は呟いた。

 父の発言の意味を理解できなかった僕は、首を傾げた。

 「潤」父は僕に視線を戻した。「どうして、浜辺さんに、ちんちんを見せてなんて言ってしまったんだい?」

 「実は、その・・・・・・僕、今日から浜辺さんと付き合うことになって、それで、下校デートをしたんだ、浜辺さんと二人きりで。それで、僕、興奮してしまって、理性のブレーキが壊れてしまって、辛抱堪らなくなって、ちんちんを見せてって、しつこく浜辺さんに言い募ってしまったんだ。浜辺さんの知り合いの方の家の庭で、ちんちん責めをしてしまったんだ。ちんちん責めっていうのは、ちんちんを見せてってしつこく言い募った行為のことです。僕は、浜辺さんの気持ちも考えずにエッチと捉えられる単語を連呼してしまったことを、本当に後悔していて、反省もしています」

 父は、まるで時間が止まってしまったかのように、瞬き一つせぬまま、二十秒ほど黙した。それから、父は優しく微笑んだ。その微笑みは、安堵を主な成分として出来上がっているように見えた。息子は性犯罪を犯してしまったのではないか? という父の誤解は解けたのだと感じて、僕は心の底からホッとした。

 「潤。どんなに親しい人が相手でも、ちんちん、なんて気安く言ってはいけないよ」

 わんぱくな五歳児に言って聞かせるようなことを、父は十六歳の僕に向かって言った。ホッとしたのも束の間、僕は羞恥の極みに至り、全身が強張り、赤面した。

 ずっと前屈みに座っていた父が、背もたれに背中を預けた。

 「さっきの電話で、潤は浜辺さんに謝っていたようだったけど、浜辺さんは許してくれたのかい?」

 「分からない。僕、また興奮してしまって、ちんちんを連呼してしまったから。浜辺さんが今、どんな気持ちでいるのか、分からない」僕は俯いた。目頭が熱くなった。「分からないんだぁ」

 「一番大事なのは浜辺さんの気持ちだってこと、潤はちゃんと分っているんだよね?」

 「分かってる」僕は深く項垂れ、涙を流した。「浜辺さん、傷付いてなければいいなぁ」

 父が立ち上がったことが気配で知れた。父は、僕の後ろに立ち、僕の背中を優しくさすった。

 「もう一度、今度は冷静に、きちんと謝りなさい」

 「うん。そうする。そうするよ」

 父の優しい手の平と声が、僕の勇気を奮い立たせた。僕は涙をぬぐい、立ち上がった。そうして、僕はリビングを出ようと早足で歩き、廊下に続くドアのノブを力強く握った。

 「潤。夕飯は、どうするんだ?」父が僕の背中に向かって野暮なことを言った

 「浜辺さんにきちんと謝罪してから食べるよ」

 そう言って、僕はドアを開き、廊下に出て、階段を駆け上がり、自室に入り、胸ポケットからスマホを勢いよく抜き取った。

 さっき、浜辺さんは自分の方から電話をかけてくれると言ってくれたけど、その厚意に甘えて電話を待つような怠惰など、笑止千万だ! 謝罪すべき咎人は僕の方なのだから、僕の方から電話をかけるのが筋ってものじゃないか! 僕は浜辺さんに電話をかけるぞ! そうして、一秒でも早く、浜辺さんの心の傷を癒すんだ!

 僕は、熱情をエネルギーに変えて、着信履歴から浜辺さんの番号へ電話をかけた。 

 寒村の牧場を連想させるような呼出音が僕の鼓膜を震わせる。涼しげな風に吹かれた錯覚があって、僕の熱情は冷まされた。そうして得た冷静さが、僕を混迷に誘った。

 浜辺さんは自分の方から電話をかけると言ったんだ! 僕はそれに承知の旨を伝えた! それでいて僕の方から電話をかけるということは、約束の反故、裏切り行為ではあるまいか!? 浜辺さんの都合を無視した、自己中心的な、非道ではあるまいか!? そもそも、ちんちんを連呼するような危険人物の僕から電話なんてかかってきたら、それだけで浜辺さんは恐怖を感じてしまうかもしれないんだ! 現に今、僕からの着信を確認した浜辺さんの美しい瞳は恐怖の色に染まっているかもしれないんだ! なんてことをしてしまったんだ、僕は! 衝動に任せて行動するからこんなことになってしまうんだ! ちんちんを連呼してしまった時分から、僕はこれっぽっちも成長していない! 何が浜辺さんに謝罪したいだ! 何が浜辺さんの心の傷を癒したいだ! 僕は、浜辺さんの都合も考えずに、浜辺さんの気持ちも考えずに、自己満足な行動に走った唯の猪突猛進男じゃないか! 約束事も思いやりも全てをなぎ倒して進んだ猪突猛進男、花井潤! 我ながらなんと度し難い、お馬鹿!  

 スマホを握りつぶしてしまいそうなくらいに、僕の左手は力んだ。右の握りこぶしが痛む。強い食いしばりで、歯が、みしっと鳴った。

 切ろう・・・・・・電話を切ろう。電話を切って、それから、浜辺さんからの電話を忍んで待とう。全て、浜辺さんの都合が優先だ。浜辺さんのベストなタイミングで通話を開始するんだ。浜辺さんファーストが僕の行動原理。謝罪も贖罪も、僕の望むタイミングではなく、全て、浜辺さんの望むタイミングで・・・・・・。

 苦慮の最中、気付かぬうちに、呼出音は切れていた。僕が電話を切ったわけではなかった。そうして、「あの、花井君、だよね?」という良質な綿棒みたいな声が僕の耳をくすぐった。

 僕は全身を震わせた。思考が吹き飛んだ。

 「そうです。花井です。花井潤です」上擦った声が飛び出す。「ごめんなさい。僕の方から電話をかけてしまって。ごめんなさい」

 「そんな、謝ってもらうようなことなんてないよ。私、花井君が電話をかけてきてくれて、とても嬉しいから」

 その声は、慈愛の女神が咎人の魂に注いだ清らかな聖水だった。僕の魂は洗われ、恍惚の空へと舞い上がった。

 「ありがとう、浜辺さん」僕の声は軽やかなリズムを刻んだ。「僕も浜辺さんの綺麗な声が聞けて、嬉しいよ」

 電話越しでも、浜辺さんの照れを感じ取れた。照れる浜辺さんが可愛くて可愛くて、僕の心身はポカポカと暖まった。

 会話を求めるも、声が続かなかった。強い恋慕の情が、僕の声帯を臆病にしていた。僕は、じれったさに身をよじりながら沈黙した。浜辺さんも沈黙している。共鳴する沈黙。沈黙という共同作業。僕たちは沈黙を食指に変えてお互いの心身を愛撫し合っているのだ、と、次第に僕は思い始め、そうして、悶えた。

 「花井君」浜辺さんが沈黙を破った。「今日は一緒に下校してくれて、ありがとう。すごく楽しかった」

 甘美な喜びを貪っている場合ではないのだと、僕は理解した。感謝と謝罪、この二つを浜辺さんに伝えることが自分の責務なのだと、僕は理解した。

 「僕も、浜辺さんと一緒に下校できてすごく楽しかった。今日は本当にありがとう、浜辺さん」僕は心からの声を出した。「それと、今日は、卑猥な言葉を何度も聞かせてしまって、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

 電話口であることを意に介さず、僕は深く頭を下げた。

 「謝らないで、花井君。花井君が言ったことを変な風に捉えちゃった私がおかしいんだから」

 「浜辺さんは何もおかしくなんてないよ。卑猥なニュアンスのこもった発言をした僕が全面的に悪いんだ。浜辺さんが拒否感を示したのは、全うな反応だったよ」僕は更に深く頭を下げた。ほとんど前屈のようになる。脚の筋が伸びて、痛んだ。「不快な思いをさせてしまって、ごめんなさい、浜辺さん。僕、もう二度と、あんな卑猥な言葉は口にしない。約束します」

 「大袈裟だよ、花井君」小さな笑いの混じった声で、浜辺さんは言った。「犬の芸の話なのに、真面目すぎだよ」

 「真面目にならざるを得ないんだ。僕は、浜辺さんが今回の件で心の傷を負ってやいないかと気が気じゃないんだ」頭を下げたままで、僕は言った。

 「心の傷なんて、負わないよ」慌てた声で浜辺さんは言った。

 「本当に?」僕は頭を上げた。「トラウマとかに、なってない?」

 「なってないよ」

 「良かった」僕は安堵し、涙をこぼし、脱力して、筋と骨が無くなってしまったかのようにフニャフニャとへたり込んだ。図らずとも、女の子座りに近い形になる。「本当に、良かった」

 「本当に、大袈裟」

 そう言って、浜辺さんは笑った。その笑い声を聞いて、僕の琴線は激しく震えた。ナイル川の流音を聞いたエジプト人だってここまで琴線を震わせたりはしないだろうというくらいに、震えた。僕は、浜辺さんの笑い声を永遠に聞いていたいと心から願った。

 「私、恥ずかしかったんだ。花井君の言ったことを変な風に捉えちゃった自分が、すごく恥ずかしかった」笑いの余韻が残った声で、浜辺さんは言った。「変に意識する奴だな、って花井君に思われたくなかった」

 僕は涙をぬぐい、立ち上がった。

 「変に意識する奴だな、なんて思わないよ。むっつりスケベな浜辺さんが、僕はとても愛おしいよ」

 「むっつりスケベ・・・・・・」

 笑いの余韻が一瞬で消え去った声が聞こえてきて、僕は焦りを覚えた。

 「むっつりスケベはポジティブな意味合いを持つ言葉だよ、浜辺さん! 奥ゆかしい、って言葉とほとんど同義語なんだ! だから、誉め言葉として受け取って!」

 僕の声に、浜辺さんは相づちを打った。ひどく歯切れの悪い相づちだった。

 浜辺さんの心証を害してしまった! そう感じた僕は、ネメシスの下す罰に怯える人類代表みたいな体で恐れおののいた。

 手の平に汗がにじんだ。スマホを落としてしまいそうになって、僕は慌ててスマホを握り直した。

 「その、花井君。花井君は、その、映画とかって、見る?」

 浜辺さんが無理して話題を切り替えてくれた、その事実を、僕は天の慈悲として敬った。

 「ごめんね。突然、質問なんかして。意味が分かんないよね」

 「僕は、映画が好きです。よく見ます」僕は声を張った。「一番好きな映画は、ボクと空と麦畑です」

 「リン・ラムジー! 私も、あの監督の作品、大好き!」浜辺さんの声が生き生きとして聞こえた。

 「素敵だよね、リン・ラムジーさんの作品」浜辺さんと共感できている、その至高の喜びをかみ締めながら僕は言った。「浜辺さんも映画が好きなんだね」

 「うん。好き」

 好き、という声が僕のハートを射抜いた。僕の心身は、ふやけて、惚けた。

 「浜辺さんの一番好きな映画って、何かな?」喘ぎ声になってしまいそうな声を、僕は必死になって言葉にした。

 「秘密と嘘、っていう作品だよ」

 「いいね、秘密と嘘。マイク・リー監督の映画もどれも最高だよね」

 「花井君もマイク・リーが好きなの?」

 「好きだよ」

 「本当!? 嬉しい!」

 「浜辺さんと一緒で、僕も嬉しいよ」

 僕たちは数分の間、リン・ラムジーとマイク・リーの作品について話し合った。それは、共感が際限なく混じり合う至福の時間だった。浜辺さんと一つになれた気がして、僕は感動の絶頂に至った。

 映画の話が終わってからは、好きな音楽や漫画などの話になった。それらは映画の話のときと違い、共感に溢れたものではなかったが、それでも、お互いの見識が広がる有意義な話ではあった。僕たちは、例え異なる価値観を持っていようとも寄り添い合えるのだと、確信できた。

 飽くことなく、会話は続く。話題は、無限だった。

 いつしか、浜辺さんの澄んだ声は僕の耳だけでなく僕の脳まで愛撫するに至っていた。肉体を支配する快楽の極み。精神を支配する悦楽の極み。それらを以てして、僕は浜辺さんとの会話を貪った。

 好きな人となら永遠に言葉を紡いでいけるのだと知って、僕は有限の人生を儚んだ。そうして、今、浜辺さんと会話が出来る幸せを噛み締めた。

 不意に、僕の自室のドアがノックされた。続いて、母の声が聞こえてきた。

 「潤。夕ご飯、食べなくて平気なの?」

 僕はスマホを顔から離し、「後で食べるよ」と言って、スマホを顔の近くに戻した。

 「今の声、お母さん?」浜辺さんが言った。「花井君、夕ご飯がまだだったんだね。私、楽しくて、話しに夢中になっちゃって、全然気が回らなかった。ごめんなさい」

 「謝らないで、浜辺さん。浜辺さんは何も悪くないんだから」

 「長電話になっちゃったよね。今日はもう、さよならにしよう」

 名残惜しそうな浜辺さんの声が聞けて、僕は寂しい中にも嬉しさを見出せた。

 「そうだね。明日も学校で会えるんだから、今日はもう、さよならだね」

 「うん。明日も、会える」

 僕は、今すぐ浜辺さんを抱き締めたい衝動に駆られた。辛抱堪らないほどに、浜辺さんが愛おしかった。

 「好きだよ、浜辺さん」自然と、声が出ていた。「世界中で一番、君が好きだよ」

 浜辺さんは、沈黙した。雪解け水に濡れるユキツバキの蕾みたいな沈黙だった。その花の開花は、ウグイスの清涼な鳴き声に似た声を以てして僕に知らされた。

 「ありがとう、花井君。また明日、ね」

 「うん。また、明日」

 そう言って、僕は浜辺さんが電話を切るのを待った。

 数秒待ったが、浜辺さんは電話を切らなかった。僕は、浜辺さんが僕と同じ気持ちでいるのだと理解した。理解して、僕は照れた笑い声を発した。浜辺さんも笑った。僕は、幸せだった。

 「せーの! で、一緒に切ろう」

 浜辺さんが、とんでもなく可愛いことを言うものだから、僕は卒倒しそうになってしまった。

 「そうだね。せーの! で、一緒に切ろう」愛でるように、僕は言った。

 「それじゃあ、いくよ。せーの!」

 浜辺さんの、せーの! に合わせて、僕も、せーの! と言った。そうして、僕は電話を切らなかった。浜辺さんも電話を切らなかった。

 浜辺さんの悪戯っぽい笑い声が聞こえた。僕は幸せ過ぎて気が狂いそうになりながら、笑った。

 もう一度、僕と浜辺さんは、せーの! で電話を一緒に切ろうとした。それでも僕たちは電話を切らなかった。僕たちは再び笑った。

 三度、僕たちは、せーの! で電話を一緒に切ろうとした。その、せーの! で、浜辺さんは電話を切った。

 浜辺さんが電話を切ったのを確認してから、スマホの画面を見やる。通話時間は一時間を超えていた。僕は、浜辺さんの声の余韻に悶絶しながら、甘い吐息を漏らし、スマホにキスをした。舌は使わない純情なキスだった。

 僕は、唇から離したスマホを勉強机に置いた。それから、部屋着に着替え、ズボンのポケットにスマホを入れて、一階へ下り、ダイニングに入った。

 ダイニングテーブルには、近所のスーパーで売っている弁当と、食器に移された惣菜が並んでいた。

 「チンする、潤?」

 ダイニングチェアに座ってスマホをいじっていた母が、僕を見やり、言った。

 「僕がチンするよ。母さんは座ってて」立ち上がろうとした母を制して、僕は言った。

 僕は、弁当と惣菜を電子レンジで温めた。そうして、ダイニングチェアに腰掛け、温めたばかりの弁当に箸を伸ばした。

 月並みな弁当と惣菜の夕食を、満漢全席に臨む精神状態で食するほどに、僕は強い幸福感に浸かっていた。

 「美味いなぁ」食事が喉を通るたびに、僕は言った。「美味いなぁ」

 「潤」母が僕を見詰めながら言った。「浜辺さん、ていう子には、ちゃんと謝れたの?」

 「父さんから話を聞いたんだね」陽気な声が僕の口から出た。

 「ええ。聞きました」母の表情が険しくなった。

 「ちゃんと謝ったよ。それで、浜辺さんは許してくれた」僕は、にやけてしまうのを我慢して、真面目な顔を作り、言った。「心の傷も負ってないって言ってたし、無問題だよ。僕たち、すっかりラブラブさ」

 「そう・・・・・・良かった」母は少しだけ表情を和らげて、言った。

 母は少し黙した後、再び口を開いた。

 「潤。浜辺さんて子に、その、ちんちんを見せて、ってお願いしたっていうのは、本当のことなの?」

 「本当のことだよ」

 「そう」妊婦が大きく息を吐くときのような声で、母は言った。

 「でも、さっきも言ったけど、ちゃんと謝って許してもらえたし、大丈夫だからさ。母さんが心配するようなことは何もないから、安心して」

 「そう、ね。そうね。一番大事なのは、あなたと浜辺さんの気持ちだもんね。母さん、二人のこと、応援する」

 母は真っ直ぐな瞳で、声で、言った。僕は照れ臭くなって、食事の速度を速めた。そうして、完食した。

 「お風呂、陽菜ももう出たから、潤も入っちゃいなさい」

 僕は、「分かった」と返事をして、脱衣所に向かった。足取りは、スキップだった。

 脱衣所にて、軽やかに衣服を脱ぎ捨てる。生まれたままの姿になると、一層、上機嫌になれた。洗面台の鏡に映る自分を見詰めながら、「この幸せ者め」と言ってみる。顔も心も、綻んだ。

 浴室に入り、シャワーを浴びる。シャワーの水滴を浴びるたびに、ハードなボディパーカッションを行っているような高揚感を覚え、僕は思わず雄たけびを上げてしまった。

 髪の毛と体を洗ってから、浴槽に体を沈めた。息をするように、鼻歌を奏でる。曲は、DAOKOさんと米津玄師さんの、打上花火、だ。普段はAメロを無限ループするだけだが、この日はフルバージョンで奏で切った。

 入浴を終え、自室に入り、ベッドへ身を投げる。頭の中は浜辺さんで一杯だった。空気も、重力も、軋むベッドも、世界の全てが浜辺さんで出来ているかのような錯覚を覚える。枕に顔面をうずめ、「浜辺さん」と囁き続ける。湯上りのとは別の火照りで全身が熱くなる。恋の熱量は、幸福感と比例した。恋の熱量と幸福感は、性的欲求とも比例した。正に、愛のトライアングルだ。

 砂鉄が磁石に吸い寄せられるように、僕はパソコンに吸い寄せられた。パソコンを起動し、世界遺産映像集という偽名を与えてある秘密のエロフォルダを開く。お気に入りのエロ動画をダブルクリックする。自称三十歳下北沢の主婦がインタビューに応じる映像がモニターに表示される。その映像に僕は見入った。

 経験人数は? というQに対して、自称三十歳下北沢の主婦は、「夫と、他に、二人くらいです」というAを返した。

 淫らなQアンドAが繰り返された先で、到頭、自称三十歳下北沢の主婦は衣服を脱ぎ始めた。そのタイミングで、僕はズボンとトランクスを下した。

 刹那に、僕は強い罪悪感を覚えた。

 何をしようとしている、僕は!? ナニをしようとしている、僕は!? 浜辺さんという人がありながら、ナニをしようとした、僕は!? 浜辺さんという天使のように素敵な女の子との交際一日目に、下北沢の主婦で精を吐き出そうとする所業! これは、浜辺さんに対する裏切り行為ではあるまいか!? これは、れっきとした浮気ではあるまいか!? これは、人の皮を被った鬼畜の所業ではあるまいか!? 浜辺さんへの清らかな恋慕を心の片隅へ追いやり、下北沢の主婦のエロスに性の拠り所を求める所業、そんなこと、例え僕の性欲が許しても、僕の感情が許しはしない! いや、真に重要なことは、僕の感情ではない。真に重要なのは、浜辺さんの気持ちだ! 付き合い始めたばかりの彼氏が別の女性をオカズに精を吐き出す、その事実に面した浜辺さんの気持ちにこそ、僕は心を配らなければならない! 浜辺さんが傷付くことなど、あってはならないのだ! 下北沢の主婦で精を吐き出したことなんてバレっこない、バレなければいい、そんな悪魔の囁きに、僕は耳を貸さないぞ! 裏切りは姿なき毒となって大事な人を蝕んでいくものなのだ! ここで下北沢の主婦をオカズに精を吐き出せば、いつか必ず、浜辺さんを苦しめることになる! そんなことは、あってはならない! 僕にとって、浜辺さんの幸福こそが全てなんだ! 彼女を笑わせることが僕の全てで、彼女を泣かせるなど論外! 論外なのだ! 浜辺さんの彼氏という誉を受けた以上、浜辺さん以外の女性に欲情するなど、絶対にあってはならない! 僕は断固、下北沢の主婦を拒否する!

 僕が決意を固めたとき、自称三十歳下北沢の主婦は、ブラジャーのホックを外すところだった。

 「乳首を見せてはいけない! これ以上僕を誘惑しないで!」

 そう叫び、僕は画面右上の閉じるボタンをクリックした。動画が強制終了され、デスクトップの壁紙がモニターに映し出される。

 「これでいい。これでいいんだ」

 僕は、椅子に深くもたれかかり、天井を仰ぎ見た。

 「僕の全ては浜辺さんの物。すなわち、僕の性も浜辺さんの物なのだ。僕は、浜辺さん以外の人では決して精を吐き出さない」

 僕は、目を閉じた。そうして、浜辺さんのエッチな姿を妄想した。愛の如意棒がそそり立ち、僕は自分の雄の性を思い知る。

 愛の如意棒に、右手を伸ばす。その刹那に、僕は強い罪悪感を覚えた。

 何をしようとしている、僕は!? ナニをしようとしている、僕は!? 浜辺さんを慰み者にして、ナニをしようとした、僕は!? 浜辺さんという汚れのない絹のような女の子との交際一日目に、浜辺さんで精を吐き出そうとする所業! これは、浜辺さんに対する裏切り行為ではあるまいか!? これは、一方的な性交渉ではあるまいか!? これは、人の皮を被った野獣の所業ではあるまいか!? 浜辺さんの精神への純情を心の片隅に追いやり、浜辺さんの肉体に性の拠り所を求める所業、そんなこと、例え僕の性欲が許しても、僕の感情が許しはしない! いや、先ほども考えたように、真に重要なことは、僕の感情ではない。真に重要なのは、浜辺さんの気持ちだ! 付き合い始めたばかりの彼氏が自分をオカズに精を吐き出す、その事実に面した浜辺さんの気持ちにこそ、僕は心を配らなければならない! 浜辺さんが傷付くことなど、あってはならないのだ! 浜辺さんで精を吐き出したことなんてバレっこない、バレなければいい、そんな悪魔の囁きに、僕は耳を貸さないぞ! 裏切りは霧中の邪となって大事な人を辱めていくものなのだ! ここで浜辺さんをオカズに精を吐き出せば、いつか必ず、浜辺さんを苦しめることになる! そんなことは、あってはならない! 僕にとって、浜辺さんこそが全てなんだ! 彼女を愛でることが僕の全てで、彼女を辱めるなど論外! 論外なのだ! 浜辺さんの彼氏という幸福を得た以上、浜辺さんを淫乱な妄想で汚すなど、絶対にあってはならない! 僕は断固、自慰を拒否する! 浜辺さんと同意の上でエッチなことが出来るその日まで、僕は己に射精禁止を課す! 

 愛さえあればどんな困難も乗り越えられる気がした。愛は偉大だった。同時に、愛は混沌だった。

 僕は、再びベッドに身を投げ、枕に顔をうずめた。そうして、プラトニックな思考を以てして、浜辺さんを思い、猛る愛の如意棒もそのままに、「浜辺さん」と囁き続けた。

 恋は、柔らかな羽毛となって心身を包んでくれる。僕は安らぎの極みの中で、いつの間にか眠りに落ちていた。

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