第6話 鳥取県対高知県 ブラッシュアップ不足バージョン

 無観客の公私宴球場、その上空を、国益放送局の撮影用ドローンが一機、飛行していた。ドローンの全長は5メートルほどで、柔軟な動きが可能なビデオカメラを十台も装備している。このドローン一機で、プロ野球中継並の映像量を撮影できるのだ。国益放送局の公私宴撮影スタッフは、全員、大城山の麓に停めてある中継車に乗車している。球場入りしているスタッフは一人もいない。公私宴球場内にいるのは、公私宴出場者と審判だけだった。

 開会式終了後、丁寧にグラウンド整備されたダイヤモンドは、純情の結晶のように光り輝いていた。そのダイヤモンドを、鳥取県代表が陣取る一塁側ダッグアウトから皆野が見詰めていた。

 不良として無数の修羅場を経験してきた皆野でさえ、公私宴のダイヤモンドが放つ威圧感の前では初な少年と化した。負けられない試合の重圧が恐怖となって、皆野の心を苛む。皆野は全身を激しく震わせた。

 「ブルっちまってるのかい?」真田が皆野に声を掛けた。「これから戦場になるフィールドを目の当たりにして、ブルっちまってるのかい?」

 「この俺がブルったりするもんかよ。この震えは、あれだ、武者震いってやつだ」皆野は強がりを言った。「真田さんこそ、震えてるじゃねえかよ。その震えは何かい、加齢からくる震えってやつかい?」

 ダッグアウト入りする前のロッカールームで、皆野は鳥取県代表の全員と自己紹介を済ませていた。

 鳥取県代表の面々で、ロッカールームでジャージなどの運動着に着替えたのは優崎と楽境だけで、他の者は球場入りする前の格好そのままであった。

 「生意気を言うじゃない、未来ちゃん」真田は笑い、それから、真顔になった。「未来ちゃん。俺のこの震えは、ブルってる震えだよ」

 皆野は真田の正直な告白に面食らった。

 「戦場を前にしてブルったりしねえ奴がいるとすりゃあ、そいつは人間じゃあねえ、マシーンだ」真田は野球帽をかぶり直した。「未来ちゃんよぉ。ブルっちまうことは問題じゃねえんだ。ブルった上でその恐怖を乗り越えられるかどうかが問題なのさ。そうして、俺は、恐怖になんぞ負けやしねえ。ネットで何でも購入できるこのご時世に自営でおもちゃ屋なんかやってんだ、俺は。毎日が店を畳むかどうかの瀬戸際で、そいつは正しく恐怖の連続で、それでも恐怖を乗り越え続けて今日まで店を切り盛りしてきたんだ、俺は。この恐怖も、乗り越えてやんぜ、俺は。未来ちゃん。おめえさんも、恐怖に負けるんじゃねえぞ」

 皆野は真田の発言を金言として胸に刻み、己の恐怖を認め、恐怖と対峙し、恐怖を乗り越え、震えを止めた。

 「タフなハートをしてやがる。自営業向きだ、未来ちゃんは」

 真田が微笑んだのと同時に、漢咲が一塁側ダッグアウトを出てホームベースに向かって歩き出した。高知県代表が陣取る三塁側ダッグアウトからは下劣が出てきて、彼もまたホームベースに向かって歩いた。ホームベース付近には、四人の男が立っていた。四人とも、上下黒のスーツ姿だった。彼等は、この鳥取県対高知県で審判を務める男たちだった。

 「何が始まるんです?」皆野が大原に尋ねた。

 「オーダー表を審判と相手チームに渡すんだ。それから、じゃんけんで先攻後攻を決める」大原が答えた。

 「じゃんけん? そんなもんで大事な公私宴の先攻後攻を決めようっていうのかい?」

 「甲子園でだって、先攻後攻はじゃんけんで決めるんだ。公私宴でも同じようにするのは何も不自然なことじゃねえ」真田が言った。

 漢咲と下劣はオーダー表を審判に手渡し、それから、もう一枚のオーダー表を互いに手渡した。

 「野球っていうスポーツはよぉ、漢咲」下劣が言った。「どうしたって後攻が有利な競技なのさ。例えるならば、先攻は債務者で、後攻は債権者ってとこだな。先攻はどれだけ稼いでも安堵できない苦痛に苛まれ続け、後攻は先攻の稼ぎ次第で攻撃の強弱をいくらでも図れる優越を貪り続けるんだ。先攻と後攻、すなわち、持たざる者と持つ者には天と地ほどの格差があるのさ。精神的余裕からして違うんだよ、精神的余裕からしてな。まさに、野球は人生そのものさ」

 「じゃんけんで決める以上、後攻を得る確率は誰にでも平等にあります」漢咲が言った。

 「その平等を捻じ曲げるのが、力ってやつだ!」下劣が叫んだ。「俺は、この試合での勝利をより確実なものとするために、このじゃんけんで後攻を得るために、安居渓谷占いの大家に大枚はたいて、このじゃんけんで何を出せば勝利できるのか、占ってもらってあるのさぁ! 俺は、確実に、このじゃんけんに勝利できるのだ!」

 「公私宴法第276条で、先攻後攻を決めるじゃんけんにおいて運の要素を除外するあらゆる行為は禁止されています。違反者は公私宴出場権を失います」蟹江が言った。

 「そうだというのに、下劣の野郎、公私宴運営委員会の審判の前で堂々と自らの不正をさらけ出しやがった」真田が言った。

 審判が、僅かに眉根を寄せた。それを目ざとく見つけた下劣は、審判に向かって嫌らしい声を放った。

 「おい、公私宴省の犬よ! へへ、悔しいか? 俺の不正を知りつつも俺を罰することが出来ないことが悔しいか? 検察の力を借りなければ公私宴法違反を立件することができない、公私宴省の無力さが歯がゆいか?」

 人の神経を逆なでする下劣の声に対して、審判は無言を貫いた。それが癇に障り、下劣は審判の人格を否定する暴言を発した。

 「お止めなさい、下劣さん」漢咲が厳しい声で言った。「聞くに堪えない醜悪な発言だ」

 「俺に指図するな! 知事風情が!」

 「下劣さん。一刻も早く、じゃんけんをしましょう」漢咲は右手を腰の辺りに構え、じゃんけんの臨戦態勢をとった。「私は、一刻も早くじゃんけんを終え、一刻も早く試合を開始し、一刻も早くあなたを打ち破りたい」

 下劣のこめかみから、プチ、という音が聞こえた。下劣は、猛烈に切れた。

 「奇遇だなぁ、この野郎! 俺も一刻も早くてめえをぶち殺してやりてえと思ってたところだ!」そう言って、下劣も右手を腰の辺りに構えた。「最初はグー、は、あるんか!? この野郎!」

 「なしでいきましょう」漢咲が言った。

 「それじゃあ、いくぜぇ! じゃんけん・・・・・・」

 ぽん! と、漢咲と下劣は同時に発声した。そうして、同時に、右手を突き出した。漢咲はパー、下劣はチョキだった。

 「どうだ! この野郎! これが金の力だ! すなわち、これが俺の力だ!」下劣は声の限り叫んだ。「安居渓谷占いの大家に一億円を払ったかいがあったぜ!」

 「一億円だと!? 野郎、金持ちなのは知ってたが、一億円も自腹を切れるほどの金持ちだったとは知らなかったぜ!」真田が驚愕の声を上げた。

 「おいおい、何を勘違いしてやがる?」下劣は一塁側ダッグアウトを見やり、とびっきり悪い顔を作った。「この偉大な下劣杉男様が、自腹を切る訳がないだろう・・・・・・税金だよぉ! 地方税だよぉ! 高知県議会の俺の下僕共が民生費からくすねた金で、一億円を払ったんだよぉ! 高知県民が必死こいて払ってる税金でぇ、じゃんけんの結果を占ってもらったんだよぉ、俺はよぉ! これが、これこそが、衆議院議員様の役得ってやつだぁ! 下劣杉男様のパワーってやつだぁ!」

 そう言ってから、下劣は悪びれる様子など微塵もないままに大笑いした。

 「根っこから腐ってやがる」真田が怒りを込めて言った。

 「お金は、大事!」唐突に、漢咲が叫んだ。その大声は、下劣の笑いを一瞬でかき消した。「その大事なお金、ましてや国民のお金である尊い税金を、粗末にする人間は政治家失格どころか人間失格だ!」

 下劣は漢咲に圧倒され、失禁した。

 「この野郎! ロッカールームで着替えてきたばかりなのに、またズボンとパンツを濡らしちまったじゃねえか! てめえという男は、二度も人のズボンとパンツを汚しやがって! クリーニング屋の回し者かよ、てめえはよぉ!?」下劣は漢咲を指差した。「本気で切れたぜ、俺はよぉ! 漢咲! てめえは殺すだけじゃあ済まさねえ! てめえは、この世のありとあらゆる苦痛と屈辱を味わわせたうえで殺してやる!」

 言い終わって、下劣は三塁側ダッグアウトへ戻っていった。

 三塁側ダッグアウトに戻った下劣は、ダッグアウトの奥にある、ロッカールームへと続く通路の入り口まで歩を進めた。

 「どこへ行くんだい?」ダッグアウトのベンチに優雅に腰掛けていた狩谷が言った。「すぐに試合が始まるっていうのに」

 「着替えてくるんだよ! ついでに昼寝でもしてくらあ!」下劣が叫んだ。「この俺様がいなくても、お前らならこんな試合、楽勝だろう!」

 そう言って、下劣はロッカールームへと続く通路に足を踏み入れた。

 「確かに、あんたがいなくても何の影響もない」下劣が去ってから、狩谷が言った。「あんたみたいな政治家と政治の関係そのままに、ね」

 下劣がロッカールームへと続く通路へ姿を消したころ、漢咲は一塁側ダッグアウトに戻っていた。

 「高知県代表のオーダー表を見せてください、漢咲さん」大原が言った。

 「はい、どうぞ」漢咲は大原に高知県代表のオーダー表を手渡した。

 「あの狩谷という男は、四番でファーストか」オーダー表を見ながら大原は言った。

 「あの野郎はピッチャーでくると思ってたがね」真田が言った。

 「これはラッキーですよ」優崎が言った。「彼の投げる球なんてとても打てる気がしませんから」

 「優崎さん。あの狩谷って男のことを警戒しすぎじゃないですか?」松田が言った。「実力が未知の敵を過大に評価しないほうがいいと、俺は思います」

 「松ちゃんの言う通りっすよ、サキさん。狩谷っち、ピッチャーをやらせてもらえないってことは、実はそれほど強くないのかもしれないっすよ」海原が言った。

 「あるいはあの狩谷さんよりも、この諸星さんという高知県代表の先発ピッチャーのほうが強いのかもしれない」大原の持つオーダー表を見ながら蟹江が言った。

 「まあ、結局はやってみなけりゃ何も分からんのさ」楽境が言った。「高知県代表がどれほどの力を有しているのか分からん以上は、やっこさんたちを過大評価も過小評価もせず、儂らは儂らのベストを尽くすだけじゃて」

 楽境が言い終わったのと同時に、公私宴球場のスコアボードの時計が午後二時を指した。

 「これより、第23回夏の公私宴1回戦第1試合を開始します!」審判が言った。イカルの鳴き声みたいによく通る声だった。「高知県代表は守備について!」

 審判の指示に従って、高知県代表のスターティングメンバーが各々の守備位置に向かって走っていった。

 「ところで、未来ちゃん。おめえさん、野球のルールは分かっているのかい?」真田が尋ねた。

 「分かっている」

 「公私宴では、細かいところが普通の野球のルールと異なるから、注意が必要だぜ。例えば、ネクストバッターズサークルがないから次の打者はダッグアウトから出てはならないとか、ランナーコーチを置くことが禁止されていたりとか、選手交代でベンチに引っ込んだ選手を再び試合に出場させられたりとか、守備妨害と走塁妨害の判定がルーズだったりとか、色々と普通の野球とは異なるところがある。まあ、それでも、大部分は普通の野球と同じルールだから、普通の野球のルールを分かってさえいりゃあ、問題なくプレイ可能だ」

 真田が話している間に、高知県代表のスターティングメンバーは全員、守備につき終えた。そうして、漢咲がバッタースボックスに立った。 

 高知県代表のピッチャーは、身長2メートルを優に超えるサウスポーの男だった。彼は、野球のユニフォームに身を包んでいた。この試合に出場する者たちのなかで野球のユニフォームを着用しているのは、彼と真田だけだった。審判もキャッチャーも防具を身に付けておらず、野球の試合でありながらも野球の正装である諸星と真田の姿は一際目立っていた。

 「良いツラしてやがる。マウンド姿も粋だ」真田は、高知県代表のオーダー表をまじまじと見た。「諸星投也・・・・・・聞いたことのねえ名前だ。この野球マニア真田哲夫が、あんな凄まじいマウンド姿の男を知らねえわけがねえんだが」

 絵に描いたような野球選手である諸星投也とは対照的に、スーツ姿で右打席に立つ漢咲大黒柱は絵に描いたような政治家だった。

 漢咲は、ヘルメットをかぶっていなかった。靴はスパイクではなくいつものローファーだ。彼が持つ金属バットの長さは、106.7センチメートル。野球規則および公私宴法で定められたバットの長さの限界だ。

 ピッチャーズマウンドからバッタースボックスまでの約18メートルの距離で、諸星と漢咲は視線を交わした。それだけで、言葉は交わさずとも、二人は正々堂々の真っ向勝負を誓い合えた。

 公私宴球場に迷い込んできた風が、諸星と漢咲の髪を優しくなでた。その風が去ってしまうと、公私宴球場はまるで凪のような静寂に包まれた。

 静寂のなか、諸星は大きく振りかぶった。そうして、グングニルを投げるオーディンみたいなオーバースローで、ボールを放った。

 恐ろしい速度のボールは、一瞬でキャッチャーミットに吸い込まれた。

 「ストライク!」球審が叫んだ。

 「速い!」真田が驚愕の声を上げた。「素人のストレートじゃねえぞ、あれは! あれじゃさすがの漢咲さんも見逃すしかねぇ!」

 「球速は160キロメートルっす!」諸星の投げた球にスマホを向けていた海原が言った。「スマホのスピードガンアプリで計ったから、間違いねえっす!」

 一塁側ダッグアウトがどよめいた。

 「野球の神様もとんでもねえ逸材を生み出しちまったもんだ。あの立っ端で160キロを放る? 冗談だろう?」真田が冷や汗を流した。

 一塁側ダッグアウトがどよめいている間に、諸星が二球目を投じた。初球と全く同じ速度の球が、外角低めいっぱいに決まる。漢咲はその球も見逃した。

 「球が速いだけじゃない! コントロールまで完璧だ! 諸星投也、奴は完成されたピッチャーだ!」真田が驚嘆の声を上げた。

 「うわあ!」唐突に、海原が悲鳴を上げた。

 「どうした!? キヨちゃん!?」

 「このスピードガンアプリ、アメリカ製で、それで、実は、球速表示がキロメートルじゃなくて、マイルだったんす! それにたった今、気が付いたんす! あのピッチャーの本当の球速は、160マイルなんす!」

 「160マイルだとぉ・・・・・・」真田の顔が凍り付いた。

 「160マイル・・・・・・それがどれくらいすごいんだか、ピンとこんのう」楽境が言った。

 「私も、いまいちピンときません。キロメートルには馴染んでいますが、マイルには馴染みがないもので」優崎が言った。

 「1マイルは約1.6キロメートルです」蟹江は動揺のあまり眼鏡拭きで冷や汗を拭っていた。

 「つまり、時速160マイルは、時速257キロメートルだ」松田が動揺を押し殺した声で言った。

 「257キロメートル!? 超特急よりも早いじゃないか!」大原が叫んだ。

 「打てねえ。あの球は打てねえ」真田が悲壮感を纏った声で言った。「人間が打てる球じゃねえよ、あれは」

 一塁側ダッグアウトの面々は、諸星の球があまりにも衝撃的だったために、激しく動揺した。そのなかで、皆野だけが微塵も動揺していなかった。

 「問題ねえや、あんな球」皆野は言った。「速くてコントロールが良いだけだ、あんなのは」

 「野球の素人が、分かったような口をきくんじゃないよ!」真田が叫んだ。「諸星の球は速くてコントロールが良いだけじゃねえ! ダッグアウトからでも分かる異常なノビが、奴の球にはあるんだ! キレだって尋常じゃない! ピッチングマシンが投げるような死んだ球じゃねえんだよ、奴の球は!」 

 「漢咲さんの顔をよく見てみなよ」皆野は漢咲を指差した。「優雅な顔してるだろう。まるで平日の真昼間からアフタヌーンティーとしゃれこんだ紳士みてえな余裕っぷりだ。あの人はこれっぽっちも動揺しちゃいないぜ」

 諸星が三球目を投げた。駆け引きなしの三球勝負、インハイの時速160マイルのストレートだ。プロ野球選手でさえも容易に打つことは不可能な球、それに対する漢咲は野球の素人である。中学時代は家庭科部に所属、高校時代は文芸部に所属、大学時代は将棋のサークルと囲碁のサークルに入り浸り、社会人になって以降はゴルフを少々たしなんだ程度、そんな漢咲が時速160マイルのストレートを打ち返せる方法は唯一つ、コースの山を張ってバットを振る、それだけである。コースの山を張ってバットを振る、その勇気ある決断を、漢咲は既にやってのけていた。そうして、漢咲の山を張る能力は、運を天に任せる類のものとは次元が違っていた。

 2026年、とある民間放送のテレビ局のニュース番組にて、政治ジャーナリストの上杉龍はこう語った。

 「政治家に最も必要な能力、それは、先見の明である。しかし、嘆かわしいことに、先見の明を有した政治家は、過去から現在に至るまで、たったの二人しか存在していない。一人は、戦後日本の父、仁義大徳。そして、もう一人は、日本の失われた希望、漢咲大黒柱。彼らだけが、先見の明を有していた」

 この発言で、内閣総理大臣国滅鬼畜丸の怒りを買った上杉は、政治ジャーナリズムの世界から完全に干されることとなった。

 政界の生き字引とまで呼ばれた男、上杉龍。彼の目は節穴ではなかった。事実、漢咲大黒柱は、先見の明を有していた。その先見の明を以てして、漢咲は、諸星が投げるコースを看破していた。諸星が三球目を投じる直前に、漢咲はホームベースから少し離れ、インハイを打つためのスペースを作っていた。そうして、迫りくるインハイの時速160マイルのストレートに向かってバットを振る。肘をコンパクトにたたみ、バットのヘッドを立てた、素晴らしいスイング。必然、漢咲は諸星の球をバットの芯でとらえた。そのインパクトの瞬間、金属バットと硬球が悲鳴を上げた。身の毛もよだつ打球音であった。

 打球音が鳴り止んだ時、漢咲の打球は公私宴球場のセンター上空を飛んでいた。その打球のあまりの美しさに見惚れたセンターは、一歩も動かなかった。打球はまるで羽が生えているかのように空を飛び続けた。そうして、打球はバックスクリーンを越え、大城山を飛び出し、辰野町を飛び出し、松本市まで飛んでいき、松本城の大天守に突き刺さった。

 諸星の頬を一筋の汗が伝った。

 常軌を逸した場外ホームランによって、公私宴球場は沈黙の底に沈んだ。無音の世界で、漢咲は昔気質なメジャーリーガーばりのポーカーフェイスのままゆっくりとダイヤモンドを一周した。漢咲が一塁側ダッグアウトに帰ってきて、ようやく、鳥取県代表の面々は歓喜の雄叫びを上げ、沈黙を破った。

 「なんてお人だい! あんたは!」真田が漢咲の肩を激しく叩いた。「良い意味で、人間じゃねえや! あんたは!」

 歓喜する仲間たちを前にして、漢咲の表情は曇っていた。

 「恐ろしい球でした」漢咲は言った。

 「確かに、恐ろしく早え球だった!」真田が陽気に言った。「でも、未来ちゃんが言ったように、速いだけだ、あんなのは!」

 「サナさん、さっきと言ってることが丸っきり違うじゃないっすか!」海原も陽気な声を出した。

 「恐ろしいのは球の早さではありません。真に恐ろしいのは、球の威力です」

 そう言って、漢咲は自身が使ったバットを皆に見えるように前へ出した。そのバットは、絞られている雑巾みたいに捻じ曲がっていた。

 「なんじゃあこりゃあ!?」真田が叫んだ。

 「金属バットがここまで変形するなんて、どれだけ大きなな力が加わればこうなるんだ?」優崎が冷や汗を拭った。

 「もしも、気の力の足りない者があの球をジャストミートしたら、その者はインパクトの衝撃に耐えられず、即死します」漢咲が断言し、一塁側ダッグアウトに戦慄が走った。「そこで、私から皆さんへのお願いです。どうか、打席ではバットを振らずフォアボール狙いに徹してもらいたい」

 言い終わって、漢咲は深々と頭を下げた。

 「その願いは聞けねえよ、漢咲さん」真田がヘルメットをかぶりながら言った。「三球でも充分に、あの諸星って奴が優れたコントロールを有していることが知れた。打席で突っ立ってるだけじゃあ、見す見すアウトを献上するようなもんだ。負けられねえ勝負で、それは有り得ねえ」

 漢咲は顔を上げ、真田を見やった。

 「私が全打席でホームランを打ちます。そうすれば、皆さんが全打席で凡退したとしても、鳥取県代表チームは九回までで四点取れる。その四点を守り切れば勝利できるのです。わざわざ皆さんが打席で命のリスクを負う必要はない」

 「勘違いすんな、漢咲大黒柱! 俺はおめえに保護されるために公私宴に出場したんじゃねえ!」真田が怒鳴った。「あんたから、気の力の足りない者扱いされることは、俺のプライドが許さねえ! 俺は、フルスイングをカマして、諸星の球をレフトスタンドに叩き込むぜ! その様を、両の目ん玉おっぴろげて、よーく見てな!」

 真田は、自前のバットを握りしめ、怒りのオーラを発しながら打席へと向かっていった。そんな真田の後ろ姿に、漢咲は悔恨の眼差しを向けた。

 「漢咲君よぉ」楽境が漢咲の腰を優しく叩いた。「漢咲大黒柱という男の強大な力におんぶにだっこであることを良しとする者なんて、鳥取県代表には一人もおらんよ。儂らは、公私宴優勝までの計六試合をあんたと一緒に戦い抜いていく覚悟を持った仲間なんじゃ。じゃから、儂らの力を信じてくれ。一人で戦おうなどとは思わんでくれ」

 「ここにいる人間は全員、公私宴を戦い抜く力があるとあなた自身が判断した人間だ」松田が言った。「そのご自身の判断を誤りだったとするには、まだ早すぎるでしょう。俺たちはまだ、何もやっちゃいないんですから」

 「高知県代表の打力が不明な以上、四点で勝てる保証はないんです。勝利のためには一点でも多く欲しい。僕たちは、勝利のためにここにいる」蟹江が言った。

 漢咲は思案した。そうして、腹の底から声を出した。

 「バットを振るか振らないか、その判断は各々に任せます! 自分の力量を充分に考慮して、判断してください! 私は、バットを振った者もバットを振らなかった者も、どちらも咎めない! 周囲に影響されず、真に自由に、真に己の判断で、決断をお願いします!」

 「それでこそ、漢咲さんだ!」真田が右打席で叫んだ。「それでこそ、俺が生まれて初めて支持した政治家だ!」

 士気が猛烈に高まった真田は、意図せずとも、打席で強烈な気を発した。その自然発生的な気に呼応して、外野の天然芝が剣山のようにシャキッと背筋を伸ばした。

 「来いやぁ、若いの! 野球は年季だってことを教えてやるぜ!」

 真田の構えは、往年の名選手、種田仁選手のガニマタ打法だった。頭上で制止した自前の真っ赤なバットが、陽光を浴びて強烈に輝いた。

 「何なんすかね、あのバットは?」海原が真田のバットを見ながら言った。「金属バットなんだか木製バットなんだか分からねえや」

 「昨晩、お酒の席で、真田さんが仰っていました」優崎が言った。「あのバットは、倉吉第九高等学校野球部に代々伝わる、血潮バット、という物らしいです」

 「血潮バットっすか。随分とおどろおどろしいネーミングっすね」

 「血潮バットについては、私も話だけなら聞いたことがあります」漢咲が言った。「なんでも、球児たちの熱情が具現した物だとか」

 「そんな得体の知れないブツの使用が認められるのか、公私宴は?」皆野が疑問を口にした。

 「公私宴では、ありとあらゆる材質のバットが使用可能です。更には、長さが106.7センチメートル以下の物であれば何でもバット代わりとして使用することも可能です」蟹江が言った。「テニスラケットや日本刀などをバット代わりにする人も、過去の公私宴には存在しました」

 「それなら、己のこぶしをバット代わりにすることも可能なのかい?」皆野が尋ねた。

 「手でボールを打ってもストライクをカウントされるだけです。そこは普通の野球と同じルールです」蟹江が答えた。

 蟹江が言い終わるのと同時に、諸星が真田に対しての第一球を投げた。時速160マイルのストレートがアウトローに決まる。それを、真田は見逃した。諸星は、漢咲に打たれたホームランを微塵も引きずっていなかった。テンポよく、諸星は二球目を投げた。これまたストレートである。その球は真ん中高めに決まった。それも、真田は見逃した。

 「一瞬で2ストライクっす! 大見得切って打席に立ったのに、このままじゃ一回もバットを振らないで終了っすよ!」

 海原の大声は、三塁側ダッグアウトにまで届いていた。当然、打席に立つ真田の耳にも届く大声だった。しかし、真田には海原の声が聞こえていなかった。極限まで集中力を高めた真田は、周囲の全ての音をシャットアウトしていた。

 「この二球で、タイミングは完璧につかんだぜ」真田が心中で言った。「タイミングさえつかんじまえば、160マイルも100マイルも同じもんだ。諸星よぉ、緩急をつけられる変化球がなければ、おめえ、俺のカモだぜ」

 諸星が真田に対して三球目を投げた。一球目二球目と同じスピードの球がストライクゾーンのアウトローに向かって突き進む。

 「バカの一つ覚えでストレート! 速球に過剰な自信を持っちまってることがおめえの敗因よ!」スイングを始める直前、力を込めた真田の前腕がポパイみたいに膨れ上がった。「レフトスタンドに叩き込むどころじゃ勘弁しねえ! 富山県まではじき返してやらあ!」

 真田のスイングは、音速を超えていた。その凄まじいスイングによって、真田のバットは諸星の球のスピードに完璧にアジャストした。血潮バットの芯が諸星の球に向かって真っすぐに進む。そうして、接触する寸前までバットと球の距離が縮まり、真田がホームランを確信した瞬間、諸星の球は何百倍もの重力を受けたかのように急降下した。

 「フォークだ!」蟹江が叫んだ。

 蟹江が言ったように、諸星の球はフォークボールだった。そうして、真田のバットは空を切り、諸星の球は地面にめり込んだ。

 ホームランを確信してからの空振り、その大きな精神的ダメージから真田は一瞬で立ち直った。真田は素早くバットを手放し、一塁ベースへ向かって走り出した。

 「振り逃げだ!」蟹江が再び叫んだ。

 地面にめり込んだボールを掘り出そうとキャッチャーが悪戦苦闘している間に、真田はどんどん一塁ベースへ近付いていった。

 このまま走り続ければ出塁確定、誰もがそう思った正にその時、まるで突発的な金縛りにあったかのように、真田の動きが急停止した。

 「サナさん!? 何を寝ぼけているんすか!? そこはまだ一塁じゃないっすよ!」海原が叫んだ。

 「違う! 寝ぼけているんじゃない!」大原も叫んだ。「狩谷だ! 狩谷の殺気に当てられて、真田さんは動けなくなっているんだ!」

 大原が指摘した通りだった。狩谷は、一塁ベースに片足を乗せ、腕を組み、笑みを浮かべながら、真田に向かって殺気を放ち、その殺気によって、真田は蛇に睨まれた蛙のようになり、硬直していた。

 真田の全身から冷や汗が滝のように流れだした。

 「びしょ濡れになっちゃって。可愛いじゃない」狩谷が言った。「いらっしゃいよ。体中の汁、拭ってあげるから」

 「俺は異性愛者でね」真田は無理をして笑みを作った。「おめえが可愛いネエちゃんならば、今すぐにでも一塁に滑り込むんだがね」

 「そんな減らず口をたたけるんだ。大したものだね」

 そう言って、狩谷は殺気を強めた。ねっとりとした重量感のある殺気に襲われ、真田は立っていることすらままならなくなり、両膝を着き、それから、四つん這いになり、更にそれから、うつぶせに倒れた。

 「体が、重い」真田が唸った。「まるで子泣き爺を背負わされたみてえだ」

 「恐ろしい殺気だ・・・・・・あれほどの殺気、離婚届を提出しにきた夫婦だって発していない」優崎が震えながら言った。

 「殺気を解きたまえ! 狩谷さん!」漢咲が叫んだ。「このままでは真田さんが死んでしまう!」

 漢咲の声を聞いて、一塁側ダッグアウトの面々は青ざめた。

 「真田さんが死ぬ!? どういうことなんですか、漢咲さん!?」優崎が言った。「真田さんは殺気を向けられているだけでしょう!?」

 「殺気とは、文字通り、殺す気です。殺しの道を極めた者ならば、殺気だけで人の命を奪える」漢咲が言った。

 「殺しの道を極めた者!? まさか、狩谷がそうだと言うのですか!?」松田が言った。

 「さすがは漢咲さん。純真であっても世間知らずの坊やではない」狩谷が言った。「僕が何者か、知っているんだね」

 「何者なんじゃ、あの男は?」楽境が漢咲に尋ねた。

 「彼は、日本最強、いや、世界最強の殺し屋、狩谷夢彦です。名前を聞いたときはまだ、彼が殺し屋狩谷かどうか半信半疑でしたが、今、彼の本気の殺気を感じ、彼が殺し屋狩谷であることを確信しました」

 「殺し屋!? そんなのが公私宴に出てもいいんすか!?」海原が言った。

 「禁錮以上の刑に処されている間でなければ、殺し屋だろうが何だろうが公私宴の出場権を有している」蟹江が言った。

 「狩谷夢彦・・・・・・そんな名前、一度も聞いたことがない」大原が言った。

 「警察のリストに加えられるようなヘマはしないよ」狩谷が言った。「僕の仕事は全て完璧だから」

 「どうして、俺が警察官だと分かった?」大原は冷や汗を流した。

 「警察官のにおいを嗅ぎ取る能力は、裏社会の住人として生きていくならば必修スキルさ」

 「時を、いや、話を戻そう」漢咲が言った。「殺気を解きたまえ! 狩谷さん!」

 「嫌だ、と言ったら?」狩谷がいたずらっぽく言った。

 「力尽くで、殺気を解かせる」そう言って、漢咲は気を放った。嵐の前の静けさ、そんな形容がぴったりの気だった。

 「打者と走者以外の選手が敵の守備に対して攻撃を行えば、一発退場だ」漢咲の気を感じた狩谷は頬を朱色に染めた。「通常の野球の試合と同様に、出場可能な選手が九人未満となったチームは敗北となる。見たところ、鳥取県代表は九人しかいないみたいだけど、それでも、力尽くで僕を止めるのかい、漢咲さん?」

 「手出し無用だ! 漢咲さん!」真田が、一塁ベースに向かって這って進みながら叫んだ。「こんな殺気、嫁さんの怒気に比べれば可愛いもんだ! こんな殺気じゃ俺は死なねえ!」

 「そうなの? それじゃあ、マックスまでキツくしようか」

 狩谷は更に殺気を強めた。重量感などという生易しいものではない、真に重量を持った殺気に襲われ、真田の体は地面にめり込んだ。真田の骨と筋が、みしみし、という嫌な音を発した。

 「止めろ! 狩谷!」漢咲が叫んだ。

 漢咲は一塁側ダッグアウトを飛び出そうとした。それを、真田の叫び声が制止した。

 「来るんじゃねえ! もし来やがったら、おめえ、投入堂から突き落とすぞ!」真田は、背筋を限界まで酷使し、地面にめり込んでいた自身の顔面を地上に出し、叫んだ。「一回戦の一回表で出場人数が足りなくなって敗北なんざ、俺は真っ平御免だぜ! 漢咲さん、俺は大丈夫だ! 絶対に死なねえ! 俺を信じて、見ててくれ!」

 その声を聞いて、漢咲は一塁側ダッグアウトを出る寸前のところで停止し、苦悶の表情で真田を見詰めた。

 「そうだ。それでいいんだ」そう言って、真田はモグラのようにして土を掻き分けながら、地面にめり込んだ己の体を一塁ベースへ向かって少しずつ進めた。

 「いいね、あなたも」狩谷は性的な眼差しを真田に向けた。「鳥取県代表はイイ男ぞろいだ」

 果てしなくゆっくりな前進であっても、前進は前進である。真田は着実に一塁ベースに近付いていった。

 真田が一塁ベースの目と鼻の先まで来たとき、キャッチャーが地面にめり込んでいたボールを掘り出した。すぐさま、キャッチャーは一塁の狩谷に向かってボールを投げた。その気配を感じ取った真田は、底力を振り絞り、右手を地上に出し、その手を一塁ベースへ伸ばした。

 真田が伸ばした右手は、一塁ベースまで後10センチメートル届かなかった。

 一塁塁審が、「アウト!」と叫んだ。

 「ご苦労様。アウトだよ」一塁ベースを踏みながら送球を受け取った狩谷が言った。

 狩谷が殺気を解いた。そうして、真田は殺気の重量から解放された。

 真田は、弱みを見せぬよう痛む体に鞭打って力強く立ち上がり、狩谷にガンを飛ばした。

 「殺し屋ともあろうものが、随分と穏便にアウトを取るじゃねえかよ。ベースなんざ踏まねえで、そのボールで俺をタッチするついでに俺の心臓を穿っちまえば、それでおめえらの勝ちだったのによぉ・・・・・・この俺に情けをかけたんか!? おお!? 敵の俺に情けをかけたんか!? ナめんじゃねえぞ、この野郎!」

 「あなたのことはナめちゃいないよ。僕の全力の殺気を受けても死なないだろうと判断できるくらいに、僕はあなたのことを高く評価している」狩谷は、興奮する小型犬に向けるような顔を真田に向けた。「あなたを殺さなかった理由は唯一つ、漢咲さんとの勝負を充分に満喫する前に試合を終わりにしたくなかったからだ。野球は九回まである。試合終了までに、漢咲さんと絡むチャンスはたくさんある。それを失いたくなかったんだ、僕は」

 「漢咲さん以外は眼中にねえってか? それがナめてるっつってんだ、ボケチンが!」

 「焼きもち焼きみたいなことを言っちゃって。本当に可愛いね、あなた」

 デニーズのキャラメルハニーパンケーキ、そのパンケーキとバニラアイスみたいな温度差で、真田と狩谷は視線を交わらせ続けた。

 「鳥取県代表の二番打者、早くダッグアウトに戻りなさい!」球審が言った。「試合の進行を遅延させる行為は、最悪、退場処分になるぞ!」

 真田は舌打ちをして、一塁側ダッグアウトへ向かって歩き出した。狩谷は遠ざかっていく真田のどっしりした尻を見詰めながら舌なめずりをした。

 一塁側ダッグアウトに戻って来た真田は、開口一番、「優しさだけじゃこの国は救えねえ! それを肝に銘じておけ! 例え仲間が命の危機に陥ろうとも、退場処分を受けるような行動だけは絶対にとるな、漢咲大黒柱!」と怒鳴った。それから、真田はかぶっていたヘルメットを投げ捨て、ベンチにドスンと座り、帽子を目深にかぶり、腕を組んだ。

 「真田さん」漢咲は真田の真っ正面に立った。「あなたの言葉、肝に銘じます。肝に銘じたうえで、私は、仲間の命を大事にするというスタンスは変えない」

 「そんな甘ちゃんが勝てるほど公私宴は甘くねえ!」真田は漢咲を見ないまま言った。

 「その甘くない困難な道を行く。それが、鳥取県代表です」漢咲は言った。

 真田は沈黙した。漢咲も沈黙した。ロックバンドのギターとベースが仲違いを始めたときに漂う類の雰囲気が一塁側ダッグアウトに漂った。

 「サナさん。ホームランを打つって大見得切っておきながら凡退したからって、切れちゃ駄目っすよ。ドンマイっす、ドンマイっす」海原が真田の隣に座り、真田の肩に手を回し、明るい口調で言った。「漢咲さんも、サナさんの怒りの声にいちいち真面目に答えなくてもいいんすよ。ドンマイっす、って、一言声を掛けてやればそれでいいんすよ」

 中野梓派と秋山澪派の抗争に割って入る琴吹紬派のような純粋でタフなメンタルが海原にはあった。そのメンタルは、真田と漢咲の強張ったハートを揉み解した。

 「ほら、優崎さんが打席に立ったっすよ。みんなで声援を送りましょうよ。優崎さん、命大事にで頑張ってっす!」

 海原の声に続いて、大原、楽境の二人も優崎に声援を送った。皆野、松田、蟹江の三人は、声援を送ることを恥ずかしがり、心の中で優崎の無事を祈った。

 漢咲と真田は、それぞれの考えを胸に、優崎を見詰めた。

 右打席に立つ優崎は、緊張と恐怖によって委縮していた。そんな優崎に対して、諸星は容赦なく時速160マイルのストレートを放った。優崎は、初球を見逃し、二球目も見逃し、三球目も見逃し、それらが全てストライクであったために、アウトになった。

 優崎は肩を落として一塁側ダッグアウトに戻り、俯いたまま、神妙な顔で口を開いた。

 「すみません。何も出来ませんでした」

 今にも消え入りそうな優崎に、漢咲は素早く近付いた。

 「優崎さん。あなたが無事に帰ってきてくれて、私は嬉しい」そう言ってから、漢咲は満面の笑顔を作り、「ドンマイっす!」と陽気に言った。

 海原が漢咲の隣りに立ち、漢咲と同様に満面の笑顔で陽気に、「ドンマイっす!」と言った。真田も漢咲の隣に立ち、満面の笑顔で陽気に、「ドンマイっす!」と言った。

 漢咲たちの陽気に癒されて、優崎は、すんなりと凡退したことで抱いてしまった居たたまれない気持ちから解放され、微笑んだ。

 徐に、漢咲と真田は向かい合い、握手を交わした。それは、考えの違いがあろうとも共闘を続けようという誓いの握手だった。

 漢咲と真田が握手を終えたのと同時に、大原が金属バットを持って右打席に立った。

 優崎は大原を見やり、「大原さん! 命大事にで頑張って!」と大きな声を出した。その声援に続いて、楽境、漢咲、真田の三人も大原に声援を送った。皆野、松田、蟹江の三人は、優崎の時と同様に声援を送ることを恥ずかしがり、心の中で大原の無事を祈った。

 仲間の声援に気付いた大原は、その声援に手を挙げて応えた。そうするだけの余裕が大原にはあった。声援に応えてから、大原はバットを構えた。

 諸星が振りかぶり、時速160マイルのストレートを放った。その球はアウトコースに決まった。球審がストライクを宣告して、キャッチャーがボールを諸星に投げ返した。

 「本当に速い。打席ではダッグアウトで見ていたときよりも更に速く感じる。これは、バッティングセンターでしかバットを振ったことのない俺みたいな人間が打てる速さじゃない」

 そう言いつつも、大原に絶望感はなかった。大原はバットを構えたまま気を発した。

 振りかぶった諸星が、再び時速160マイルのストレートを投げようと試みる。そのリリースの瞬間、大原が叫んだ。

 「Rest The inorganic matter!」

 大原の叫び声に呼応して、大原の気はオーラとなって視覚化し、円形に広がった。

 「なんだ、これは!?」皆野が動揺して叫んだ。

 「気のテリトリーです」漢咲が冷静に言った。「大原君が気のテリトリーを張ったのです」

 「気のテリトリー!? なんです、それは!?」皆野は尋ねた。

 「特殊な気の力を発揮させることができる空間のことです」漢咲は答えた。

 「特殊な気!? なんです、それは!?」皆野は重ねて尋ねた。

 「他者の身体能力を弱めたり他者に幻覚を見せたりする気などが、特殊な気に分類されます。生物には影響を与えず、周囲の物体や環境にのみ影響を与える特殊な気なども存在します。自身の身体能力を強めたり気弾を発したりする気の使い方は初歩でしかありません。訓練を積んだ者の多くは、特殊な気を習得しているものなのです」漢咲は重ねて答えた。

 「未来。諸星さんが投げた球を見てみなさい」バットの構えを解いた大原が打席から皆野を見詰め、言った。

 言われた通りに、皆野は諸星が投げた球を見やった。そうして、叫んだ。

 「球が空中で静止してやがる!?」

 皆野の言葉通りに、諸星が投げた球はホームベース上で静止していた。

 「俺を円の中心とした直径5メートル以内のテリトリー、そのテリトリー内を移動する全ての無機物を静止させられる、それが俺の、Rest The inorganic matterの力だ」

 「Rest The inorganic matter。すげえ技だ」ごくりと、真田は唾を飲み込んだ。「俺もガキの頃は年がら年中おまわりの世話になったもんだが、これほど精妙な気の技を使うおまわりは大原ちゃんしか知らねえよ」

 大原はゆっくりとした動作でバットを構え、ホームベース上で静止している球に鋭い眼差しを向けた。

 「まるっきりティーバッティングっす! これなら野球の素人でも打てるっす!」海原が言った。

 「よっしゃあ! その球、しばいたれ、大原ちゃん!」真田が言った。

 大原がバットを振った、その刹那に、漢咲はハッとして、叫んだ。

 「その球を打ってはいけない!」

 大原は、漢咲の声を聞き、バットを止めた。バットと球は接触する寸前だった。

 「なぜ止めるのですか!?」大原が言った。

 「諸星さんの球は、静止して尚、時速160マイルで移動している際と同等の破壊力を有している!」漢咲が言った。

 「それは滅茶苦茶ですよ、漢咲さん」蟹江が言った。「時速160マイルで移動する球と静止している球が同等の破壊力を有しているなんてこと、有り得ない」

 「世の中には、摂理を超越した現象が存在します。諸星さんの球こそが、正にそれなのです。私は、寒気を覚えている。静止して尚、力を微塵も失わない諸星さんの球に、寒気を覚えている」漢咲が言った。

 大原は、ホームベース上で静止している球を見詰めた。

 「論より証拠だ」

 そう言って、大原はその場で屈み、バットを置き、地面の土で団子を作り始めた。

 「気を込めながら土団子を作ってやがる」真田が言った。「ああやって作った土団子なら、鉄球よりも強度があるぜ」

 土団子が出来上がると、大原は立ち上がり、ホームベース上で静止している球に土団子を投げ付けた。

 鉄球よりも強度がある土団子は、球に当たった瞬間、爆散した。気を込められて強度の増した土が、榴弾のように凄まじい勢いで飛び散る。大原は、腕を素早く目元に当て、飛び散る土に目を傷付けられるのを防いだ。

 「漢咲さんの言う通りだった」土団子の爆散が止んでから、大原は目元に当てていた腕を下し、ホームベース上で静止したままの球を見詰めた。「静止していても、この球は危険だ」

 「大原さん、大丈夫か!?」皆野が叫んだ。「鉄球並の土団子が榴弾みたいに爆発したんだ。その土の破片を全身に浴びて、大丈夫なのか!?」

 「大丈夫だ、問題ない」

 その声は強がりではなかった。凄まじい勢いで飛び散った土を全身に浴びながらも、事実、大原は無傷だった。

 「さすがは大原ちゃんだ」真田が言った。

 「あの高知県代表のキャッチャーも、飛び散った土を全身に浴びながらも無傷ですね」松田が言った。「あの人も相当強い」

 大原とキャッチャーだけでなく、球審も飛び散った土を浴びながらも無傷だった。

 鉄球同然の土団子を大破させ、尚も空中で静止し続ける諸星の球は、核兵器のような威圧感を放っていた。破壊の象徴がそうであるように、諸星の球もまた、人心を恐怖で支配した。

 「爆発物処理みてえなもんだ」恐怖を紛らわすようにして、真田が言った。「あの球に手を出すのは、並の度胸じゃ不可能だ」

 「漢咲さんが最初に仰った通り、漢咲さん以外の人は諸星さんの球に手を出さないのが正解なのかもしれません」優崎が言った。「諸星さんの球の力に耐えうるだけの気を有しているのは、漢咲さんしかいないのだから」

 真田は腕を組み、歯を食いしばった。諸星の球の威力を真に理解して尚、優崎の発言に反論するほど真田は根性論に傾倒した人間ではなかった。

 一塁側ダッグアウトの面々が、凡退も止む無し、という思いを抱き始めたころ、打席の大原は、諸星の球を打つ決心を固めていた。

 大原は、深呼吸をしてから、気を練った。そうして練った気を、全て両手に集める。大原の両手が、気の光で強く輝いた。

 「何をしているんだ、大原さんは?」皆野が言った。

 「全ての気を両手に集めて、両手の防御力を最大限まで高めているんだ!」真田が言った。「あんな芸当、達人クラスの気のコントロール術を持った人間にしか出来ねえ!」

 「本当に交番勤務なんですか、大原さんは?」蟹江が漢咲に尋ねた。「特殊部隊にだって、あれほど巧みに気を使いこなせる人はいないでしょう」

 「大原さんは、日本の警察史上最高クラスの才能を持った人物です。そうして、彼は純粋な正義を有している方でもあるのです」

 それ以上、漢咲は大原について何も語らなかった。

 大原は、光り輝く手でバットを拾い、そうして、バットを構えた。

 「そんな危険な球を打って、大丈夫なのかよ、大原さん!?」皆野が叫んだ。「気で両手の防御力を高めたからって、大丈夫なのかよ!?」

 「大丈夫だという確信がなければ、こんな危険な球を打とうだなんて思わないよ」大原は穏やかな顔で言った。「もうすぐ娘が産まれるんだ。無茶な真似はしない。だから、未来、心配無用さ」

 大原は、表情を引き締め直し、ホームベース上で静止している球目掛けてバットを振った。ホームラン狙いのフルスイングだ。一塁側ダッグアウトの面々は、心臓が止まるような思いで大原のスイングを見守った。優崎だけが心配の余り見ていられなくなり、強く目をつぶった。

 大原のバットの芯が、球に接触した。その瞬間、大原の両手が激しく血を吹いた。

 「大原さん!」皆野が叫んだ。

 ボウリングボールを金属バットで思い切り叩いた際に生じる衝撃の約千倍の衝撃が、大原の両手を襲っていた。常人であれば、一瞬でバットから両手を放していただろう。しかし、大原は手を放すどころか一層バットのグリップを握る力を強めていた。そうして、限界まで腰を回し、球に対して更に強い力を加える。反作用で、大原の両手は更に大きなダメージを受け、それに比例して出血量も増した。血しぶきが舞うなかで、大原は歯を食いしばり、バットのグリップを全力で絞り、球に最後の力を加えた。強大な力のぶつかり合いは、バットをひしゃげさせ、空間をもひしゃげさせた。

 「横綱同士の立合いクラスだ! これほど強い力のぶつかり合いは!」

 真田の声が響いた次の瞬間、大原のバットが粉々に吹き飛んだ。同時に、Rest The inorganic matterのオーラが消え去り、打球が三遊間に向かって飛んでいった。大原は一塁に向かって素早く走り出した。

 大原のライナー性の打球は、三遊間を割り、外野の芝でバウンドした。

 一塁側ダッグアウトから歓喜の雄叫びが上がった。

 「レフト前ヒットっす!」海原が叫んだ。「ナイスっす、大原さん!」

 「まだです! まだ分からない!」歓喜する一塁側ダッグアウトで冷静さを保っていた数少ない一人である蟹江が言った。「狩谷さんが殺気を放ったら、さすがの大原さんでも動けなくなってしまう! そうなれば、レフト前ゴロになってしまいます!」

 蟹江と同じ考えをレフトも持っていた。レフトは上手に捕球を済ますと、一塁に向かって素早く送球した。

 送球を済ませてから、体勢を立て直し、レフトは一塁の狩谷を見詰め、そうして、目を丸くした。狩谷が、殺気も放たず、グローブもはめず、美顔ローラーでフェイスラインを刺激しながら突っ立っていたからだ。結果、大原は悠々と一塁ベースを踏んだ。

 狩谷の無気力な体たらくによってレフトからの送球が暴投になるのは必然、そう判断した大原が二塁に向かって走り出してすぐ、狩谷は美顔ローラーをレフトからの送球目掛けて投げ付けた。送球と衝突し、美顔ローラーは大破した。美顔ローラーとの衝突で進む力を失った送球は、一塁ベースから3メートルほど離れた場所に落ちた。その球を拾うために、狩谷はゆっくりと歩き出した。大原は二塁に進むのを諦め、一塁に戻った。

 再び、一塁側ダッグアウトから歓喜の雄叫びが上がった。

 「今度こそ間違いなく、レフト前ヒットっす!」海原が叫んだ。

 大原は一塁ベースを踏みながら、一塁側ダッグアウトの歓声に手を挙げて応えた。その手は血で真っ赤に染まっていた。その手を見て、一塁側ダッグアウトは一瞬で静まり返った。

 大原は両手とも粉砕骨折の重傷を負っていた。その激痛によって、大原は大量の汗を流していた。

 「審判!」漢咲が叫んだ。「タイムを要求します! 走者の治療のために!」

 その要求が認められ、一時、試合の進行が止まった。

 「治療っていったって、医者はどこにいるんだ?」皆野が疑問を口にした。

 「儂がおるよ」そう言って、楽境はフィールドに上がった。「治癒の気を使える、儂がな」

 楽境は一塁まで走っていき、大原の両手をじっと見詰め、それから、大原の両手に触れ、気を発した。その気は、乳白色の光となって大原の両手を優しく包み込んだ。すると、砕けていた骨が動き出し、くっつきあい、大原の両手は正常な状態へと立ち所に戻っていった。

 大原の両手が完治すると、楽境は、「無茶はするんじゃないぞ」と言って大原の腰を軽く叩き、それから、一塁側ダッグアウトに向かって走り出した。

 「どうして、俺に殺気を向けなかった?」完治した両手を握ったり開いたりしながら、大原は言った。「あなたは俺をレフトゴロにすることが出来たのに」

 「一度、君と二人きりになりたかったんだ」一塁ベース付近、一塁手と走者の二人だけの空間で、狩谷は言った。「漢咲さんの次に強い君、漢咲さんの次にイイ男な君、そんな君と、二人きりに」

 言い終えてすぐ、狩谷は大原の下半身に右手を伸ばした。試合開始前に漢咲に対して行ったのと同じ、不意打ちの男性器握りだ。その魔の手に対して、大原はネコ科の動物並の反射神経を発揮し、自身の男性器を握られるよりも早く、狩谷の右手を掴むことに成功した。狩谷の右手の甲に自身の右手の平を当てる特殊な掴み方だ。大原の右手の親指は狩谷の親指と人差し指の間に入っている。狩谷の右手を掴んだ大原は、透かさず、狩谷の右手を自身の胸の高さまで引き上げた。その時点で既に、狩谷の右手はひねられて手の平が外側を向いていた。そのひねりを、大原は更に強める。逮捕術にある二カ条という技だ。狩谷の右手の平が手首を360度回された形で上を向いた。同時に、狩谷は激痛に襲われ、片膝をついた。

 「私の体は妻の物だ。妻以外の人間に触れさせるわけにはいかない」大原が言った。

 「素敵なセリフだね」筆舌に尽くし難い痛みに襲われながらも、狩谷は微笑んだ。「僕も配偶者に同じことを言ってもらいたいよ」

 「言ってもらえばいい。漢咲さんが総理大臣になった日本で」

 痛みで動けなくなった相手をコントロール下に置いている圧倒的強者の立場に大原はいた。しかし、大原には全く余裕がなかった。拘束する側である大原が大量の汗をかき、拘束されている側の狩谷が汗一つかいていない様相は、不自然で、不気味だった。

 大原は、危険物から手を放すようにして、狩谷の右手を放した。

 「痛みを味わわされたのは久しぶりだ」右手をさすりながら、狩谷は大原の瞳を見詰めた。「改めて、自分のサガを思い知ったよ。僕は、生粋の、タチだ。感じるよりも感じさせる側の人間だ。大原さん。この試合中、僕は必ず、君をネコにする。覚えておいて」

 狩谷の瞳の奥にあるどす黒い混沌を見て取った大原は、恐怖のあまりに全身を震わせた。そんな大原に、狩谷は満面の笑顔を向けた。

 大原と狩谷の一塁ベース上でのやり取り、それを、一塁側ダッグアウトの面々は固唾を飲んで見守っていた。

 「狩谷っちよりも大原さんのほうが強いんすかね?」海原が言った。「あのちんこ握りを回避して、合気道みたいな技をキめたんすから」

 「狩谷の手をひねっていた時、大原ちゃんは絶対的優位に立ちつつも、恐怖していた。あのシチュエーションにあって、狩谷のほうが優位であったというのなら、狩谷の強さは大原ちゃんとは次元からして違う」真田が冷や汗を拭いながら言った。

 「私には、拘束している大原さんと拘束されている狩谷さんの立場が逆に見えました」優崎はベンチに座りながら震えていた。「本当に、狩谷さんを侮ってはいけない。一塁付近でのプレイには最大限の警戒をもって臨まなければならない。さもなければ、大変なことになる」

 「ホームランさえ打ってしまえば、狩谷が絡むプレイを回避できるが・・・・・・」松田が言った。「諸星の球をホームランに出来るのは、漢咲さんくらいのものだ」

 「諸星さんが投げている限りは、僕は打席でバットを振るつもりはありません」蟹江が言った。「確実にアウトになろうとも、試合続行不可能な怪我を負うリスクを全力で回避するほうが、チームにとってプラスになると思いますから」

 「私も蟹江君と同じ考えです」優崎が言った。

 諸星の球の威力、そして、狩谷の恐ろしさ。それらを思い知った鳥取県代表の面々は、文字通り、打ち気を削がれていた。

 「鳥取県代表の五番バッター!」球審が一塁側ダッグアウトを見やりながら言った。「早く打席に立って!」

 「呼ばれちまった」海原は金属バットを握った。「やべえっす。まだ打ちにいくべきかどうか決めかねているのに」

 迷いを抱いたまま、海原は左打席に立った。

 諸星がセットポジションをとり、大原が3メートルほどのリードをとった。狩谷はピッチャーが牽制球を投げても対応できる構えを真面目にとっている。諸星は一塁に鋭い眼差しを向け、それから、高速のクイックモーションで海原に対する一球目を投じた。時速160マイルのストレート。セットポジションになっても球威は全く衰えていない。海原が見逃し、1ストライク。キャッチャーから返球してもらい、諸星は再びセットポジションをとった。大原も再びリードをとる。今度は4メートルほどのリードだ。諸星は何度も一塁に鋭い眼差しを向け、それから、海原に対して二球目を投じる。諸星が投球動作に入った瞬間、大原が二塁に向かって走り出した。盗塁だ。

 「走った!」サードが叫んだ。

 チームメイトの声を聞いて、キャッチャーは動揺した。ランナーを警戒していた諸星と異なり、キャッチャーはランナーに対して無警戒だったのだ。左打席に立つ海原が意図せず死角を作っていたことで、盗塁の初動が見えなかったことも、キャッチャーの動揺を一層激しくしていた。キャッチャーは、海原が見逃したストレートを辛うじて捕球した。すぐさま二塁に向かって送球を試みるも、盗塁への備えが出来ていなかった心身は思い通りに動かず、キャッチャーはボールをお手玉した。結局、キャッチャーは二塁に送球できずに終わった。

 一心不乱に走っていた大原は、キャッチャーがお手玉をしていることに気付かず、二塁にヘッドスライディングをした。そのハッスルプレイは、一塁側ダッグアウトを湧かせた。

 試合開始前のロッカールームで、鳥取県代表は試合中に使うプレイのサインをきちんと決めていた。しかし、今回の大原の盗塁は、サインによるものではなく独断のものだった。それでも、大原の盗塁を咎める者は一人もいなかった。

 「彼は腹を決めているのだ」大原を除く鳥取県代表の面々が、心中で声を揃えて言った。「勝利のためのプレイをし続ける腹を決めているのだ。奥さんのために、産まれてくる娘さんのために、腹を決めているのだ。自分がどんなリスクを負おうとも、死に物狂いで一点を取りにいくのだと、勝利をつかむのだと、腹を決めているのだ。勝利への最善手であった盗塁、それを誰が咎められようものか」

 「彼は俺を信じてくれた」心中での声を、海原が一人だけ続けた。「俺がタイムリーを打つと、信じてくれた。仲間の信を無下にしちゃ、覇王丸の甲板長の名が廃る!」

 覇王丸とは、海原が勤めている株式会社魚住水産が所有する総トン数1500トン強の漁船である。その船に乗り込み、漁を行うことこそが、海原の誇りであり喜びだった。しかし今、国滅鬼畜丸政権の下、海原の誇りと喜びは奪われかけている。


 1960年代前半には六十万人以上を数えた日本の漁業就業者数は年々減少を続け、2017年において153490人までその数を減らしていた。そうして、2031年現在では9120人にまで漁業就業者数は落ち込んでいる。2030年から2031年までの一年間では、漁業就業者の減少数は64892人と異常な数字を記録した。その絶望的な漁業就業者数の減少を招いた要因が、米中キャパシティ全振り外交の一環として2030年1月の通常国会で国滅鬼畜丸内閣が法律案を提出し同年3月に成立させた中国漁業フル委託関連法である。中国漁業フル委託関連法とは、日本の漁業を廃し日本が消費する魚介類は全て中国からの輸入で済ます、というものであった。日本の漁業を廃する、とはいっても、日本国憲法第22条第1項によって国民の職業選択の自由は守られている。そのため、2030年4月に中国漁業フル委託関連法が施行されて以降、国滅鬼畜丸内閣は、国内の漁業就業者を自主的な廃業に追い込むため、彼らを徹底的にいじめ抜いた。そのいじめの第一手が、中国漁業フル委託関連法の成立に伴う漁業法の改正に便乗して成立させた漁業権オークション制度の施行である。漁業権オークション制度とは、読んで字のごとく、漁業権をオークションにかける制度だ。オークションへの参加資格を有する者は、日本国籍の個人と本店所在地が日本の企業のみである。既存の漁業就業者の大半が小規模な家族経営などである事実を鑑みれば、この漁業権オークションに巨大企業が参加することがどれほど非情であるかが分かるだろう。組合の総力を結集するなどして、どうにか漁業権を競り落とした既存の漁業就業者に対しては、いじめの二手目として、テレビやネットを使って国内の漁業に対してのネガティブキャンペーンを打つ。事実無根の誹謗中傷を垂れ流し、国産の魚介類への不買運動を扇動し、既存の漁業就業者を窮地に追いやっていく。そんな非道が日常化した2031年6月下旬、国滅鬼畜丸は外遊先の中国北京から、このように公言した。

 「この夏の公私宴終了後最初の国会で、日本の個人及び企業が所有する漁業権を中国の個人及び企業に譲渡できる法案を成立させる。日本の領海をスムーズに中国へ譲渡するためにも、2032年までに、日本国内の漁業就業者数を0にし、日本国内で消費される魚介類は100パーセント中国からの輸入で賄うようにする。中国漁業フル委託関連法を完全なものにする時が来たのだ。私は、全力を尽くす。国益を軽んじて、我がままを通そうとする国内の漁業就業者を、私は、全力で排除する。日本国のために、日本国民のために、私は、全力で戦う。もう、手加減はしない。国内の漁業就業者を根絶やしにする法案も、公私宴終了後最初の国会で必ず成立させる」

 2031年7月現在、漁業権を取得している企業の99パーセントは、日本銀行を筆頭株主としている企業である。そうして、この時代の日本銀行は国滅鬼畜丸の支配下にあった。

 国滅鬼畜丸の再選は、すなわち、日本の漁業の死であり、日本の領海の死でもあった。


 日本の領海から日本の漁師を締め出す、そんな国滅鬼畜丸政権に対して、日本の漁師である海原清が反感を抱くのは必然であった。彼が漢咲のスカウトに応じ、公私宴出場を承諾するのもまた、必然であった。それでも、公私宴に出場することを決めながらも、海原には、公私宴への熱意に欠ける部分があった。政治にダイレクトに虐げられていていながらも、今一つ、政治に対してのアクションに本気になれないでいたのだ。その熱意の欠如は、慣れによるものだった。人間とは、慣れる生き物である。どれほど虐げられようとも、人間は痛みや苦しみに慣れてしまう生き物なのだ。どれだけ政治の腐敗に怒りを感じようとも、その怒りにさえも慣れてしまう生き物なのだ。海原も例外ではなく、漁師としての痛みや苦しみにも、国民としての怒りにも、慣れきってしまっていた。慣れは無関心に等しく、その政治への無関心によって、海原は、勝敗にさほど頓着しないスタンスで公私宴に臨んでいた。しかし、今、大原の決心に触発され、海原は熱意に燃えた。

 「俺も、腹を決めたっす! 仲間が求める勝利のために、全力で追加点を取りにいく! 全力で勝ちにいく!」

 そう叫んで、海原はバットを手放し、気を練った。気を最大まで練ると、大原を真似て、気を両手に集め始める。海原の両手が少しずつ気の光を帯びていく。

 「両手に全ての気を集めるなんてこと、一度も経験がねえ。真っ新な初体験っす。でも、仕事じゃしょっちゅう銛や網に気を集めているんだ。その経験を以てして、初体験を黒歴史にはしねえ!」

 発言通りの銛や網に気を集める経験が、両手に全ての気を集めるという難事を成し遂げる助けとなった。海原の両手は、気の光で輝いた。大原と同等かそれ以上に強い気の光だった。

 「才がある!」真田が叫んだ。「海原清! 奴には気の才がある!」

 海原が両手に気を集め終えたのと同時に、キャッチャーがタイムを要求した。タイムが認められると、キャッチャーはマウンドまで走っていき、諸星に話しかけた。

 「すまない、諸星さん。素人丸出しのプレイをしてしまった」

 「問題ありませんよ、井口さん」諸星がキャッチャーに向かって言った。「このバッターを抑えればいいだけのことです」

 「彼を抑えるのであれば」井口は海原を見やりながら言った。「フォークを投げる必要があるだろう。二番バッター相手に投げたフォークは低めに行ってしまったために地面にめり込んだが、高めに投げさえすれば地面にめり込む前に俺が捕球できる」

 「俺はあなたのリードに信を置いています。あなたは、野球初心者ではあっても危機を察知する能力に長けている。投げましょう、フォーク」

 「こんな試合で投げるのは本意ではないだろうが」井口は声を小さくして言った。「諸星さん。ベストの球を投げてくれ。俺たちは、勝つより他に道がないんだ」

 諸星は自身の左手の平を悲哀に満ちた目で見詰め、深く息を吐き、それから、頷いた。その頷きを見届けてから、井口はキャッチャースボックスに戻った。そうして、タイムが解除された。

 バットのグリップをこれでもかと強く握り締める海原は、2ストライクノーボールの窮地を微塵も苦にしておらず、打ち気に満ちている。そんな海原に対して、諸星が三球目を投じた。その球は、ストライクゾーンぎりぎりのアウトハイに向かって進んだ。海原は、小さくテイクバックをして、それから、すぐにはバットを出さず、ボールを引き付けた。時速160マイルのボールを引き付けるという無謀、それを犯せるほど、海原は自身のスイングスピードに自信を持っていた。諸星の球は、ホームベース上に差し掛かると、急降下した。一瞬でストライクゾーンぎりぎりのアウトローまでコースを変える、お化けも腰を抜かすほどのフォークボールだった。超高速で急激に軌道を変化させる球、それは目で追うだけでも至難の業であり、ましてやその球を打つなどという行為は、人知の及ぶところですらない。にも拘らず、海原は諸星の球目掛けて寸分の狂いもなくバットを振った。

 ウミウ、という鳥がいる。潜水して魚類を食する鳥である。日本海を仕事場としている海原にとっては見慣れた鳥である。そのウミウの潜水する様が、諸星のフォークに酷似していたことが、野球の素人である海原が諸星の球にアジャストできた理由だった。

 極端に球を引き付けつつも、音速を優に超える速度のスイングを以てして、海原は諸星の球を強打した。強打した瞬間、海原の両手から血が激しく噴き出した。

 「あくまで目測ですが!」漢咲が叫んだ。「諸星さんのフォークは、ストレートと全く同じ威力です!」

 漢咲の目測は正確だった。ストレート同様、諸星のフォークにも人体を容易に破壊するだけの威力があった。

 激しく噴き出す血は、激痛の証である。しかしながら、海原は痛みを感じていなかった。なぜか? 痛みを遥かに上回る恐怖が痛覚を麻痺させていたからだ。自身の両手から噴水みたいにして噴き出す大量の血、それを目の当たりにする恐怖は尋常ではなかった。

 「怖い! 怖い!」恐怖で顔面を歪めながら、海原は心中で叫んだ。「耐えられない! 手を放す! バットから手を放す! すぐにでもこの恐怖から解放されたい!」

 球がバットにめり込むほどに、両手からの出血が増し、その出血量に比例して、恐怖も増していった。腹を決めたはずの海原の覚悟が、揺らいだ。

 海原がバットを手放したらどうなるのか? その答えは、こうだ。バットは球の力によって遥か彼方へと吹き飛び、バットを吹き飛ばしてなお力を失わない球は本来の軌道通りに進みキャッチャーミットに飛び込む。つまり、ファウルチップによるストライク、すなわちアウトであり、走者残塁でスリーアウトチェンジとなるのである。

 生来の堪え性のなさが、バットのグリップを握る力を弱めた。苦境で踏ん張る力が、海原には欠けていた。

 「俺がここでバットを手放しても、誰も俺を責めたりしない」海原は心中で言った。「俺が恐怖に耐えかねて逃げたとしても、優しい鳥取県代表の人たちは皆、許してくれる」

 仲間たちへの甘えが、バットのグリップを握る力を更に弱める。握りが弱くなればなるほど、バットは球への抵抗力を失う。いつ吹き飛ばされてもおかしくない程に、海原のバットは球に押し込まれた。

 「皆、俺を許してくれるだろう。でも、俺は俺を許せないだろう」海原は心中で言った。「でかいリスクを負って追加点のチャンスを作った大原さんを残塁させたまま逃げちまったら、俺は俺を許せないだろう」

 高潔な魂を有する者の行動原理は唯一つ、倫理観に反することなく生きる、それだけである。海原清、彼は高潔な魂を有していた。その魂を以てして、海原はバットを手放すという選択肢を捨て去った。バットのグリップを強く握り締める。押し込まれていたバットが、土俵際の力士のように、踏ん張る。強く、更に強く、バットのグリップを握る。握りの強さに比例して、両手の出血量が増す。バッタースボックスに血の雨が降った。

 「日本海のさざ波が、おいらの子守歌よ」自身の血で全身を濡らしながら、海原は歌い出した。それは、船乗りの歌だった。「海鳥よ、海鳥よ。陸のお袋に伝えてくんな。俺のお袋はあんただけだが、俺の心は、この海のもんよ。日本海の荒波が、おいらのベッドインよ。海鳥よ、海鳥よ。陸の女房に伝えてくんな。俺の女房はお前だけだが、俺の体は、この海のもんよ」

 高校を中退して漁師となったのが、十六歳の夏。もう八年、海で生きてきた。人生の三分の一を、海で生きてきた。何度、海で恐ろしい目に遭ってきたことだろう。ダイオウイカとプロレスをやったこともある。台風の直撃を受けて北極海まで流されたこともある。火器で武装した海賊相手に銛一本で戦ったこともある。それらに比べれば、へっ、両手から血が噴き出そうがへっちゃらさ。何も怖くねえや。

 恐怖が消え去り、海原は笑った。恐怖が消えたことで痛覚が正常に働き出したが、痛みなど屁の河童だった。海水が傷口に染みる痛みに比べたら、屁の河童だった。

 八年間の労働は、二十四歳の若者の心身を限りなくタフにしていた。

 恐怖もなく、気負いもない。ベストパフォーマンスを発揮できる理想的な精神状態に到達した海原は、全身の筋力を酷使して、バットを振りぬいた。凄まじい打球音とともにはじき返されたボールは、レフト方向へとライナーで飛んでいき、三遊間を割ったところでバウンドした。

 海原が一塁に向かって走り出す。大原が三塁に向かって走り出す。一塁側ダッグアウトが大いに湧く。

 「狩谷! 殺気を放て!」井口が叫んだ。「そいつをレフトゴロでアウトにする!」

 「嫌だね」狩谷があくびをしながら言った。

 「なんだと!?」

 「チャラチャラした風貌の男は好みじゃないんだ。僕は、好みの男しか這いつくばらせない」

 井口と狩谷が言葉を交わしている間に、レフトが捕球を済ませた。同時に、大原が三塁を回った。

 「バックホームだ!」井口がキャッチャースボックスで叫んだ。

 海原はもう、一塁ベースを踏んでいた。

 レフトがホームに送球した。中腰の井口が胸の高さに構えているキャッチャーミットに向かって、レーザービームのような凄まじい送球が寸分の狂いもなく真っすぐに進む。そうして、送球は大原を追い抜き、井口のキャッチャーミットに収まった。

 「滑り込めぇ!」真田が叫んだ。

 言われるまでもなく、大原は最初からホームに滑り込む覚悟だった。よって、走行動作からスムーズにヘッドスライディングへと移行する。クロスプレイでセーフをもぎ取るための理に適ったヘッドスライディングだ。

 井口がボールの収まったキャッチャーミットでタッチにいく。手刀のような相手の骨を砕きかねない強烈なタッチだ。

 大原のヘッドスライディングと井口のタッチ、二つの大きな力が衝突するクロスプレイは、ホームベース付近の土を猛烈に噴き上げた。空高く噴き上がった土が、大原と井口と球審の姿を隠した。

 砂塵が舞い乱れる中で、とても目を開けていられないような環境の中で、球審は両目をしっかりと開いていた。そうして、大原の手がホームベースに触れるよりも早く井口のキャッチャーミットが大原の体に触れたのをしっかりと目視した。

 「アウト!」口内に土が入ってくるのも構わず、球審は叫んだ。

 視野を砂塵に遮られクロスプレーの一部始終を目視できなかった一塁側ダッグアウトから不満の声が上がる。

 「アウトだとぉ!」真田が叫んだ。「誤審じゃねえのか!? よお、球審さんよぉ! 沈没党の回し者かよ、おめえはよぉ!」

 「よしなさい、真田さん」漢咲が真田の審判批判を制止した。「公私宴の審判は中立です。彼等は、天使と悪魔の戦いでさえ公平にジャッジする」 

 「漢咲さんの言う通りです」周囲を覆う砂塵が晴れて、姿の見えた大原が、言った。「球審のジャッジは正しい。キャッチャーのタッチのほうが僅かに早かった」

 大原は既に立ち上がっていた。そうして、井口と睨み合っていた。

 「先程のクロスプレイ、あなたは俺の後頭部なり背中なりを破壊して俺に致命傷を与えられたはずだ。しかし、あなたは俺にタッチする寸前で、力を抜いた。下劣杉男のような男の下で戦っているあなたが、なぜ、敵の身を案じるような真似をするのです?」

 「見くびるな。俺は人を傷付けることを良しとするようなクズじゃない」井口は大原に背を向け、三塁側ダッグアウトに向かって歩き出した。「高知県代表は、好き好んで下劣のために戦っているわけではない」

 大原は井口の後姿をしばらく見詰めた後、二塁まで進んでいた海原のそばへと走っていった。

 二塁付近では、大原と井口の短い会話の間に素早く海原に駆け寄っていた楽境が、海原の両手の治療にあたっていた。海原の両手の状態は、先刻の大原と同程度の怪我であり、楽境の治癒の気によってすぐに完治した。

 「ナイスバッティングでした」治療の済んだ海原に向かって、大原が申し訳なさそうに言った。

 「上原さんも、ナイスランした」海原が笑顔で言った。

 海原の裏表のない笑顔は、アウトになった申し訳なさと無念さに苦しんでいた大原を癒した。

 一塁側ダッグアウトに戻ってきた大原と海原を、鳥取県代表の面々は拍手で出迎えた。

 「大原ちゃん、キヨちゃん。おめえらの勝利への意志、確かに感じ取った」そう言って、真田は左手にグローブをはめた。「高知県代表の連中は、俺が全力で抑える。勝利のために全てを出し尽くす。奴らには一点もやらねえ」

 「頼みます、真田さん」そう言って、大原も左手にグローブをはめた。

 「よし! 気合い入れて守るぞ、おめえら!」

 真田の気合いの声に呼応して、鳥取県代表の面々は、「おお!」と叫んだ。そうして、鳥取県代表は、一点もやらないつもりの堅守の覚悟を持って守備についていった。

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