第5話 メロンパン ブラッシュアップ不足バージョン

 教室で、廊下で、屋上で、下校の路で、浜辺さんと目が合って、言葉を交わして、笑みが重なって、手が触れて・・・・・・僕は、浜辺さんと共有する生活圏の至るところで恋の芽吹きを見つけ、その一つ一つを青い記憶に閉じ込めて、胸の奥に大切に仕舞っていった。そうして積み重なった恋のメモリーが、そのまま、幸福だった。

 付き合い始めて十日以上が経ち、それでも、愛情は初なベールを纏ったままで、恋の鮮度は微塵も傷まずに保たれていた。永遠の恋、そんな夢想が現実味を帯びるほどに、浜辺さんへの僕の想いは純粋なままだった。浜辺さんの声を聞くだけで甘い吐息が漏れ出てしまうほどに、純粋なままだった。

 「花井君」

 廊下に立ち、舞い散る雨を窓越しにぼんやりと見詰めていたら、不意に浜辺さんに声を掛けられて、僕は思わず甘い吐息を漏らした。 

 「これから、昼食?」

 「うん。学食に行く途中だったんだ。浜辺さんは?」僕の呂律は甘い吐息の余韻で乱れていた。

 「うん。私も、学食」

 「友達と?」

 「ううん。一人で」

 「珍しいね。浜辺さん、昼食はいつも友達と一緒に取ってるのに」

 「今日は・・・・・・」そう囁いて、浜辺さんは照れたような笑みを浮かべた。「花井君と一緒に食べられたら好いなと思って、一人で学食に向かってみたの」

 その浜辺さんの言動に、僕は可愛さの極を見た。慎ましさと、健気さと、悪戯っぽさと、それらが程よくブレンドした、Kawaii文化の革命児。その神々しい趣すら帯びた可愛さに、跪きたい衝動を覚えるも必死にそれを抑え込み、僕は紳士のパッションを以て、言うべきことを口にした。

 「僕も浜辺さんと一緒に食事がしたいとずっと思ってた。浜辺さん。僕と一緒に学食に行ってください」

 雨に濡れそぼった窓が水鏡のようになって、浜辺さんの横顔を映していた。その鏡像に朱が差すほどに、浜辺さんの頬は染まった。

 「うん。一緒に行こう」

 湿り気を帯びた廊下に小さな波紋を落とした浜辺さんの声は、果てしなく瑞々しかった。

 僕の胸の鼓動は雨音よりも強く、浜辺さんの胸の鼓動もまた、僕が感知できるほどに強かった。胸の鼓動を共鳴させながら、僕たちは学食に向かって歩いた。

 

 雨のためにテラス席が使用できないのもあって、学食の室内席は満席で、注文を受け付けるカウンターの前には空席が出来るのを待つ生徒たちが長蛇の列を作っていた。

 「これに並んじゃったら、昼食を食べきる前に昼休みが終わっちゃいそうだね」と僕が言うと、浜辺さんは、「購買部で何か買って食べる?」と言った。僕は首を縦に振った。

 学食から少し歩いたところにある購買部に、人の姿は疎らだった。

 陳列棚に残る食品の乏しい有様から、ほんの数分前まで、購買部は昼食を求める生徒たちでごった返していたであろうことが想像できた。

 「パンが少し残ってる程度だけど、浜辺さん、パンだけで足りる?」

 「うん。私は足りるよ。花井君こそ、足りる?」

 「僕も大丈夫だよ」

 僕たちは、購買部のカウンターの前に立ち、販売員のおばさんに、「こんにちわ」と挨拶した。販売員のおばさんは柔和な笑顔で、「こんちにわ」と返した。

 購買部の食品は、140円均一のパン五種類が一個ずつ残っているだけだった。

 「浜辺さんは、どのパンを食べたい?」

 「花井君から選んでいいよ」

 「浜辺さんが食べたいパンを僕が先に選んじゃったりしたら悪いから、浜辺さんから、どうぞ」

 「私だって、花井君には好きなパンを食べてほしい。だから、私に気を使わないで、先に選んで」

 浜辺さんから選びなよ、花井君から選びなよ、の幸福な無限ループ。思いやりが絡まり合う、心のスキンシップともいうべき譲り合いが、続いた。

 「仲の良いカップルさんだね」

 販売員のおばさんが穏やかな声で言って、浜辺さんは恥じらい、俯いた。その羞恥に揺らぐ様が余りにも幼気で、必然、僕は慈しむ眼を以て浜辺さんを見詰めた。

 「二人がそれぞれ買ったパンを半分こずつにすればいいじゃない」販売員のおばさんが言った。「そうすれば、二人とも食べたいパンを食べ損ねることがないでしょう」

 「素敵な考えですね、それ」僕は言った。「浜辺さん。半分こで、いいかな?」

 浜辺さんは、円らな笑みを浮かべ、「うん。半分こ、しよ」と言った。

 僕は、醤油パンを購入した。浜辺さんは、メロンパンを購入した。それだけでは食べ足りないので、僕と浜辺さんは70円ずつ出し合い、ピザパンも購入した。そうして、販売員のおばさんにお礼を言って、僕たちは購買部を後にした。


 僕は、自ずと2年D組の教室へ向かって歩いていた。そんな僕に付いて歩いていた浜辺さんが、ふと足を止めた。

 「どうしたの?」と僕が尋ねると、浜辺さんは、「教室で、みんなの前で半分こするのは、少し恥ずかしいなって思って」と答えた。

 いじらしいまでの、もじもじ。そんな様相の浜辺さんが眩しくて、僕は目眩を覚えた。

 「どこか、二人きりで食事が出来るところって、ないかな?」浜辺さんが慎ましい口調で言った。

 浜辺さんに頼られている! その事実が、僕の心中に誇らしい使命感を芽生えさせた。僕は、浜辺さんの要望に応えるべく、自身の脳髄に全力で鞭を打った。そうして、一つの考えを捻り出す。

 「漫画部の部室で昼食を食べるのはどうかな、浜辺さん? 昼休みは部室が解放されていて、部室で昼食を取ることも禁止されていないでしょ」僕は言った。「漫画部の部員たちはみんな独自に漫画を描いていて、滅多に部室に来ないから、漫画部の部室でなら二人きりになれるよ」

 「でも、部員でもないのに勝手に部室を使っちゃ駄目だよ」

 「大丈夫。僕、漫画部の部員だから。読む専門の幽霊部員だけどね。部員が一緒なら、一人くらい部員じゃない子が部室を使ったって問題じゃないよ、きっと」

 浜辺さんは思案するように自身の細い首筋をそっと撫でた後、「それなら」と言って、僕の考えに賛同の意を示した。

 「決まりだね」

 そう言って、僕は踵を返し、浜辺さんを先導して、漫画部の部室へと歩を進めた。


 校舎のB棟の4階には文化部の部室が軒を連ねていて、その一画に漫画部の部室もあった。

 漫画部の部室に隣接する茶道部の部室から漏れ出た談笑の声が、人気のない廊下に響いた。僕は、漫画部の部室の引き戸をそっと開けた。

 引き戸を開けてすぐ、部室に居た井上君と目が合った。井上君は、「やあ、花井君」と言って、それから、僕の後ろにいる浜辺さんの姿を認めて、「あれ、なんで?」と怪訝の声を漏らした。

 僕は、漫画部の部室でなら二人きりになれると豪語しておきながら部室に先客が居たという浜辺さんに対して格好がつかない状況に、強く動揺した。同時に、浜辺さんと二人きりで辺鄙な漫画部の部室にやってきたことを井上君に訝られた状況にも、強く動揺した。

 あたふたしている僕を尻目に、井上君は、冗談めかした口調で、「こんな所に二人きりで来るなんて、逢引きみたいだね」と言った。

 自ずと卑屈な心が働いて、僕は、僕みたいな凡愚と非凡な浜辺さんが逢引きなんて有り得ないよ! という声を発しそうになった。そうして、ハッとする。花井君が誰と付き合っているのか尋ねられた時に本当のことを言ってくれれば嬉しい、と先日に言ってくれた浜辺さんの声を思い出す。そうして僕は、絡みつく卑屈の茨を愛と勇気の力で引きちぎり、胸を張って、真実を口にした。

 「逢引きだよ」金管楽器の音色のような、自分でも驚くほど良く響く声だった。「僕と浜辺さんは付き合っているから」

 僕の真実の声を聞いた井上君は、表情筋を硬直させ、それから、徐に眼鏡を外し、レンズに軽く息を吹き掛け、眼鏡を掛け直し、「マジ?」と言った。

 真実を口にする清々しい体験が引き金となって、僕の脳内で大量のエンドルフィンが分泌された。裸の心が解き放たれて、僕は極度の興奮状態に陥り、堰が切れた大河のように激しい勢いで真実を流出させた。

 「僕は浜辺さんを心から愛しているんだよ、井上君。彼女なしでは僕はもう生きることさえ叶わない。僕の生命の源と言っても過言ではないほどに、彼女は僕の根幹に位置しているんだ。浜辺さんの有する全て、アプロディーテーさえ裸足で逃げ出す美貌も、メーティスが認めるであろう知性も、蛇の奸計を逃れたイブのように汚れない心根も、その全てを、浜辺さんの全てを、僕は心の底から愛でている。僕にとって、浜辺さんは無限の春をもたらしてくれる愛の恵みそのもの。惜しみなく注がれる性の陽光そのもの。僕の心身は彼女に焦がれ、尚も、尽きることのない彼女の魅力は僕の心身を熱している。それでも、構うものか。世界で一番すばらしい女性である浜辺娃の熱に焼き尽くされるのであれば、僕は本望。喜んで、彼女に焼かれよう。身命を賭して、僕は浜辺さんを愛する。僕の全ては浜辺さんの物。浜辺さんの息吹をこの地球上に感じるだけで、僕の魂は天に昇る。この喜びを惜しみなく与えてもらっているのだから、僕の全てなど、容易く浜辺さんに差し出せるさ。ああ、愛しの君、浜辺娃。僕は君ほど美しい人を他に知らない。君ほど尊い人を他に知らない。ああ、僕に愛を教えてくれた女神、浜辺娃。君を思うだけで僕の・・・・・・」

 「花井君」僕の声を遮るように、僕の袖を引っ張った浜辺さんの顔は真っ赤だった。「もう、そのくらいに、しよ」

 浜辺さんの赤面と羞恥に震える声が、冷雨となって降り注ぎ、僕の興奮を冷ました。そうして訪れた冷静の中で、先ほどの自分の発言を顧みて、僕は浜辺さんに負けないくらい顔を赤らめた。

 呆気に取られた様子の井上君は、平常心を取り戻そうとするかのように深く息を吐き、それから、浜辺さんを見やり、「マジで、この花井君と付き合ってるの?」と言った。

 浜辺さんは、真っ直ぐな瞳を井上君に向けて、「うん。付き合ってる」と言った。その声は、はっきりと僕の琴線に触れた。

 「驚いた。想像だにしなかったカップリングだ」そう言って、井上君は強張っていた相好を崩した。「この場合、祝福すればいいのかな? 二人とも、おめでとう」

 「ありがとう」という僕の声と浜辺さんの声が重なった。初めての共同作業ともいえるハーモニー。思わず、僕たちは見詰め合い、互いに、はにかんだ。

 「初々しいね」悪戯っぽく、井上君は言った。「カップル水入らずを邪魔しちゃ野暮だし、俺は失礼しようかな」

 「いいよ、井上君。私たちに気を使って出て行ったりしないで」浜辺さんが言った。

 「気を使ってなんかないよ、浜辺さん。俺はこいつを取りに部室に来てただけだから」そう言って、井上君は左手に持っていた冊子を挙げた。

 「それ、去年うちの部で出した文化祭の同人誌だよね」僕は言った。

 「ああ。ちょっと読み直したくなってさ。私物のが紛失してしまったから、部室のを一部だけもらいに来たんだよ」

 部室の隅には段ボールが山積みに置かれている。その中身は全て、過去に漫画部が作った同人誌だ。例に漏れず、去年の文化祭で売れ残った同人誌も十冊以上、段ボールの中に収まっていた。

 「それじゃ、お二人さん、ごゆっくり」

 井上君は僕と浜辺さんの脇をすり抜け、廊下に出て、挙げた片手を愉快そうにひらひらと振りながら歩き去っていった。

 井上君が去ってから少しして、僕は部室の引き戸をそっと閉めた。そうして、僕と浜辺さん二人っきりの密室が完成する。部屋いっぱいに浜辺さんの香りと熱が籠っていくような気がして、僕の心拍は激しいリズムを刻んだ。

 部室の真ん中には木製の大きな丸テーブルが置かれていて、その机を囲むようにして椅子が八脚、置かれている。僕はその内の一脚を引いて、「どうぞ、浜辺さん。この席に座って」と上擦った声を出した。

 浜辺さんは、「ありがとう」と言って、僕が引いた椅子に座った。

 僕は、浜辺さんのすぐ隣まで寄せた椅子に座り、膝の触れ合いそうな距離にドキドキしながら、机の縁に視線を落とした。

 「部室、綺麗だね」浜辺さんが言った。照れを誤魔化すような声だった。「漫画部の部室って、もっと物が溢れてるイメージだけど」

 「部員はみんな、私物のタブレットで漫画を描いてるからね。部室に置いてある物といったら、歴代の漫画部が作った同人誌と、漫画部が代々集めてきた漫画の資料くらいのものなんだ」

 僕は同人誌の詰まった段ボールを見やり、それから、紙媒体の漫画の資料が大量に収納されている大型のガラスキャビネットを見やった。そのガラスキャビネットは僕たちの真向かいにあって、ガラス戸には僕と浜辺さんのバストアップが映っている。僕は、その淡い像の浜辺さんをまじまじと見詰めた。

 少しだけ沈黙があってから、浜辺さんが、「さっきは、ありがとう」と囁いた。

 僕は鏡像の浜辺さんから生身の浜辺さんに視線を移した。

 茶色の色彩を帯びている浜辺さんの虹彩は、スモーキークォーツのような透明度を有していて、そこに恋心がはっきりと透けて見え、僕は吸い込まれるように彼女に見入った。

 雨が小降りになって、湿気が薄い膜のようになった部室は静寂に包まれていた。その静寂が、淑やかに震える。

 「私と付き合ってるって、言ってくれて。私のこと、好きだって気持ち、いっぱい言葉にしてくれて。恥ずかしかったけど、すごく、嬉しかった」

 僕の全身を、愛の電流が駆け巡った。骨格が透けて見えてしまうんじゃないかと心配になるくらい、駆け巡った。神経の末端まで痺れて、心の底まで焦がして、その愛の熱傷は、僕の欲求を浮き彫りにした。

 愛でたい、浜辺さんを・・・・・・。

 人間としての理性による愛、それを遥かに超越する、生物としての本能による愛。悲しき獣のサガが、僕の雄の部分を熱くした。

 浜辺さんは、僕の目を見詰めたまま微動だにしない。まるで、視線の接吻を貪っているかのようだ。

 夢現のように蕩けた浜辺さんの表情が、女の顔を形作る。同い年の、まだ十六歳の少女とは思えない、妖艶。光に誘われる虫のようにして、僕の顔が、浜辺さんの顔に近付く。浜辺さんの甘い香りが強まって、僕の鼻孔が至福の痙攣を起こす。浜辺さんの目が閉じられて、浜辺さんは目蓋さえもが美しいのだと知れる。唇の潤いすらも感知できるほどに、二つの花弁は距離を縮め、接触間際の恍惚にさえ、僕と浜辺さんは身を震わせた。

 「克巳はネコだろ!」

 突如、女子の怒声が静寂を打ち破り、僕と浜辺さんは弾かれたようになって、お互いの顔を離した。怒声は、茶道部の部室から聞こえてきたものだった。

 「ドイルがネコで克巳はタチだっての! いい加減、真実を認めろ!」

 別の女子の怒声も茶道部の部室から聞こえてきた。その声に続いて、「喧嘩は止めなよ、二人とも! どっちがネコでもタチでも、尊ければいいじゃんか!」というもう一人の女子の声も聞こえた。

 二人の女子が言い合う声と、二人を制止するもう一人の女子の声。それらの声が響き渡っている間、僕と浜辺さんは恥じ入ったように俯いて、一言も交わすことなく過ごした。

 三分ほど経って、茶道部の女子たちの声は聞こえなくなった。結局は烈の総受けが正義、という謎の落としどころで二人の口論が終息したのが、再び静寂が訪れた理由だった。

 僕は、部室の掛け時計を見やり、有限の昼休みを思い、「浜辺さん。パン、食べよ」と言った。浜辺さんは、か細い声で、「うん」と言った。

 僕たちは、机の上に置いた三つのパンをそれぞれ半分にちぎった。

 「僕は、醤油パンから食べようかな」

 「私は、ピザパンかな」

 「やっぱり、僕もピザパンから食べよ」

 そうしてお互いに伸ばした手が、ピザパンの上で触れ合って、静まっていた欲情が再び顔を覗かせた。その欲情を恐れるようにして、浜辺さんはピザパンの片割れを素早く掴み、サッと手を引いた。僕は、浜辺さんの手の残像を愛撫するように手指を動かした後、意気消沈しながら、残ったピザパンを手に取った。

 パンを食べながら、僕は、浜辺さんの食する姿に見惚れた。一口サイズにちぎったパンを艶やかな口で包み込み、丁寧に咀嚼しながらも無音を貫き、滑らかな流動を以て飲み込む。その一連の姿にこそ如実に品位が現れていて、浜辺さんは正に上品の鏡だった。

 小振りな顎関節が咀嚼の度に小さく動いて、その動きさえも浜辺さんは美しかった。機能美の極ともいえる浜辺さんの顎関節、それをおかずに、僕の食は進んだ。

 僕たちは、ピザパンを食べ終えて、その後に醤油パンを食べ終えた。そうして、メロンパンを手に取った浜辺さんが、照れた様子で、「あーん、してみる?」と言ったので、僕は卒倒してしまいそうになった。

 「あーん、って、あの、あーん?」気付けに自身の腿をつねりながら、僕は言った。「アイーン、じゃなくて、あーん?」

 「うん。あーん」

 「恋人同士がやる、あの、あーん?」

 「恋人同士がやる、その、あーん」

 「慈しみの念を懐きつつ開放された口内に食物を供える、あの、あーん?」

 僕がくどく言い募ると、浜辺さんは拗ねたように視線を泳がせて、「やりたくないなら、やらなくていいよ」と囁いた。

 「やりたくないなんてことはないよ、浜辺さん!」あーん、がやりたい一心で、僕は必死に叫んだ。「あーん、是非やろう! 是が非でもやろう!」

 言うが早いか、僕は座り直して体の正面を浜辺さんに向け、口角が裂けてしまいそうになる勢いで口を大きく開いた。

 浜辺さんも、座り直して体の正面を僕に向けた。そうして、浜辺さんは蠱惑な眼を煌めかせながら、僕の口内を覗いた。

 今朝は念入りに歯磨きをしてきた。だから、僕の歯は白光の輝きを纏っている。三時限目の終了後にブレスケアを噛んできたし、口のにおいも清浄だ。この口内環境なら、浜辺さんに見られようが嗅がれようが何も恥ずかしいことはない・・・・・・そんなふうに考えていた時期が、僕にもありました。

 今、僕は、のどちんこを浜辺さんに見られている・・・・・・その事実に思い当たった瞬間、羞恥心が一気に湧き上がって、僕の心身は猛烈に火照った。

 食い入るような浜辺さんの視線が、僕ののどちんこを愛撫している、感覚。その感覚に精神を激しく乱されて、一種の錯乱状態に陥った僕は、浜辺さんに見られているのがのどちんこなのか喉ではない方のちんこなのか区別が付かなくなり、羞恥心は極限まで高まった。

 恥ずかしさが気持ちよさに比例して、魂が善がり狂う。全身の汗腺から汗が滲み、僕を淫らに濡らす。僕は、のどちんこを震わせて喘ぎを漏らした。

 快感がキャパシティを越えて、僕の口は自ずと閉じられた。それは、これ以上連続的に快感を享受するのは危険であると肉体が判断した、自衛本能による生理現象だった。

 「ごめんね、花井君」浜辺さんが慌てた声を出す。「私、花井君に見入っちゃってた。ずっと口を開けているの、きつかったよね」

 小さな深呼吸を繰り返し、火照った心身を冷ましながら、僕は、「大丈夫だよ、浜辺さん」という声を振り絞った。

 「今度は、すぐにパンを食べさせてあげるね」そう言って、浜辺さんはメロンパンを一口サイズにちぎり、そのちぎったパンを僕の口元に近付けた。「はい、あーん」

 浜辺さんの、あーん、の声が僕の耳を犯して、僕は堪らず、「あん」と零した。

 「あん、じゃなくて、あーん、だよ」

 うら若い母親が幼児に言い聞かせるような声で、浜辺さんは言った。その声に無垢を呼び起こされて、僕は性の淫らを振り切り、純真を以て、「あーん」と口を開いた。そうして、ちぎったパンをつまむ浜辺さんの人差し指が、僕の上唇に軽く触れる。途端に、性の快感が狂乱の嵐となって吹き荒び、僕の純真無垢を吹き飛ばした。唇が性感帯と化した僕は、浜辺さんの人差し指の微かな動きが与えてくる弱い刺激にさえ悶絶して、欲情を滾らせた。

 浜辺さんを食べてしまいたい! その欲求が理性を支配して、僕は浜辺さんの指を食むように口を閉じた。しかし、浜辺さんの指は舞い散る木の葉のように掴み所なく離れていって、僕の口内にはメロンパンだけが残った。

 「どう、美味しい?」と浜辺さんが言って、僕は無念を懐きながらも丁寧にメロンパンを咀嚼した。

 浜辺さんの手指の温もりが残ったメロンパンは、僕が今まで口にしてきた食べ物の中で最も神聖で、美味だった。

 「美味しいよ」感動で声が震える。「世界で一番、美味しいよ」

 浜辺さんは笑って、「大袈裟」と言った。

 天からの慈悲深きギフトともいうべき、浜辺さんの、あーん。その素晴らしいお恵みにお返しをしてあげたくて、僕は思考を巡らせた果てに、「僕も浜辺さんに、あーん、してあげたいな」と口にした。

 浜辺さんは、頬ばかりか耳までをも紅潮させて、吐息を漏らすように、「うん。して」と囁いた。

 僕は、全力で煩悩を抑え込みながら、紳士然とした様相で、メロンパンを一口サイズにちぎり、それを浜辺さんの唇に近付けて、「それじゃあ、浜辺さん。あーん」と言った。浜辺さんは、ぎゅっと両目をつぶり、「あーん」と愛らしい声を出して、口を開いた。

 天女が戯れる純潔の箱庭、そんな形容が相応しい、浜辺さんの口内だった。整然と並んだ純白の歯、麗しい艶に濡れる舌、柑橘系を思わせる清潔な好き香り、それらが完璧に調和して、美の極致は成り立っていた。

 浜辺さんは口内すら美しいんだ、という感想を懐き、感慨に耽った僕は、ふと、口内の奥に見える慎ましい突起物を見つけ、驚愕した。

 のどちんこだ! 浜辺さんの、のどちんこ! 信じられない! 浜辺さんみたいな可愛い女の子にも、のどちんこが付いているなんて! 喉にちんこが生えているなんて!

 妖しい癖が僕の胸中に忍び寄った。得体の知れない興奮が湧き立つ。その興奮を持て余し、僕は食い入るように浜辺さんののどちんこに見入った。

 場は停滞しながらも時は流れ、幕が下りるようにして、浜辺さんの口が閉じられた。

 浜辺さんは僕を詰るように見詰め、言った。

 「花井君、長いよ・・・・・・早く、して」

 「ごめんね、浜辺さん」浜辺さんが醸し出すエロスに魅入られながらも、僕はどうにかこうにか理性を保ち、言葉を紡いだ。「次はすぐに入れるから。はい、それじゃあ、もう一回、あーん」

 浜辺さんは再び両目をつぶり、「あーん」と言って口を開いた。

 僕は、神域に踏み入るような厳粛な心持ちで、浜辺さんの口内に向けてメロンパンをつまむ手を動かした。その人差し指が上唇に触れて、浜辺さんは身震いした。僕も、身震いした。浜辺さんの唇は、柔らかくて滑らかで、その感触は、上質なゆし豆腐のそれを遥かに凌いでいた。

 いつまでも浜辺さんの唇に触れていたい・・・・・・その強い欲求に駆られながらも、僕は浜辺さんにメロンパンを食べさせるという初志を貫徹するために、名残を惜しみながら、つまんだメロンパンを放し、浜辺さんの口から手を離した。

 浜辺さんは口を閉じ、僕が与えたメロンパンをゆっくりと咀嚼し、それを飲み込んでから、「美味しいね」と笑顔で言った。その笑顔を見て、その声を聞いて、僕は男ながらも母性を芽吹かせた。授乳を済ませた母親みたいな感情が、僕の心を支配する。僕の与えたメロンパンを食した浜辺さんが、愛おしくて愛おしくて、僕は一生涯、浜辺さんを守ってあげたいと思った。そう思えることは正しく喜びで、親愛は性愛とは異なる喜びをもたらしてくれるのだと、僕は身を以て知ったのだった。

 あーん、の残り香は恥じらいの芳香で、僕たちは残りのメロンパンを自分の手で自分の口に運び続ける間、一言も口を利けなかった。

 メロンパンを食べ終えてから、ようやく僕たちは羞恥の峠を越えて、会話を交わせるようになった。

 他愛のない会話すらもが幸福で、僕は、このまま昼休みが永遠に続いてほしいと強く願った。しかし、時間は残酷で、昼休みは刻一刻と終わりに近付いていった。

 いつの間にか、雨は止んでいた。雲の隙間から差した陽光が、濡れそぼった窓を透かして部室に注ぎ込まれる。潤いを含んだ煌めきは、テーブルの天板やキャビネットのガラス戸などに反射して、室内に無数の光のベールをかけた。

 「そろそろ、教室に戻らなくちゃね」

 そう言って立ち上がった僕の袖を、浜辺さんは優しくつまみ、可憐な上目遣いで僕を見詰め、口を開いた。

 「二日後、日曜日に、私とデートしてくれる?」

 幸福の青い鳥の囀りとでもいうべき、浜辺さんの声。甘美が過ぎて、僕は恍惚とし、返す言葉を失くした。

 「駄目、かな?」

 憂いを含んだ浜辺さんの声が聞こえて、僕は呆けた心身を奮い立たせ、「デート、しよう、浜辺さん」と真摯な思いを言葉にした。

 桜花爛漫を地で行くように、浜辺さんは満面に笑顔の花を咲かせた。その花に触れたくて伸ばした手が、彼女の頬に触れて、伝わった温もりは、僕の心身を永遠に温める種火となった。

 初めて交わしたデートの約束は、初々しさ故に拙くて、僕たちは、待ち合わせの時間と場所を決めることを失念し、どこへデートに行くのか決めることさえをも失念し、唯、日曜日の逢瀬を思い、心を躍らせたのだった。

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