第2話 贖罪 ブラッシュアップ不足バージョン

 街灯の明かりが、僕を照らした。少し前まであった夕日の明かりとは全く異なる、淡白で冷たい明かりだった。侘しさを覚えて、僕は我に返った。

 僕は、黒生町のほうまで歩いてきてしまっていた。店長の家の前で浜辺さんと別れてから夢遊病者のようになって歩き続けていたことを、僕はようやく自覚した。

 踵を返し、僕は自宅に向かって歩き出した。底なし沼の中央に向かって歩くみたいに、一歩を踏み出すごとに体が沈んでいく感覚があった。

 「浜辺さん」

 そう呟くだけで、後悔の念が刃となって僕の心を切り裂いた。それが痛くて辛いのに、僕は何度も何度も、「浜辺さん」と呟き続けた。その結果、自宅に着いた時には、僕の心は八つ裂きになっていた。

 自宅の二階を見上げた。妹の部屋の電気が点いていた。

 僕は、自宅の玄関ドアの前に立ち、ドアチャイムを押した。少しして、インターホンから妹の声が聞こえてきた。

 「何? 鍵、失くしたわけ?」

 インターホンのカメラ越しに僕を見る妹の冷めた目が容易に想像できる声だった。

 「鍵は失くしてないよ。唯、今は、おかえりなさいって言われながら玄関ドアを開けてもらいたい気分なんだ」僕は本心を言った。

 「キモイ」

 その声の後、沈黙が続いた。僕は、三分くらい、妹が玄関ドアを開けてくれるのを待ち続けた。でも、妹が僕のためにドアを開けてくれることはなかった。僕は、ゆっくりとした動作で、玄関ドアの鍵を開け、「ただいま」と悲痛な声を出しながらドアを開けた。

 僕は、二階に上がり、自室に入り、制服姿のままベッドに身を投げた。シングルベッドの孤独な軋みが骨身に染みる。

 「僕はどうして、ちんちん、なんて卑猥な言葉を浜辺さんに対して連呼してしまったんだろう?」口で喋っているのか心で喋っているのか、自分でさえ分からない声だった。「ちんちん、という単語を平然と使い合う友人関係しか築けていないのが、原因だったのだろうか? 男友達ばっかりで、ちんちんと口にすることに抵抗を覚える機会が乏しかったことが、原因だったのだろうか?」

 僕は仰向けになって、天井を見詰めた。

 見慣れた木目が段々とちんちんに見えてきて、僕は強く目をつぶった。

 「思い返してみれば、僕の友人は皆、ちんちんという単語を好んで使用していような気がする。むしろ、ちんちんという単語以外の単語を使用したことがあるのかどうかさえ疑わしい。ありとあらゆる品詞を、ちんちんだけで済ませていたような気さえする。結局のところ、ちんちんだけで会話が成立してしまうような下品な人間関係に浸かり切ってしまっていたことが、僕をちんちん野郎たらしめる要因なのだ。僕が、ちんちん野郎から真人間になるには、今までに築いてきた全ての下品な人間関係を解消する以外に道はないんだ」

 僕は目を見開き、勢いよく立ち上がり、ズボンのポケットからスマホを取り出した。

 「僕は人間関係の断捨離を敢行するぞ。僕をちんちん野郎に仕立て上げた下品な友人たちと縁を切るんだ。そうすれば、僕は浜辺さんに相応しい真人間になれる。その第一歩として、まずは親友の柿崎に絶縁宣言をするぞ。ラインやメールなんか使わずに、電話で直接、もう僕には関わらないでくれ、って言ってやるぞ」

 僕は、荒々しい手付きで、柿崎に電話をかけた。

 短い呼出音が途絶えた後、慣れ親しんだ声が僕の耳を刺激した。

 「どうした、花井?」

 森川智之さんの声みたいなハンサムボイスに、僕は耳から犯されて、心を揺さぶられた。

 柿崎! 中学からずっと仲良しの柿崎! 顔が良くて、身長も高くって、頭も良くて、僕が知らない色々なエッチなことを教えてくれる無二の親友、柿崎! 

 湧き上がってくる友情の念が、僕の良心を闇の底から引きずり出してくれた。

 僕は、最低の上に最低な人間だ! ちんちん野郎以下の、ちんかす野郎だ、僕は! 浜辺さんに不快な思いをさせた罪、その責を、僕は柿崎たちになすりつけようとしたんだ! 柿崎も、他の友人も、皆、何も悪くないのに! 悪いのは、僕なのに! 浜辺さんに対して、ちんちんを連呼してしまったのは、全て、僕の思いやりのなさが原因だというのに! 僕の下品な性根が原因だというのに! 

 「ごめん! 柿崎! 本当に、ごめん! 僕たち、これからもずっと、親友だから! さようなら!」

 僕は、心からの言葉を伝え、電話を切った。

 「悪いのは、僕。僕は、浜辺さんに不快な思いをさせたことを心の底から反省しなくてはならない。反省して、反省して、これでもかと反省して、悔い改めなければならない」

 僕は、スマホを勉強机に置き、それから、カーペットの上で正座をした。

 僕が正座を始めてからすぐに、僕の自室のドアがノックもなく開けられた。

 「さっきからずっと、うるさいんですけど」僕を見下ろしながら、妹が言った。

 妹は、Tシャツにショートパンツという服装だった。その服装によって、胸のふくらみと引き締まった腿が強調されていた。僕は、妹を見詰め、陽菜ももう十五歳なんだな、と感慨にふけった。

 「うるさかった? ごめん、陽菜。気を付けるよ」

 「私が受験生だってこと、忘れんなよ」

 「まだ五月じゃないか。受験生だなんて、大袈裟だよ」

 妹は大きなため息をついた。

 「夏休みの宿題でも何でもぎりぎりになるまで手を付けない人間らしいセリフだわ、マジで」

 「陽菜。僕はちゃんとうるさかったことを謝ったぞ。今度は陽菜が、ノックをせずにドアを開けたことを謝る番じゃないか?」

 妹は僕の声を無視して、ドアを閉めた。乱暴に閉められたドアの悲鳴は痛々しかった。

 「少し前までは、お兄ちゃん子だったのになあ」

 寂しい心の内がこぼれ出た。それからすぐ、今は陽菜のことよりも浜辺さんのことだ! と思いを新たにして、僕は反省を求め、強く目を閉じた。

 僕は、正座したまま、脳内で三角木馬に跨った。二分くらい、そうしていた。

 「こんなんじゃ、生ぬるいよ。もっとちゃんと反省しなくっちゃ」

 僕は、立ち上がり、カーペットをまくり、フローリングに直に正座し直し、目をつぶった。それから、僕は、脳内で自分自身をむち打ちの刑に処した。三分くらい、そうしていた。

 「駄目だ。これでも、ちゃんと反省したことにはならない」

 僕は、立ち上がり、ズボンを脱ぎ捨て、剥き出しの膝をフローリングにめり込ませる心持ちで正座し直した。

 「ちょっとやそっとの拷問じゃ、反省に至らない。何か、反省につながる良い拷問はないものか・・・・・・そういえば、昔見た007の映画で、ジェームズ・ボンドが振り子みたいな凶器で睾丸を強打される拷問を受けていたな。お試しで一発、受けてみるか」

 僕は、目をつぶり、脳内で、睾丸を振り子みたいな凶器で強打されてみた。想像上の一撃だというのに、僕は思わず悲鳴を上げてしまった。

 「これは、厳しい。一発でこんなにも厳しいのに、連打されようものなら、僕は一体全体どうなってしまうのだろう?」

 とてつもない恐怖を僕は感じた。それでも、それが反省につながるのならばと、少しでも罪滅ぼしになるのならばと、思い至り、僕は腹を括り、脳内で睾丸を打たれ続けた。

 初めのころは一発打たれるごとに悲鳴を上げていた僕だったが、いつしかその悲鳴は、「浜辺さん、ごめんね」という声に変わっていた。その自分自身の声で、僕は悟った。

 そうなんだ! 反省なんて自己満足には何の意味もないんだ! 僕が今すべきことは、浜辺さんに謝罪することじゃないか! 浜辺さんの心の傷が癒えるまで、謝罪し続けることじゃないか! 大事なのは僕の気持ではなく、浜辺さんの気持ちなんだから! 花井潤! 脳内で睾丸を腫らしている場合じゃないぞ! 今すぐ浜辺さんと連絡を取るんだ!

 僕は、ゴムの緩くなっているトランクスが脱げそうになるほどの勢いで立ち上がり、スマホを手に取った。そうしてから、自分は浜辺さんの電話番号もメールアドレスも何にも知らないのだという事実を思い出した。

 サハラ砂漠のど真ん中に身一つで放り出されたような途方のなさを、僕は感じた。脱力しきって立ち尽くしていると、脱げかけていたトランクスが落ち葉のように下がっていった。ちょうどその時、僕の自室のドアがまたもやノックもなく開けられた。

 「うるさくすんなって、さっき言ったばっかじゃん!」

 そう怒鳴ってから、妹は僕の下半身を目撃し、沈黙した。

 全身に剣山を押し当てられたような、痛すぎる沈黙。それに耐えかねて、僕は、「陽菜。ノックしなきゃ駄目じゃないか」と平静を装って、言った。

 妹は、「本当に無理」と無表情で吐き捨てて、僕の自室のドアを閉めた。そっと閉められたドアの嗚咽は切なかった。

 僕は、ゆっくりとした動作でトランクスを穿き直し、椅子に腰を下ろし、スマホを勉強机の上に置いた。それから、深呼吸をして、気持ちを整えてから、思案を始めた。

 整理して考えよう。まず、浜辺さんへの謝罪について。これは、もう、今日中の謝罪は諦めざるを得ない。連絡を取る手段がないのだから、止むを得ない。明日、学校で、出会い頭にすぐ、心から謝罪する・・・・・・よし、浜辺さんのことは、これで一旦考えるのを止めよう。次に考えるのは、陽菜に対してこれからどういったアクションを取るべきかについてだ。故意ではなかったにせよ、ちんちんを見せてしまった以上は、何らかのアクションがあってしかるべきだろう。陽菜が僕のちんちんで心の傷を負ってしまっている可能性がないとは言い切れない以上、何のアクションも取らないという選択は有り得ないのだから。では、具体的にどのようなアクションを取るべきかを考えよう。ちんちんを見せた僕、ちんちんを見せられた妹。加害者と被害者。兄として、いや、人間として、今、僕が陽菜に取るべきアクションは、謝罪しかない。誠心誠意謝罪して、少しでも陽菜の心の傷が癒えるようにするのが、僕の義務だ。正直、釈然としないところはある。僕は、自室というプライベートな空間でちんちんを露出していたわけで、ここに落ち度はない。落ち度があったのは、ノックをせずにドアを開けた妹のほうだ。それなのに、僕のほうが一方的に謝罪するというのは、不条理な話だ。考えようによっては、ちんちんを見られた僕のほうが被害者なわけで、謝罪すべきはむしろ陽菜のほうであるとも言える。でも、これは法廷での話ではなくて、家庭での話なのだ。落ち度がどちらにあるかなんてことは度外視して、家族の心の傷を癒すにはどうすべきかのみを考えるべきなのだ。僕は、ちんちんを見られても、いささかも心に傷を負っていない。これは、強がりではなく真実だ。しかし、陽菜は、ちんちんを見たことで心の傷を負っているかもしれないのだ。今、陽菜は自分の部屋で泣いているかもしれないのだ。

 「ぐだぐだと考えている場合じゃない」僕は勢いよく立ち上がった。「考えるよりも動け。謝罪して、思いやりの言葉を掛けて、陽菜の心の傷を癒すんだ。今すぐに」

 僕は、自室を出た。それから、妹の部屋のドアの前に立ち、ドアを二度、軽くノックした。

 「ごめん。陽菜」

 ドア越しの謝罪に、妹は返事をしなかった。

 僕は、三十秒ほど妹の部屋の前で佇んだ後、「大丈夫か?」と再びドア越しに声を掛けた。

 「大丈夫だから、もういいよ」

 そう返事をしてくれた妹の声は、素直な響きがあり、穏やかだった。恐怖も嫌悪も感じられない、親しみだけが込められた声のようだった。

 妹の心境が窺い知れて、僕は胸を撫で下ろした。同時に、僕は、謝罪と思いやりの言葉は傷付いた人の傷を癒すためにあることを、実感した。その実感が、僕の考えを揺り動かした。

 明日になってから浜辺さんに謝ろうだなんて、僕はどれだけ愚かだったんだ! 今すぐ、一秒でも早く、僕は浜辺さんに謝罪すべきなのに! 一秒でも早く、浜辺さんに思いやりの言葉を掛けるべきなのに! 一秒でも早く、浜辺さんの心の傷を癒すべきなのに! 浜辺さんの電話番号もメールアドレスも何にも知らない!? それが何だ! 学校の友達とかに連絡しまくって、浜辺さんの連絡先なり何なりを教えてもらえばいいだけのことじゃないか! 個人情報を勝手に聞き出すことには抵抗があるけれども、それでも、浜辺さんの心の傷が癒えることこそが最も重要なことなのだから、ここは倫理観を無視して、僕は行動する!

 僕は自室に戻り、スマホを手に取った。そうして、クラスメイトの島田君に電話を掛けた。その瞬間、自宅のドアチャイムが鳴り響いた。

 「陽菜! 僕が出るよ!」 

 僕は島田君への電話を切り、スマホをブレザーの胸ポケットに入れた。それから、一階へ降り、インターホンのモニターを見やった。そこには、肩で息をしている柿崎の姿が映っていた。

 柿崎の様子に尋常ではないものを感じた僕は、玄関へと走り出し、サンダルをつっかけ、玄関ドアを開けた。

 「どうしたんだ、柿崎!? 何かあったのか!?」

 「お前こそ、どうしたんだ!? そんな格好をして!?」

 柿崎に指摘されて、僕は自分がズボンをはいていないことに気が付いた。

 「中で話そう、柿崎。どうぞ、入って」

 僕は柿崎を玄関に通し、ドアを閉めた。

 「どうぞ、上がって」

 「いや、玄関でいい」汗を拭いながら、柿崎は言った。「遊びに来たわけじゃない。お前が変な電話を掛けて寄越すから、心配になって駆け付けただけだ」

 僕は、柿崎に何事かが起こったわけではないのだと知って、安堵した。それから、僕のことを心配して駆け付けてくれた柿崎に、感謝した。

 「何か、悩みでもあったりするのか?」柿崎が言った。

 僕は、柿崎を安心させたい一心で、「大丈夫。悩みなんて何もないよ。僕の心身は、ストレスもなく、健康さ」と言った。

 柿崎は、僕をまじまじと見詰め、それから、「まあ、お前が変なことを言ったりしてくるのは、よくあることだしな」と言って、微笑んだ。

 水も滴る良い男とはよく言ったものだ、と僕は思った。汗だくの柿崎は、異性愛者の僕から見ても色っぽかった。

 「上がっていってよ、柿崎。ジュースでも飲んでいって」

 「いや、帰るよ。シコってる最中に飛び出してきたから、すぐに帰って続きをやりてえんだ」

 「それは、デリケートな時に紛らわしい電話を掛けてしまって、すまなかったね」

 「気にするな」

 そう言いながら、柿崎は僕に背を向けた。

 「そうだ、柿崎。一つだけ、聞いてもいいか?」

 「何だ?」ドアノブを握りながら、柿崎は言った。

 「浜辺さんの連絡先、柿崎は知っていたりするか?」

 「浜辺って、あの学校一の美人って噂の、浜辺娃のことか?」

 「そう、その浜辺さん」

 「どうして浜辺さんの連絡先を知りたがる?」

 柿崎はドアノブから手を放し、僕と向き直った。

 僕は、浜辺さんと付き合い始めたところから何から何までを柿崎に打ち明けようと考え、口を開きかけた。しかし、すぐに考え直し、声が出る前に口を強くむすんだ。

 僕は、なんて思いやりのない人間なんだ! 彼女なんて居た試しがない柿崎に対して、彼女が出来た旨を伝えるなんてこと、そんなの、飢えた人の眼前でバーベキューを始めるが如き非道じゃないか! 飢えた人には焦げたピーマンすら与えられない、非人道的なバーベキューだ! そんな仕打ちを、僕は柿崎に、親友に対して行おうとした! 僕は、最悪だ! これじゃあ、浜辺さんの彼氏失格だけでなく、柿崎の親友すら失格だ!

 「ごめん。柿崎」

 罪悪感と自分自身への嫌悪感から精神に大きな負荷が掛かるのを恐れた脳の自衛本能によって、僕の口は無意識に謝罪を口にしていた。

 「何だってまた謝るんだよ?」

 柿崎が困惑の表情を浮かべた。

 謝罪によって少しだけ気持ちが楽になった僕は、柿崎に嫌な思いをさせずに自分が求める情報を得るためにはどうするべきかと考えるだけの余力を得た。そうして思案した結果、小賢しい知恵など働かせずに愚直であろう、という考えに至った。

 「柿崎。僕がどうして浜辺さんの連絡先を必要としているのか、その理由は、言えない。どんな拷問を受けたって、それだけは言えない。でも、これだけは言える。僕は浜辺さんの連絡先を悪用しようなんてことはこれっぽっちも考えていない。これは、真実だ。命を懸けてもいい。だから、柿崎。もしも浜辺さんの連絡先を知っているのならば、教えてくれ」

 長い睫毛に縁どられた茶色っぽい瞳が、僕の瞳を見詰めた。体の距離は離れたままだというのに、瞳の奥の奥まで覗かれているような感覚を、僕は覚えた。その感覚に耐えかねて、僕は俯いた。

 「俺は浜辺さんとは一切接点がない」柿崎の声は穏やかだった。「力になれなくて、悪いな」

 玄関ドアの開く音がして、僕は顔を上げ、外へ出ようとする柿崎の後姿に向かって、「今日は来てくれてありがとう、柿崎。無事に帰宅して自慰に励んでくれ」と声を掛けた。

 柿崎は振り返らぬまま、「おう」と言って、後ろ手でドアを閉めた。

 柿崎が去ってから、僕は、取りあえずズボンを穿こう、と思い立った。そうして、サンダルを脱ぎ、階段に向かって歩き出した直後、スマホのバイブレーションが僕の左の乳首を刺激した。

 性感帯への不意打ちに、僕は喘ぎ声を漏らした。僕は片膝をつき、震える手でスマホを胸ポケットから取り出した。

 スマホにラインの通知が一件届いていた。クラスメイトの井上君からのラインだった。僕は井上君からのメッセージを読んだ。


 浜辺さんに君の連絡先を聞かれたので、教えました。登録されていない携帯番号から掛かってくる電話は、浜辺さんからのなので出てください。


 浜辺さんが僕に電話を掛けてくると知って、僕は激しく取り乱した。

 わざわざクラスメイトから連絡先を聞いてまで僕に電話を掛けてくる理由は何だろうか!? まさか、僕に別れを告げるために、電話を掛けてくるつもりじゃあるまいか!? ちんちん野郎として警戒している僕相手に対面で別れを切り出すのが怖いから、電話で別れを告げようという考えなのか!? いや、もしも僕をちんちん野郎として警戒しているのであれば、通話することだって怖がるはずだ! メールやラインで別れを告げてくるはずだ! 花井潤! マイナス思考にならず、プラス思考になるんだ! わざわざ電話を掛けてきてくれるということは、浜辺さんは僕と話をすることを嫌がってはいないということじゃないか! 浜辺さんは優しいから、僕に釈明の機会を与えてくれようとして、電話を掛けてきてくれるのかもしれないぞ! そうであるならば、僕は、ちんちんを連呼してしまったことの釈明を全力でする! そうして、心から謝罪して、思いやりの声を掛けて、浜辺さんの心の傷が癒えるよう尽力する!

 僕は、スマホを胸ポケットに戻し、正座して、浜辺さんからの電話を待った。

 数十秒後、スマホのバイブレーションが再び僕の乳首を刺激した。僕は、快感に身もだえた。浜辺さんからの電話が僕の乳首を刺激している、そう思うだけで、僕の雄の性は猛り狂った。

 永久に乳首を刺激され続けていたい、そんな願いを抱きつつも、僕は浜辺さんの心の傷を癒すという初志を貫徹するために、欲望に抗いながら、立ち上がり、胸ポケットからスマホを抜き取った。そうして、スマホの画面をきちんと見ぬままに、勢いよく通話アイコンをスワイプした。

 「興奮しすぎて、あんなことをしてしまったんだ! 本当に、ごめんなさい! 僕は、優しくて綺麗な君が大好きです! これからもずっと、僕の彼女でいてください!」

 感情をむき出しにして、僕は思いの丈を言葉にした。

 少しの沈黙の後、受話口が小さく震えた。

 「そんな、俺、困るよ。俺、花井君のことは、ずっと友達だと思っていたのに」

 大きな喉仏を連想させる低い声に驚いて、僕はスマホを耳元から離し、スマホの画面をきちんと見た。表示されている発信者は、見ず知らずの番号ではなく、島田君、という漢字三文字だった。

 鏡を見ずとも、自分の顔が青ざめていることに僕は気が付けた。

 僕は、恐る恐るスマホを耳元に戻した。

 「俺、どうしていいか、分かんないよ。俺、女の子からだって、告白されたことなんてないんだから。それに、綺麗だなんて言われたのも、初めてだし」

 いつもはハキハキとしている島田君の、聞き慣れないモジモジした物言いに、僕は呆気に取られ、口をぽかんと開けた。

 「訳わかんなくって、困っちゃうよぅ」

 島田君の女の子っぽい口振りが、電気ショックみたいになって僕を襲った。それが、僕の気付けになった。

 「島田君。ごめん。さっきの僕の発言は、間違いなんだ」

 少しの沈黙の後、島田君は、「間違いって、何なのさ。どうしたら、そんな間違いをするのさ」と無感情な声で言った。

 浜辺さんから電話が掛かってくるのだから島田君に事情をきちんと説明している時間はない、と僕は考えた。わざわざ電話を掛けてきてくれる浜辺さんに対して、話し中の無礼を働くなど、僕には到底できないことだった。

 「島田君、ごめん。事情は明日、学校でちゃんと説明するよ。それじゃあね、切るよ」

 何かを言い掛けた島田君の声を無視して、僕は電話を切った。

 「ごめん、島田君。僕は、友達がいのない男なんだ。君のことよりも、浜辺さんのことのほうが大事なんだ。本当に、ごめん」

 そう言いながら、僕は再びスマホを胸ポケットに戻し、正座して、浜辺さんからの電話を待った。

 廊下はひんやりとしていて、剥き出しの腿と膝と脛が、冷えて震えた。二階で勉強しているであろう妹の小さな息遣いさえもが聞こえてくるような静けさが、一秒を永遠のように感じさせる。雪原で春を待つ野ウサギの心持ちで、僕は浜辺さんを求めた。

 孤独は、不安を強めた。僕は、次第に、浜辺さんが遠のいていくように感じ始めた。

 「恋焦がれ、待ちぼうけるは、春の人、約束もなく、夏を待つかも」

 僕は、即興で短歌を詠み、薄ら笑った。

 「浜辺さんからの電話がすぐに掛かってくるとは限らないのに、こうしてスタンバっている僕の、なんと愚かであろうことか。友達も多くて勤勉な浜辺さんが、僕への電話を最優先にしてくれるなどと、思い上がりも甚だしい。僕なんかへの電話など、優先順位が低くて当然じゃないか。夕食、お風呂、勉強、友達とのコミュニケーション、そういったあれこれの合間に、ちょこっと出来たその時間に、僕に電話を掛けて頂けるのならば光栄の至り、それくらいの謙虚さがなくてどうする、花井潤。そもそも、電話を掛けてきてもらえる保証だってありはしないのだから、座して待つなどという行為は、愚行そのものでしかない」

 そう呟きつつも、僕は立ち上がることなく、正座を続けた。足が痺れ、下半身が冷え切り、己の思い上がりに憤り、孤独に気が狂いそうになっても、僕は浜辺さんだけを思い続けた。

 「好きなんだ、浜辺さん。君が僕の全てなんだ。僕の体も、心も、時間も、全て、君のためだけにある。愚行であったとしても、僕は、君からの電話を、永遠に待つよ」

 そう呟いた刹那、電動歯ブラシを乳首に押し当てられたような快感が僕を襲った。自分の声とは思えないほど淫らな善がり声が、僕の口から溢れ出る。力が抜け、上体が前に倒れ、僕は図らずとも四つん這いになった。

 浜辺さんからの電話だ、と僕は確信できた。井上君からのバイブレーション、島田君からのバイブレーション、それらとは全く異質な震えかたを、スマホがしていたからだ。井上君からのバイブレーションと島田君からのバイブレーションは、唯、気持ちいいだけだった。でも、浜辺さんからのバイブレーションには、気持ちよさだけではなく、乳首の内側にある心のドアを優しくノックされるような愛おしい感覚もあるのだ。

 浜辺さんからのバイブレーションに合わせて、僕の心身も震えた。浜辺さんが与えてくれる刺激とシンクロする心身に、僕は喜びを見出した。快感は幸福への架け橋なのだと、僕は身を以て知った。

 幸せの絶頂に至った僕は、何の悔いもなく、スマホを胸ポケットから抜き取り、通話アイコンをスワイプした。

 「もしもし」

 そう言った僕の声は、自分でも驚くくらいに、すっきりしていた。

 「あの、浜辺です。花井君、だよね?」

 それは可憐な声だった。開花したばかりの桜みたいな声だ。浜辺さんの声を聞いただけで、僕の心身はぬくぬくした。僕の耳は、浜辺さんの声だけを求めた。

 「はい。僕です。花井です。花井潤です」

 僕は、桜の花びらが驚いて散ってしまわぬようにと、慎重に、丁寧に、声を発した。

 「ごめんなさい。勝手に花井君の携帯番号を調べたりしちゃって」

 浜辺さんの声を受けて、僕は激しく動揺した。

 浜辺さんに謝罪をさせてしまった! 謝るべきは僕のほうなのに!

 「全然、気にしてないよ。僕のことなら、何でも好きに調べちゃって構わないよ」

 そう言ってから、自分の発言が上から目線のような気がしてきて、僕は、盗人猛々しいとはこのことだ! と脳内で自分自身を非難した。

 「少し、話がしたいんだけど、今、時間、大丈夫?」

 「幾らでも、幾らでも時間があります。僕は」

 「ありがとう」

 「いえ、僕のほうこそ、ありがとう」

 浜辺さんの小さな笑い声が聞こえた。僕は増々、浜辺さんのことが好きになった。

 「私、今日のことを謝りたくて、花井君に電話をしたの」

 「謝る? なんで、浜辺さんが?」

 その声には僕の混乱が滲み出ていた。

 「だって、私、花井君を下校に誘っておいて、それなのに、急に用が出来たなんて言って、すごく、失礼なことをしちゃったから。だから、ごめんね、花井君」

 またもや浜辺さんに謝罪をさせてしまった、その事実に、僕の罪悪感は極限まで強まった。

 「私、それを少しでも早く謝りたくて、ちゃんと謝りたくて、それで、勝手に携帯番号を調べたりしちゃって。自己満足だよね、こんなの。私、花井君のことをちゃんと考えられてない。ごめんなさい」

 「謝るのは僕のほうだよ!」僕は、トランクスが脱げ落ちる勢いで立ち上がった。「僕が悪いんだ! 浜辺さんを不快にするようなことをしたから! あんな閑静な住宅街のど真ん中で、浜辺さんをちんちん責めにした、僕が悪いんだ! ごめんなさい、浜辺さん! 僕、浜辺さんのことが大好きだから、それで、興奮しちゃって、訳が分かんなくなっちゃって、ちんちんを馬鹿みたいにおねだりしちゃったんだ、浜辺さんに! ちんちん、ちんちん、ちんちんって、浜辺さんが嫌な思いをするかどうかとか一切考えられないで、ちんちん責めをしちゃったんだ! 僕が馬鹿だったんだ! 浜辺さんを傷付けるつもりなんてなかったのに、ちんちんばっかりになっちゃって、僕が悪いんだ! 浜辺さんは何にも悪くないんだ! ごめんなさい、浜辺さん! ごめんなさい! もう二度と、ちんちんをおねだりしたりしないから、許して! ごめんなさい! 大好きなんです、浜辺さんが!」

 理性による校閲を素通りした言葉が、溢れ出したのだった。僕は、唯、必死だった。冷静さを焼き尽くしてしまうほどの情熱に、身も心も焦がしていた。

 浜辺さんが、沈黙した。その沈黙が、僕の熱を冷ました。オーバーヒートした脳が正常に戻り、僕はようやく、察するに至った。再びちんちん連呼を浴びた浜辺さんの戸惑いを、察するに至った。

 またもや浜辺さんに下品な言葉を浴びせ掛けてしまった自分が、心底許せなくて、僕は、江戸時代であったならば切腹したであろう激情を以て、己を憎んだ。

 不思議なことに、己を憎めば憎むほど、浜辺さんを愛しく思う気持ちが強くなった。やがて、僕の心からは憎しみが消え去り、浜辺さんへの愛だけが残った。僕は、思いつく限りの神様仏様に、願った。どうか浜辺さんが傷付いていませんように、と。

 「少し、落ち着いてから、また、電話してもいい?」

 絞り出したような浜辺さんの声に対して、僕は、「お願いします」とだけ返した。

 「それじゃあ、一回、切るね」

 その声が聞こえてから、少しして、電話は切れた。

 僕は、糸の切れた操り人形みたいに崩れ落ちた。この世の終わりみたいな絶望感が、僕を苛んだ。

 「浜辺さん」

 弱々しい声で呟きながら、僕は、ふと、玄関を見やった。そこには、父と母が立っていた。フルタイムの仕事を終えて帰宅したスーツ姿の二人は、顔面蒼白だった。

 「潤」母が震える声で言った。「浜辺さんて方に、ちんちんをおねだりしたって、一体、何の話なの? ちんちん責めって、一体、何の話なの?」

 母の様子と発言から、僕は自分の置かれた状況を理解した。下半身を露出した状態で電話をしながらちんちんを連呼する、その一部始終を両親に見聞きされたという事実を理解した。

 突如吹き荒れた危機感の嵐が、絶望感を吹き飛ばした。僕は、胸ポケットにスマホを入れ、立ち上がり、トランクスを穿き直し、それから、両親と向き合った。

 「母さん、父さん。違うんだ。浜辺さんっていうのは、クラスメイトの女の子で・・・・・・」

 「クラスメイトの女の子を、閑静な住宅街のど真ん中で、ちんちん責め」

 そう呟いて、母は、ふらっ、と倒れそうになった。そんな母を、父が咄嗟に抱き留めた。

 「ママ。気を確かに」心配の滲み出た目を母に向けながら父は言った。

 母は、父に抱かれながら、僕を一生懸命な目で見詰め、「ちんちんって、何なの?」と空ろな声で呟き、それから、両目に涙を溜めた。

 「大丈夫。私が潤と二人で話をするよ。男同士のほうが話しやすいこともあるからね」

 そう言って、父は僕に目を向けた。その目が余りにも優しすぎて、僕は言葉を詰まらせた。

 「潤。最近、父さん忙しくて、ちゃんと潤と話す時間を作れなかったよな。今日は、父さん、ちゃんと潤の話を聞くよ。潤が何か問題を抱えているのなら、父さん何でも話を聞くよ」

 犯罪を犯した息子を諭すように、父は言った。

 「父さん、母さん、違うんだ」僕は必死になって口を動かした。「ちんちんって言っても、如何わしいものではないんだ。ちんちん責めって言っても、疾しいものではないんだ。確かに、僕は浜辺さんにちんちんをおねだりしたけれど、それは父さんと母さんが思っているようなことでは決してないんだ」

 弁明にもならない弁明の声だった。焦りが、まともな思考力を僕から奪っていた。

 母が声を出して泣き出した。父は母の肩を優しくさすりながら、僕の後方を見やり、「陽菜。お母さんをお願いできるかな?」と言った。

 僕は、父と同じところへ視線を向けた。そうして、階段の中段に佇む妹を視認した。妹は、汚物を見るような目で僕を見下ろしていた。

 妹は母のそばへ駆けていき、「お母さん、行こ」と言って、母の手を握った。

 「陽菜。父さんとお兄ちゃんの話は少し長くなるかもしれないから、お母さんと二人で先に夕ご飯を食べちゃって構わないからね」

 「分かった」

 そう言って、妹は母の手を引いてダイニングへと姿を消した。

 「潤。リビングで話をしよう」

 父は僕の肩をそっと抱き、壊れ物を扱うようにして、僕をリビングへと誘導した。僕は、父にどうやって浜辺さんとの一件を説明すればいいのかと思案し、同時に、次に浜辺さんと話をする際にどうやって謝罪するべきかも思案した。それらの思案に全能力を用いた僕は、父の誘導に抗う力を失い、大人しくリビングへ入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る