第3話 早朝の騒乱 そして、不可解な連敗⁉︎

 夏休みの初日。

 七月の後半といえど、早朝の気温はそれほど高くもなく、清々すがすがしい朝の風が吹いている。

 太陽が東の空に昇り始め、空の色が黒から藍、青を経てオレンジへと移ろいでいく。それでも、人の動きすら感じられないほどの、朝の早い時間。


 古びた建物の二階の窓から、二十軒ほどが立ち並ぶ、小さな商店街を見下ろす視線があった。

 小さな顔立ちに、つり目がちな大きい瞳。肩まで伸ばした栗色の髪が、窓越しの朝の風に揺れている。

 大きく深呼吸して、朝の空気を胸いっぱいに感じ取る。

 そして。

「もぉ、休みの日のほうが早起きできる、わたし……って、なんだろ?」

 誰が聞いているわけでもないので、自分への戒めも込めて、自嘲気味に呟いて笑う。


「ホントにここで生活することになるなんて、考えもしなかったなぁ……。お母さんも二つ返事でオーケーしちゃうんだもんなぁ……」

 今度の呟きには、多分に感慨が込められている。


「でも、一番の驚きは、さくらちゃん……だよねぇ。わたしたちの事、三人まとめて受け入れてくれて、住むところ用意してくれて、お母さんの療養とリハビリを兼ねるとか言って、このお店も任せてくれて。いくら感謝しても、したりないよね……?」

 感謝の気持ちが、自然と心の奥底から湧き上がってくる。


「感謝といえば、しのぶさんとか、マリさんとかにもだよねぇ……。さくらちゃんの話だと、ここに住むことを、お母さんに提案してくれたのが、しのぶさんで。この部屋をすぐに使えるようにしておいてくれたのが、マリさんだったとか。話の展開が速すぎて、わたし、まだついていけてないけどさぁ……。あっ、そんなことが気になって、こんなに早くから目が覚めちゃったのかなぁ……。うん、きっと、そうだ。イタっ……」


 自問自答して、ひとり納得のいく回答を得られたのと同時に、額めがけて小さな何かが飛んできた。

 部屋の中に転がった、小さな何かの正体、小石を拾いあげる。そして、それが飛んできた方向へと視線を向けた。

 その視線の先では、おとなの女性が手を振っている。


「おはようございます、しのぶさん」

 時間を気にして、控え目に挨拶をする。

「ん、おはよう、沙羅さらちゃん、随分と早いのね? どう……? ここでの生活には慣れたかしら……?」

 しのぶと呼ばれたおとなの女性も、周囲を気遣いながら、沙羅と呼んだ女の子へと問いかける。


「はい、おかげさまで。わたしたちの歓迎会をしてくれたあの日は、その後、美亜みあと今までできなかった分、たくさんの話をして、その後はもう朝までグッスリでしたよぉ……。母も、美亜も、それから、さくらちゃんもですよ。今では、三日しか経ってないのに、慣れちゃったわたしがいます」

「それはよかったわ。それで……? そのさくらちゃんが、隣の部屋だったりするのが気になって、早くから目が覚めてしまった……と?」

 しのぶが、悪戯っ子の表情のまま、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

「な、な……なにを言ってるんですかぁ……?」

 しのぶからの質問に、一瞬にして耳まで紅く染めて、沙羅が反論しようとするが、うまく言葉が出てこない。


「もぉ、沙羅ちゃんも、まだまだお子チャマだなぁ。さくらちゃんと、ひとつ屋根の下で、一夜を共にしたのだって、昨日で何日目よ……?」

「な、な……なにを言ってるんですか? ひとつ屋根の下……って、部屋は別ですよぉ」

「世間では、ひとつ屋根の下で、一緒に生活することを同棲……と呼んでいるわね」

「ど、同棲ぃ? そ、そ、それに、一夜を共にする……って? 最初の時は、さくらちゃんとは、女の子同士のつもりでしたし。あの夜だって、部屋は別だったじゃないですかぁ。しのぶさんたちも一緒だったのにぃ……」


 慌てふためくとは、まさにこういうことなのだろう。

 沙羅のそんな様子を、笑いたい衝動を必死に堪えながら、なおもしのぶが続ける。

「あれっ? でもさぁ、小百合さゆりさんは喜んでたわよぉ……。わたし、この年で、もうお祖母ちゃんになれるかしら? うふっ♡。……ですって」

「ぶっ。お、お母さんまで、な、な、なに言ってくれちゃってるのよぉっ」

「なんなら、教えてあげよっかぁ? 小百合さんを、お祖母ちゃんにする方法。でも、沙羅ちゃんの年頃なら、経験はまだでも知識としては知ってるかなぁ……?」


「わっきゃぁぁぁぁっ! し、しのぶさんまで……、いいかげんにしてくださいっ。朝から話題にすることではないですってぇ」

「ん……? そうかなぁ? でもさぁ、実際にそういう展開になった時は、女の子の沙羅ちゃんが、さりげなくリードしてあげないと、ふたり一緒に、気持ちよくなれないわよ」

 しのぶが、ニヤニヤしながら、沙羅への攻撃を続けている。


「あうぅぅ……、気持ちよくなれないってなんですか? ふたり一緒にって、どういうことですか? し、しのぶさぁん……、わ、わたしは、こういう場合、どうしたらいいんですかぁ? まだまだ、ずぅっと先のことだと思ってたんですよぉ」

 慌てまくる沙羅の口から、未だに言葉がうまくでてこない。


「わたしは……、そんなに先の話ではないと思うけどなぁ……。ていうよりも、時間の問題なんじゃないのぉ? 沙羅にとっては……?」

 沙羅が顔を覗かせていた、部屋の奥から声が聞こえてきた。

 そこには、沙羅よりも小柄で幼い顔立ちをした女の子が、パジャマ姿のまま立っていた。


「あぅ……、ごめん。うるさかったよね? って、ええええぇぇっ。な、なに、時間の問題ってどういうこと……? ねぇ、美亜みあ?」

「うん、朝早くからうるさいと思うわよ……。でも、少し早いけど、起きようと思ってたところだったし、ちょうどよかったわ……」

 美亜と呼ばれた、パジャマ姿の女の子が、人の悪い笑顔を浮かべながら、沙羅の質問の部分だけ聞こえないフリで、話に加わってきた。


 続けて。

「しのぶさん、おはようございます。昨日もありがとうございました。わたしたちのために、あんなにも盛大な、かの歓迎会を開いてくださって。昨日、仰っていた朝の稽古、これからなんですね……? あの、わたしたちも見に行ってもいいですか?」

「やぁ、おはよう、美亜ちゃん。興味あるの? 見学だけでも大歓迎よ」

「ありがとうございます。すぐ、着替えていきます。沙羅も行くでしょ……?」

「行く……って、どこへ?」

「あれっ? 昨日の夜、しのぶさんが言ってたじゃないのよぉ? 空手の朝稽古があるって。夏休み中は近所の子たちに教えてるんだって」

「そ、そうだったっけ……? ごめん、よく覚えてない……」

「沙羅らしいわ……」

 そう呟いた美亜は、階下から見上げていたしのぶとふたりして、揃って苦笑している。


「沙羅は見学に行かないの……?」

「うーん、どうしようかな……」

「さくらくんも、昨日の夜、行くって言ってたわよぉ。そうでしたよね? しのぶさん?」

「え、えぇ……そうだったわね」

 しのぶは、美亜の思惑を感じ取ったのだろう。返事をした後、肩が小さく震えている。


 ふたりから攻撃を受けているなどと、露程も思っていない沙羅が少しだけ考えた後、しのぶに向けて答えた。

「さくらちゃんが行くのなら、わたしも……、い、行こうかな?」

「沙羅……? なに、その変わり身の速さは?」

「あぅ……」

 美亜の一撃が、沙羅を襲う。

「沙羅ちゃんは、解りやすくていいわぁ……」

「あぅあぅ……」

 しのぶからの連続された一撃が、沙羅に追い討ちをかけている。

 そのまま、沙羅が窓際で崩れ落ちた。


 その様子を下から見上げていたしのぶが、視界の中に残った美亜に優しく声をかける。しかし、しのぶの肩は未だに小さく震えている。

「ふたりとも、着替えておいで。ここで、待ってるわよぉ……」

「はい、すぐ、行きますね。沙羅も連れて……」

 答えた美亜の肩も小さく震えている。そのまま、部屋の奥へと、美亜が沙羅を引きずるようにして消えていった。


 束の間の静寂が、商店街に戻ってきた。

 その静寂に溶け込んでいくように、しのぶの口から、小さな呟きが漏れ出した。

「あのふたりも、さくらちゃんの能力ごと受け入れたうえで、さくらちゃんの素の部分を好きになってくれてるみたいだよねぇ……」

 そう呟いたしのぶの顔には、優しい笑顔が自然に浮かんでいた。



「しのぶさん、お待たせしました……」

 不意に、しのぶの立っていたすぐ後ろのドアが、静かに開いて、その中から声が聞こえてきた。

 しのぶが、声のしたほうを振り向く。

 そこには、しのぶと同じような軽装の、沙羅と美亜が立っていた。


「そしたら、行こうか……?」

 しのぶが、ふたりを促す。

「あ、あの……」

 美亜がしのぶを呼び止めた。

「ん……?」

「あ、いえ……、さくらくんのこと、待たなくてもいいのかなぁ……って」

「ん……? あぁ、いいのいいの。さくらちゃんなら、もう道場にいると思うわ」

「えっ? それなら、どうして、しのぶさんは、さくらくんのお店の前にいたんですか? わざわざ、わたしたちのことを迎えに?」

「ん……。まぁ、それもあるけどね。昨日の歓迎会の中で、沙羅ちゃんが空手の経験者みたいな話を聞いたからね。ふたりで手伝ってもらおうか……なんて思ったのよ」

「わ、わたし……ですか? わたしにできることなんて……あります?」


「うん。実技指導の師範代」

「師範代ぃ……? わたし、そこまで強くないですよ。あれっ? 今、しのぶさん、ふたりで手伝うって言いましたよね? わたし……と誰?」

「さくらちゃん」

「へぇ、さくらちゃん……って、ええええぇっ。あの子、空手なんてできるんですか?」

「イヤイヤ、できるとかのレベルじゃあないからね、あの子の場合。正式な段位は持ってないけど、ウチの師範が認めてるよ。そのほかにもいろいろ、結構な数の武道を嗜んでるわよ。それに、教室のこどもたちからは、絶大な人気だし……」


「さくらちゃん、そんなに強いんだぁ……。わたしと変わらないあの体格からは、想像すらできませんよ。それに、こどもたちに人気って、うわぁ……」

「さくらくん、見たまんま優しいですもんね。物腰も柔らかですし……」

「そうね。強くて優しい……っていうのは、なかなか両立できることではないわね」

「うぅむ、強いとつい自慢したくなるよね?」

「沙羅はそうかもしれないけど、さくらくんは、そんなことしないわよぉ……」

「わたしだって、しないけどさぁ。さくらちゃん、そういうトコ、自分から言わないからなぁ。知らなかった」

「沙羅ちゃんも、自分でさくらちゃんの実力確かめてみる……?」

「むぅ、気になるなぁ……」

「さくらくんのほうが強いと思うわよ……」

「美亜はどうして、そんなことがわかんのよぉ。やってみなくちゃわかんないじゃん」

「はいはい……」

 道場まで向かう間、この場にいないさくらの話題で、話が弾む三人だった。


 しかし、美亜の言うとおり。

 結果は、沙羅の三連敗。

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