第5話 集う九人 ブラッシュアップ不足バージョン

 公私宴球場正面ゲート前は、すっかり野生動物たちの憩いの場と化していた。

 野生動物たちに囲まれた和やかな空間で、鳥取県代表の面々は試合開始の時を待ち続けた。

 「何を見ているんですか、海原さん?」スマホを見ている海原に、松田が尋ねた。

 「午前中の開会式の動画が公私宴省のサイトにアップされてるから、そいつを見てるんすよ。いやぁ、本当に、何度見ても酷い開会式っすよ、これ」

 「独裁国家の式典みたいでしたからね」蟹江が言った。

 「蟹っち。俺が酷いって言ってるのはプロパガンダの部分じゃねえっすよ。エンジェルイレブンのセンターが逢田奈々じゃないのが酷いって言ってんすよ、俺は」

 「誰なんです、その逢田奈々っていうのは?」松田が言った。

 「嘘!? 逢田奈々を知らないの、松ちゃん!? 超国民的美少女のアイナナだよ! 知らないなんて、有り得ねえっすよ!」海原が叫んだ。

 「エンジェルイレブンのことは辛うじて知っているんですが、メンバーの名前までは知らないんです」松田が言った。

 「午前中の開会式のライブで、一番端っこで踊ってたのが逢田奈々っすよ」海原はスマホの画面を指差した。「ほら、この子っす。どう? めっちゃ可愛いっしょ?」

 「人の容姿に甲乙をつけたことがないから、この人が可愛いのかどうかを判断することは俺にはできません」松田が言った。

 「何それ? え? 人の容姿に甲乙つけたことねえって、マジ? 街歩いてて、あの子めっちゃ可愛くね? とかならないの、松ちゃん?」

 「人の容姿を判定するような下品な行為は、俺はしません」

 嫌味を言うつもりは全くないままに、松田は海原を下品と称した。海原を嫌ったわけではない。正しいと思ったことはそのまま口にする、それが松田という男だった。

 「かっけぇなぁ、松ちゃんは。見た目だけじゃなくて中身までイケメンだなぁ」

 下品と称されたことに気付かないまま、海原は言った。頭の巡りが悪いわけではない。天性のおおらかさによって細かいことは気にしない、それが海原という男だった。

 「逢田奈々さんは去年からネットで酷い誹謗中傷を受けるようになりましたよね」蟹江が言った。

 「そうなんすよ。タレント相手に何股もかけてるとか、プロデューサーに枕営業してるとか、エンジェルイレブン内で他のメンバーを苛めてるとか、実は整形していて本当の顔はめっちゃブスとか、何の根拠も証拠もないクソみたいなデマを吹聴するゲスが急に湧いてきて、それを信じるバカがどんどん群がってきて、今じゃネット上、至る所で袋叩きっすよ、アイナナは」

 「ネット上でアイナナを誹謗中傷した人間は何人も逮捕されていますよね。しかし、その全員が実刑を受けるには至っていない」蟹江は利き手の人差し指で眼鏡の位置を直した。「賢王総理の政権下に、ネット上での誹謗中傷は厳罰化された。逮捕された連中は懲役十年以下の罪に問われるはずだった」

 「そういえば、廃刊になる前の真実新聞でこんな見出しを見た覚えがある」松田が言った。「逢田奈々を誹謗中傷した容疑者を検察が擁護、国滅鬼畜丸の指示か? という見出しだった」

 「逢田奈々さんへの誹謗中傷が始まる直前、エンジェルイレブンは国滅鬼畜丸さんのYOUTUBEチャンネルに出演している」蟹江が言った。

 「ああ、あったっすね、そんなの。鬼畜のおっさんをヨイショするだけのクソコラボ動画なのに再生回数が一千万回も超えたやつ・・・・・・そういえば、あの動画がアップされた後すぐにアイナナはエンジェルイレブンのセンターから端っこにポジション替えされちまったんすよね」

 「国滅鬼畜丸と逢田奈々の間に何かトラブルがあり、その腹いせに国滅鬼畜丸がネット民を扇動して逢田奈々を攻撃している。国滅鬼畜丸という男に関してなら、容易にそういう憶測が出来る」

 「ネット民やマスコミを利用して、自分の気に入らない人間を徹底的に攻撃するのは国滅鬼畜丸さんの常套手段です。実力充分な逢田奈々さんがセンターを外されたのも、芸能界に強い影響力を持っている国滅鬼畜丸さんの圧力があったのだと考えれば、自然だ」蟹江が言った。

 「それが事実だったら、俺はブチ切れちまうっすよ!」海原が怒りで顔を真っ赤にしながら叫んだ。「銛を持って首相官邸に殴り込みかけちまうっすよ、俺は! アイナナみたいな良い子を攻撃するなんて許せねえ!」

 「憶測で熱くならないでくださいよ、海原さん」蟹江が宥めるように言った。「それじゃ、デマに群がるバカと大差ないですよ」

 「良い子だと知っているってことは、海原さん、逢田奈々と知り合いなんですか?」

 松田の素直な問いが、海原の怒りの炎に水をかけた。

 「いや、知り合いじゃないっすけど」海原は湿った声を出した。

 「知り合いじゃないのなら、なぜ、逢田奈々が良い子だと分かるのです?」

 「分かるんすよ、知り合いじゃなくっても!」海原は叫んだ。「バラエティ番組とか握手会とかでの立ち振る舞いを見れば、彼女がどれだけピュアな良い子かが分かるんすよ! 歌や踊りを見れば、彼女がどれだけ努力家なのかが分かるんすよ! ファンの目は節穴じゃないんすよ! 俺は、ちょっとした友人知人なんかよりも、アイナナのことをよく知ってるんすよ!」

 「実際に付き合いがないのなら、人格なんて何も分からないと思うのですが」松田がクールに言った。

 クールな声にファン心理を切り裂かれて、海原はやり場のない悔しさの余り涙を流し、激しく震えた。

 「松田さん。その辺にしておきましょう」そう言ってから、蟹江は海原の背中を優しくさすった。「僕も逢田奈々さんには好感を持っています。きっと、海原さんの言う通り、彼女は良い子ですよ」

 「そうっすよね! 蟹っちの言う通りっすよ!」今泣いた烏がもう笑う、という言葉そのままに、海原は涙をサッと消し去り、陽気を取り戻した。「アイナナは良い子なんすよ! 彼女を知ってる人には分かるんす! 松ちゃんもアイナナのことを知ればあの子が良い子だと分かるっすよ! ほら、松ちゃん! 俺のスマホでエンジェルイレブンの曲が全部聞けるから、一緒に聞こう! アイナナの写真集も全部購入済みだから、一緒に見よう!」

 「結構です。興味ないんで」

 「そう言わずに!」

 海原は松田にしつこく逢田奈々について知るよう求めた。松田はそれを拒否しつつも、本気で嫌がったりはせず、海原とのやり取りを楽しんだ。そんな二人の様子をそばで見詰める蟹江の表情は優しげだった。知り合って間もない三人であったが、彼等はもう友人関係を築いていた。

 「若いっていうのは、いいのぉ。すぐに人と通じ合い、世界を広げることが出来るからのぉ」海原たちを見詰めていた楽境が言った。

 「あいつらは絶対に死なせられねえな」楽境同様、海原たちを見詰めていた真田が言った。「死ぬなら、俺たち年寄りだ」

 「年配の方も、死にません」漢咲が真田の肩に手を置いた。「誰も、死なせはしません」

 その力強い声に山彦がこたえ、大気は長い間、震えた。淀みなく、草花が踊った。

 駆け回っていた一匹の子狐が、座り込んでいる大原の足下で静止した。大原は子狐の背中を優しく撫でた。子狐は気持ち良さそうに目を細めた。

 「娘がいるんです」大原の隣に座っていた優崎が、子狐を見詰めながら言った。「この夏で十五歳になる娘です。彼女が生きる日本の未来を良いものにしてやりたくて、私はこの公私宴への参加を決意しました」

 「俺も同じです。直に生まれる娘に、良い国を用意してやりたくて、俺は今ここにいます」

 決意がシンクロして、大原と優崎は強い連帯感を得た。

 「勝ちましょう、大原さん。子供たちのために」

 「ええ。必ず、勝ちましょう」

 大原の声が澄んだ空気に溶けた。その刹那に、邪悪な声が公私宴球場正面ゲート前に轟いた。

 「これはこれは、人口最小の弱小チーム、鳥取県代表の皆さんじゃないか! 砂丘しかない辺境の地から遠路はるばる長野まで恥をかきにやってくるとは、ご苦労なことだ!」

 突如として轟いた邪悪な声は、動物たちを恐怖させた。動物たちは公私宴球場正面ゲート前から一斉に逃げ出した。

 鳥取県代表の面々は、邪悪な声の主を見やった。

 「下劣杉男」大原が嫌悪に満ちた声で言った。

 鳥取県代表に近付いてくる高知県代表の十八人、その先頭を歩く小太りな男こそが、衆議院議員、高知県代表チームキャプテン、下劣杉男であった。下劣杉男は、過剰にさらさらな長髪をなびかせる四十代の気取った身なりの男だった。

 「この俺を呼び捨てとはね! この胡麻摺擂利男財務大臣の甥っ子、下劣杉男様を呼び捨てとはね! さすがは鳥取県民、人口が少なくて人付き合いを知らぬせいか礼儀に欠けるわ!」下劣が嘲りに満ちた声で言った。

 「なんだとぉ、こらぁ! 財務大臣の甥っ子だか何だか知らねえが、鳥取県民ナめてっと、てめえの人体めぐぞ、こらぁ!」真田が怒った。

 「お前こそ、俺をナめてでかい口をきくんじゃねえぞ! おじさんに言いつけるぞ、この野郎!」下劣も怒った。

 「いい歳して、おじさん頼みかよ! 情けねえおっさんだな、おめえはよぉ!」

 「てめぇ、この野郎! おじさんの力を借りなくったって、てめぇなんぞは俺一人でも早明浦ダム湖に沈められんだよ、この野郎!」

 「なんだと、この野郎!」

 「なんだ、この野郎!」

 罵り合いながら、真田と下劣はお互いにゆっくりと距離を縮めていった。そうして、お互いの体が接触する寸前に至る。二人の身長はほぼ同じ。唇の距離も近い。真田と下劣が、上島竜兵氏と出川哲郎氏のような優れた笑いのセンスを有していたならば、そのまま口付けを交わして一触即発の状況を終了させることが出来ただろう。しかし、真田と下劣には笑いのセンスがなかった。二人は果てしなく睨み合い、どちらかが死ぬまで殴り合う決意を固めていった。そんな状況を収拾するために動いたのは、漢咲だった。

 「お止めなさい」漢咲は真田の胸にそっと手を当てた。「不毛な争いです」

 漢咲に諭され、真田は渋々ながらも下劣から離れた。

 「てめぇ、漢咲! 鳥取県民はどんな教育を受けているんだ、ええ!? この俺にいきなり噛み付いてくるたぁ、礼儀がなってねぇにも程があるぜ!」下劣が漢咲に噛み付いた。

 「最初にあなたが鳥取県民を侮辱した」漢咲が厳しい表情で言った。「素晴らしい人々を、あなたが最初に侮辱した。彼が怒るのは当然の権利です」

 「この野郎・・・・・・知事ごときの分際でぇ! 衆議院議員様に口答えするかぁ!?」

 「私は自分の立場が何であろうとも、相手の立場が何であろうとも、正しいことを言う。それは、私の政治家としての、国民に対する誠意です」

 「国民に対する誠意だぁ?」そう言ってから、下劣は大声で笑った。「公の場でもねえのにそんな言葉を口にする政治家を初めて見たぜ! 噂通り、イかれた男だぜ、漢咲よぉ! めでたい脳みそしてやがんなぁ、おめえはよぉ!」

 「何を笑ってやがんだぁ! ごらぁ!」

 再び怒った真田を、漢咲は目配せだけで宥めた。山火事に降り注いだ大雨のような目配せだった。

 「ああ、笑ったぜ。こんなに笑ったのは久しぶりだ」一通り笑ってから、下劣は言った。「てめぇみてえな世間知らずのバカを、試合でボコボコにするのが楽しみだよ」

 「あなたには出来ませんよ」大原が言った。「あなたの力は漢咲さんの千兆分の一程度だ」

 「知事がバカなら県民もバカだな。衆議院議員の俺がわざわざ手を汚すわけがないだろう」下劣は自分の後方にいる十七人の高知県代表を振り向かずに指差した。「高い金で雇った精鋭が何人もいる、最強のチームだ。てめぇら弱小の鳥取県代表を血祭りにあげるのなんざ楽勝よ」

 「公私宴法第199条違反を自分で認めましたね」蟹江が言った。「あなたたちは公私宴出場権を失いますよ」

 「何も知らねえガキが、ほざいてやがる」下劣は邪悪に微笑んだ。「検察が俺たち沈没党の言いなりである以上、俺たちが公私宴出場権を失うことは天地がひっくり返ったって有り得ねえんだよぉ! それに、公私宴法違反なんざどのチームもやってることさ! ガキ、おめえは幼稚園児かよ!? 赤信号はみんなで渡れば怖くない、法律はみんなで破れば怖くない、そんなことは小学生だって知ってる常識だぜぇ!」

 「救いようのないクズだな、あんたは」松田が言った。

 「なんだと、この野郎」下劣が松田を睨んだ。そうして、下劣の目は一層と差別主義者の色を強めた。下劣の顔が一層と醜悪なものになった。「その肌の色と顔つき、てめぇ、純血の大和民族じゃねえな! 純血の大和民族にあらずんば人にあらず! てめぇのような下等な人種が、純血の大和民族様に向かって口をきくんじゃねえ! ボケが!」

 その最低な差別発言は、鳥取県代表の八人を激怒させた。普段温厚な楽境と優崎でさえ、怒りで顔を歪めた。真田は完全に切れ、差別発言を受けた松田も切れていた。

 真田と松田は下劣に殴りかかろうとした。しかし、脚が思い通りに動かなかった。二人は自分の脚を見下ろした。生まれたての鹿もびっくりなほどに脚が震えている。地震か? と、二人は思った。しかし、地面に置いてある自分たちの荷物が全く震えていないのを見て、その考えが間違いであることに気付いた。それからすぐ、漢咲から発せられている強力な怒りの気を感じ取り、二人は自分たちが震えている理由を悟った。

 この時、辰野町にいた生物全てが、震えていた。漢咲の怒りの気を生存本能で感じ取り、震えていた。

 「もう二度と、醜悪な発言はするな。下劣杉男」凄まじい怒気を込めた声で漢咲は言った。

 漢咲の強力な怒りの気を感じて、下劣は失禁した。更には、三方ヶ原から浜松城へ逃亡する徳川家康のように、大便まで漏らした。高級なボトムスとブーメランパンツを汚せるだけ汚して、下劣は尻餅をついた。 

 下劣は、漢咲に罵声を浴びせかけようと試みた。しかし、恐怖のあまり口が動かない。口ばかりか、喉すら動かない。喉ばかりか、肺すら動かない。下劣は、喋れないばかりではなく、呼吸すら出来ない状態に陥った。下劣は涙目になり、白目をむき、泡を吹き、のたうった。

 「その辺で気を収めなよ、漢咲大黒柱さん。そのゴミ、このままじゃ窒息死しちまうよ」

 高知県代表の男が漢咲のそばに歩み寄り、言った。男は、三十代後半で、八頭身以上ある美男子だった。バラのつぼみのような唇、完璧なEラインを実現する理想的な高さの鼻、目との距離が近い眉、桂浜みたいな額、そして、美しい切れ長の目。その涼しい瞳の奥には、TrES2よりも暗い闇が広がっていた。黒檀のような髪はオールバックでばっちり決めている。トップスは自然とはだけたYシャツ一枚。ボトムスはカーゴパンツでありながらもタイツみたいな謎のアイテム。ローファーはヘビ革で靴下は着用していない。個性的ながらも魅力的なその身なりは、異性の目だけではなく、同性の目すらも引き付けるものだった。

 美男子に言われてすぐ、漢咲は気を収めた。それで下劣は呼吸が出来るようになり、金品財宝に群がる亡者のようにして呼吸を貪った。

 「あなたのお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」漢咲が美男子に尋ねた。

 「狩谷夢彦です。よろしくどうぞ、漢咲さん」狩谷は漢咲に握手を求めた。「気比べはなしで、単純な親愛の証として、握手をお願いできますか?」

 「喜んで」漢咲は狩谷との握手に応じた。「ありがとう、狩谷さん。あなたが止めてくれたおかげで下劣さんを死なせずに済みました」

 「瑞々しい手だ」漢咲の声には意識を向けず、狩谷はうっとりとした表情でつぶやいた。「まるで二十歳になったばかりの初な男の子の手だ。皮膚と神経と腱と骨に純情を宿している、魅力にあふれた手だ。とても六十代の男の手とは思えない」

 「お褒めの言葉、ありがたく頂戴します」

 二人は握手を終えた。終えてすぐ、狩谷は漢咲の下半身に手を伸ばし、そうして、漢咲の男性器をボトムス越しに握った。

 「でかいね。若い頃に付き合っていた黒人のスミスよりもでかい」狩谷は、漢咲の男性器をエロティックに揉みしだきながら言った。「あなた、男は抱ける口かい?」

 狩谷の唐突な行為は、周囲の人間たちを唖然とさせていた。鳥取県代表の面々は、漢咲が人前で男性器を揉みしだかれる侮辱を受けたことに憤慨しつつも、目の前で行われている行為に理解が追い付かず、口を半開きにしたまま硬直していた。高知県代表の面々は、チームメイトの振る舞いに唯々困惑し、口を半開きにしたまま硬直していた。

 この場で冷静を保っていたのは、揉みしだく狩谷と揉みしだかれる漢咲だけだった。漢咲は穏やかな笑みを浮かべていた。

 「私は男は抱きません」漢咲は微塵も動揺していない声で言った。

 「ノン気かい。いいね。ノン気のほうがヤりがいがある」狩谷は恍惚とした顔になって言った。「目覚めの瞬間を迎える男ほど美しいものはこの世に存在しない。初めて精を吐き出す少年も、初潮を迎える少女も、蛹から羽化する蝶も、臀部の秘め事に目覚めた男の美しさには遠く及ばない・・・・・・ねえ、漢咲さん。あなたは同性愛についてどう考えていますか?」

 「全ての人間が生まれながらにして持っている恋愛と結婚の自由に当てはまる当然の権利だと考えています」漢咲ははっきりと言った。「私が総理大臣になった暁には、すぐさま同性結婚が可能になるよう、憲法24条1項にある、両性と夫婦、の部分を、両者、に変えます。その他にも、セクシュアルマイノリティの方々が幼少の頃から自分らしく生きていけるよう、全ての公的機関に様々な支援制度を導入します。差別を無くすために必要な声も、私は総理大臣として上げ続けていきます」

 「漢咲さん・・・・・・あなたは男心の分からない人だ」狩谷は冷めた顔になって言った。「僕は僕以外のセクシュアルマイノリティのことなんてどうでもいいんだ。他人のことなんて関係ない。僕は同性愛者への差別がある時代に生きてきたけど、全て我を通して生きてきた。良い男はノン気だろうが何だろうがヤってきたし、僕を否定する奴は誰だろうがヤってきた。この二つの、ヤ、は意味が違うって分かるよね、漢咲さん? そういうわけで、僕は自由に生きてきたんだ。自分の力だけでね。自分の人生には充分満足している。だから、お国の助けなんて必要ないんですよ、僕には。あなたが先程述べた言葉は、僕には何の意味もなく、また、僕の求めたものでもなかった。僕があなたに同性愛についてどう考えているのかと尋ねたのは、単なる恋愛上の駆け引きだったんですよ。あなたは僕の問いに対して、政治の答えではなく、個人の答えを返すべきだったんです」

 「そうでしたか。では、私の政治家としての答えではなく、私個人の答えを聞いて下さい・・・・・・好きなものは好き、みんなそれで良い! 男が好きならそれで良い! 女が好きならそれで良い! みんなありのままで良い! みんな自分らしく自由に生きて良いんだ! 私は一人の人間として、みんなを応援している!」

 その本気の声は、周囲を美しい虹色に染めた。木も、花も、土も、石も、公私宴球場さえも、全てが虹色に染まった。

 狩谷は食い入るように漢咲を見詰め、自身のきめ細かい頬をワインレッドの色に染めた。

 「惚れた・・・・・・心底惚れたよ、漢咲さん」狩谷は喘いだ。「この公私宴一回戦で、あなたは必ずモノにする。僕は狙った獲物は絶対に逃がさない。サオを洗って待っていな、漢咲さん」

 「漢咲! この非国民が!」呼吸の調子を取り戻した下劣が叫んだ。「黙って聞いてりゃあ、貴様、同性愛者などという非生産的な存在を容認する発言を堂々としやがって! 貴様、それでも政治家か!? 誇り高き大和民族か!? 男は男らしく働いて女に子供を産ませ、女は女らしく子供を産んで子育てと家事に従事する、そんな当たり前の素晴らしいスタンダードを真っ向から否定するとは、断じて許せん! やはり、国滅鬼畜丸総理が仰っていたことは正しかった! 漢咲大黒柱こそがこの偉大な日本国にとっての最大の害悪! 貴様のようなクズは、この下劣杉男が必ずや公私宴一回戦で討ち取ってくれるわぁ!」

 狩谷は首を横に振った。それから、漢咲の男性器から手を放し、その手で下劣の首をつかんだ。下劣は再び呼吸が出来なくなり、声にならない悲鳴を上げた。

 「汚い金をばらまく以外に脳のないあんたが、どうやって漢咲さんを討ち取るっていうんだい? ええ? この、べこのかあ」狩谷が言った。

 首の骨を折ろうかという強さで他者の首をつかみながらも、狩谷は無表情だった。そのゾッとするような顔は、人の命を奪うことを何とも思っていない人間の顔だった。

 「その手を放しなさい、狩谷さん」漢咲は狩谷の肩に手を置き、言った。「どんな理由があっても暴力は許されない」

 「その許されない暴力で、世界は出来ている」そう言ってから、狩谷は下劣の首から手を放した。「それが分からないほど世間知らずではないでしょうに・・・・・・あなたは優しいんだね、漢咲さん。優しいあなたは、素敵だよ」

 「貴様、狩谷。この俺にこんな真似をして、唯で済むと思うなよ」下劣が呻き声で言った。「今すぐおじさんに言いつけてやるぞ。今すぐ貴様を殺してくれるようおじさんに頼んでやるぞ、この野郎」

 「今、僕が死んでしまったら、困るのはあんたですよ。僕がいなくては、高知県代表は到底、漢咲さんのいる鳥取県代表には勝てない。漢咲さんのチームに負けるようなことがあれば、国滅鬼畜丸に何をされるか、沈没党議員のあんたならよく分かっているはずだ」

 狩谷が言い終わると、下劣の顔が青ざめた。その青さは、冷え性の人の手足をサーモグラフィーで見るのよりも遥かに青かった。下劣はガタガタと震え出した。上下の歯が何度も小刻みにぶつかる不快な音が鳴り響いた。

 「あんたもいい歳なんだから、感情に任せて殺すなんて言わないで、常に冷静であることを心掛けなさい」狩谷は下劣の右頬を軽くはたき、その返す手で左頬も軽くはたいた。「あんたは僕に前金を払ったんだ。僕を殺すなら、僕に仕事をさせてからのほうがいい。そうだろう?」

 下劣は苦虫を噛み潰したような顔をして、それから、嫌らしく微笑んだ。狩谷もまた、微笑んだ。

 「僕はヤる気だ。最初はモチベーションの上がらない仕事だと思っていたけれど、今はギンギンだ。あんたの依頼通り、公私宴球場を鳥取県代表の血で染めてあげるよ」

 「ああ。よろしくやってくれ。ついでに、試合が終わった後の覚悟も決めておいてくれ」下劣は悍ましい声で言った。「試合終了までに、ホモ野郎にふさわしい死に方を考えておくからよ」

 狩谷と下劣はお互いに微笑んだまま十秒ほど睨み合った。それから、狩谷は漢咲を見やり、投げキッスをした。漢咲は投げキッスに対して微笑みを返した。狩谷は舌なめずりをしてから、公私宴球場へと近づき、正面ゲートを通って公私宴球場内へと姿を消した。高知県代表の面々がその後に続いた。

 「覚えておけ。今日がお前たちの命日だ」下劣が漢咲たちに向かって言った。「あのホモ野郎に、お前らは皆殺しにされるんだ。試合開始までに遺書を書いておくことを勧めるぜ。まあ、残り短い余生をせいぜい楽しんでくんな!」

 下劣は笑いながら公私宴球場内へと姿を消した。

 「テレビの画面とかじゃ伝わってこねえもんがある。生で見なきゃ分かんねえもんがある」真田がこぶしを握り締めながら言った。「今日初めて、俺は下劣杉男って男を生で見た。そうして、はっきりと分かった。あの野郎は、邪悪の権化だ。あの野郎は、優しさの欠片も持ち合わせちゃいねえ。あんなのが俺たちの国で政治家をやっている、その事実が、俺は死ぬほど恐ろしい」

 「俺もあいつは嫌いっす。試合になったら全力でぶっ飛ばしてやるっすよ」海原が言った。

 「俺たちが今注意を払うべきは、下劣杉男ではない」大原が言った。大原は大量の冷や汗でびしょ濡れになっていた。「あの狩谷という男にこそ俺たちは注意を払わなければならない。彼は、危険だ。警察官の勘で言っているんじゃない。人間の本能で言っている。俺は、情けない話だが、彼を目にしただけで冷や汗が大量に噴き出してしまった」

 「私も全く同じです」その言葉通り、優崎も大原と同様、冷や汗でびしょ濡れだった。「試合中は、あの狩谷さんという人との直接対決は避けるのが賢明でしょう。彼は、本当に、底が知れない」

 「あの男に注意を払う以前に、試合が出来るかどうかの心配をしなくてはならないでしょう」蟹江が言った。「試合開始まで後三十分を切っている。なのに九人目のメンバーはまだ来ていない」

 「蟹江君。その心配は無用です」公私宴球場正面ゲートのそばには、1000平方メートルを超える広さの駐車場がある。漢咲はその駐車場に目を向け、言った。「九人目の仲間が、来ました」

 蟹江たちはそろって漢咲の視線の先を見やった。そうして、鳥取県代表の八人の瞳に、皆野の姿が映った。

 皆野は、公私宴球場正面ゲートのそばの駐車場に併設されている駐輪スペースに自転車を停めてから、漢咲たちに近付いてきたのであった。

 「未来、どうしてここに・・・・・・」大原が驚きの声を漏らした。

 「大原さん、なんであんたがこんなところに?」皆野は大原を見つけ、言った。

 「まさか、漢咲さん!」大原は漢咲に目を向けた。「九人目のメンバーというのは、あの子のことなんですか!?」

 「そうです」漢咲は言った。「彼が鳥取県代表の九人目です」

 大原は、再び皆野を見やった。それから、歯を食い縛り、漢咲を睨み付けた。

 「漢咲さん、あなたを見損ないましたよ! 毎回百人以上の死者が出ている公私宴に、十五歳の子供を出場させるなんて、間違っている!」

 「彼が十五歳って、それは本当ですか!?」優崎も漢咲に目を向けた。「本当のことなのですか、漢咲さん!?」

 「事実です。彼は、私が鳥取県代表へ参加してくれるよう頼んだ十五歳の少年です」

 「そんな! 子供に戦えと仰ったのですか! あなたは!」優崎は怒り、叫んだ。「子供たちの未来のために戦うと言っておきながら、子供を戦いに誘ったとは! あなたは何て酷いことをしたんだ!」

 「眼鏡のおっさん。俺をガキ扱いするんじゃねえよ」皆野が優崎に向かって言った。「死人が出るような戦いなら、俺はあんたの百倍は活躍するぜ」

 皆野の生意気な発言に虚を突かれ、優崎はうろたえ、言葉を詰まらせた。

 「あんたもだぜ、大原さん。俺をガキ扱いするな」

 皆野の生意気な性分を熟知している大原は、皆野の発言にうろたえりしなかった。大原は皆野を真っすぐに見詰めた。

 「子供扱いしているわけじゃない。事実、君は子供だ」

 「そうかい。あんたにそんなことを言われるとは、残念だ」そう言ってから、皆野は大原のすぐそばまで歩み寄った。「あんたは俺のことを一人の男として認めてくれているとばかり思っていたのに」

 「君のことは認めている」大原は皆野を見詰めたままで言った。「男として、人間として、認めている。しかし同時に、俺は大人として、君のことを守るべき子供だとも思っている」

 「君が危険な戦いに身を投じる必要はないんだ」うろたえた状態から立ち直った優崎が優しい声で言った。「危ないことは私たち大人に任せて、君は家に帰りなさい」

 「帰らねえよ」皆野は断言した。「俺は公私宴に出場するためにここに来た。自分の意思でここに来たんだ。俺は自分の意思を意地でも通す。あんたらを蹴散らしてでも、俺は公私宴に出場するぜ」

 「やんちゃな坊主だ。嫌いじゃないぜ」真田が皆野に歩み寄り、言った。そうして、真田は皆野の足から頭までを品定めするようにまじまじと見た。「良い体してやがる。しかし、まだガキの顔だ。さっさとお家に帰ってママのおっぱいでも吸ってな、って言ってやりたくなっちまう顔だ」

 「なんだ、こらぁ。おっさん」皆野のこめかみに極太の血管が浮かび上がった。「喧嘩売ってんのか? ああ!?」

 「ガキに売る喧嘩なんざ持ち合わせちゃいねえよ」

 「真田さん。この子を挑発しないでください」大原が皆野と真田の間に立ち、言った。

 「餅は餅屋ってな。不良のことは元不良に任せなさい、大原ちゃん」そう言って、真田は大原を押し退け、前進し、皆野との距離を更に縮め、皆野を見上げ、メンチを切った。「ガキぃ。こちとら命懸けで公私宴を戦い抜こうって腹なんだ。公私宴はガキのお守りをしながら戦い抜けるほど甘いもんじゃねえんだよ。いいか、一度しか言わねえから耳の穴かっぽじってよく聞きな・・・・・・てめえみてえな足手まといのガキは鳥取県代表には必要ねえ! そういうこった。分かったら鳥取に帰りな。帰りの電車賃くらいは俺が出してやるからよ」

 「言いてえことはそれだけか? だらず」ガラの悪い中年のメンチに一切動じず、皆野は言った。「俺が足手まといかどうか、今、ここで、試してみるかい?」

 「面白れぇ」真田はニヤリと笑った。「タイマン張れりゃあ、それでおめえに実力の違いを分からせてやれるんだが、俺はガキを殴る趣味はねえ。そういうわけだから、ここは平和的に、おめえが足手まといだってことを分からせてやるよ」

 「チキっちまったのかよ。タイマンも張れねえ腰抜けが」皆野が煽るように言った。

 「安い挑発だな、おい。乗らねえよ」そう言ってから、真田は鳥取県代表の面々に目を向けた。「誰か! この中でスマホにスカウターアプリを入れてる奴はいねえか!?」

 「俺のスマホに入ってるっすよ」海原がスマホを掲げた。「スカウターアプリは人間以外の気も計れるんで、遭遇した海の生物が危険かどうかを知りたいときなんかに漁師はよく使うんす。特別に気の強いダイオウイカなんかに知らず知らずのうちに近付くと命の危険があるっすからね」

 「坊主、おめえ、スカウターアプリが何か知ってるか?」真田が皆野に尋ねた。

 「バカにすんな。俺は若者だぜ。あんたみたいなおっさんが知ってるアプリのことを知らねえわけねえだろ」

 スカウターアプリとは、2022年にアメリカ人のジョン・アイザック氏が開発した、気を計って数値化するアプリケーションソフトウェアである。スカウターアプリは、ジョン・アイザック氏の個人Webサイトからインストールが可能になった2022年10月から翌年の3月までに全世界で一億回以上インストールされた。このスカウターアプリを目玉商品として、ジョン・アイザック氏は2023年4月に大学を中退して企業した。会社名は、アメリカンドリーム。企業から一年で、アメリカンドリームの資産価値は十億ドルを突破。その後、2024年9月4日、アメリカンドリームは新興企業のテンプレート通りに、大手IT企業に買収された。現在、ジョン・アイザック氏はモナコで早すぎる隠居生活を送っている。スカウターアプリはというと、現在はver2.01がGooglePlayからインストール可能である。

 「それなら、話が早え。要は、スカウターアプリを使って俺とおめえの気を比べっこしようって話だ。おめえが、そうだな、俺の半分でも気の数値を出せれば、その時は、俺はおめえの鳥取県代表入りを認めてやるよ」

 「上等だ」皆野は言った。

 「それじゃあ、まずは俺から気を計らせてもらうぜ。キヨちゃん、スカウターアプリ起動よろしく」

 海原はスカウターアプリを起動し、スマホのカメラを真田に向けた。

 「いつでもいいっすよ」

 真田は、両足を肩幅の広さに開き、深く腰を落とし、両肘を曲げ、両手を握り締めた。

 「俺の気のデカさにビビッて、小便漏らすなよ!」

 そう叫びながら、真田は全身に力を込め、気を発した。

 ピピピ・・・・・・というスカウターアプリの機械音が海原のスマホから鳴りだした。

 「8000・・・・・・9000・・・・・・10000・・・・・・」海原がスマホの画面を見ながら言った。「すげえ。まだ上がっていく」

 どんどん強まっていく真田の気は、やがて、圧力波の一種ともいえる現象を周囲に発生させた。その現象によって、真田の足下のアスファルトの地面にひびが入り、それから、公私宴球場の外壁にもひびが入った。

 十秒ほどで、真田の気はマックスに至った。同時に、スカウターアプリの機械音が鳴り止んだ。

 「サナさんの気は、14000っす!」海原が叫んだ。「二年前に俺が計った、体長100メートル以上のダイオウイカよりもデカい気っす!」

 「世界の成人の気の平均値は4。その事実を踏まえれば、14000という数値はとてつもなく優秀です」蟹江が言った。

 真田の強大な気を前にして、恐怖せずにいられる人間がこの世界に何人いるだろうか? おそらく、人類の99パーセントは、真田の気を感じ取った瞬間に失禁することだろう。そうして、今、公私宴球場正面ゲート前にいる鳥取県代表の面々は全員、パンツを濡らしていない。その事実が、鳥取県代表の面々は皆、真田と同等かそれ以上の力を有していることを物語っていた。

 「まいったね、若い頃の半分くらいしか力が出ねえや」そう言いながら、真田は強まった気を平常に戻した。「おっさんになんかなるもんじゃねえな」

 「それじゃあ、今度は俺の番だ」皆野は海原を見やった。「そこのチャラそうな奴、ちゃんと計ってくれよ」

 「ムカ、っす。口の利き方を知らないガキンチョっすね」海原は真田の数値をリセットしてから、スマホのカメラを皆野に向けた。「ほれ、ガキンチョ。いつでもいいっすよ。みみっちい気を発してみな」

 皆野は、両手をポケットから抜き出し、その手を強く握り締めた。

 「俺の気のデカさにビビッて、大便漏らすなよ!」

 そう叫びながら、皆野は全身に力を込め、気を発した。海原のスマホからスカウターアプリの機械音が発せられる。

 「2000・・・・・・3000・・・・・・4000・・・・・・へえ、少しはやるじゃないっすか」海原は、幼児の児戯に対して微笑む老人のような顔で言った。「ガキンチョにしては、結構な気、してるじゃないの。さーて、どこまでこの勢いが続くかな?」

 「せいぜい6000くれえが限界だろうよ」真田が笑いながら言った。「乳臭い十五歳なんぞ、そんなもんだ」

 どんどん強まっていく皆野の気は、やがて、公私宴球場付近に強風と大雨を発生させた。大型トラックがひっくり返るほどの強風と、ゴルフ場のバンカーが池に変わるほどの大雨だった。

 スマホの画面を見る海原の顔から、徐々に血の気が引いていった。

 「14000! どうなってんすか、これ!? 15000! まだ数値が上昇していく!」海原が驚愕の声を上げた。噴き出した冷や汗が大雨で隠れた。

 「15000だと!? スカウターアプリの不具合じゃねえのか、それ!?」真田が笑みの消え去った顔で叫んだ。

 「正常っす! 正常に起動してるっす、スカウターアプリ! 19000・・・・・・20000・・・・・・21000! うおぉ! どこまで上がるんじゃ、この数値!? ウシマンボウの計量でだって、こんなに度肝を抜かされなかったっすよ、俺!」

 「こんな都市伝説がある」雨水で視界の悪くなった眼鏡を外して、蟹江が言った。「スカウターアプリは測定の数値が22000を超えるとスマホを爆発させる。そういう都市伝説がある」

 「はぁ!? ちょっと、待って! スマホが爆発するって、嘘でしょ!? 冗談じゃねえっすよ! このスマホ、先月買ったばかりの、最新のiPhone17すよ!」海原がこの世の終わりのような声で叫んだ。「うわぁ! 21500! ちょっと、蟹っち! スカウターアプリって、どうすれば測定をキャンセルできるの!? 教えて!」

 「海原さんのスカウターアプリは、有料版と無料版、どちらですか?」

 「無料版っす!」

 「無料版には、キャンセル機能が搭載されていません。ですから、一度測定が始まってしまったら、どうしたって止められない」

 「只より高いものはない、とはよく言ったもんだ」松田が言った。

 「21900! うわぁ、爆発する! 俺のスマホが爆発する! スマホが爆発するって、そんなの、自分の心臓が爆発するよりもきついっすよぉ!」

 スマホに依存していない人間であったならば、爆発物になるかもしれないスマホなどは即、遥か彼方へ投げ捨てていただろう。しかし、スマホに依存している海原は、爆発物になるかもしれないスマホを強く胸に抱き、両目をつぶった。それはまるで、我が子と心中を図ろうとする親のような振る舞いだった。何よりも一番スマホが大事、という2010年代に生まれた新しい価値観を、海原は体現していた。

 海原がスマホを胸に抱いてから、五秒が過ぎた。その間も、スカウターアプリは機械音を鳴らし続けた。

 海原は恐る恐る目を開けて、スマホの画面を見下ろした。そうして、ぱっと笑顔になった。

 「27000っす! 22000を超えてるのに爆発してねえっす! 何だよ、蟹っちったら! 脅かすようなことを言って、人が悪いったらないっすよ!」

 「都市伝説だと言ったでしょ。都市伝説といったら大抵デマだと相場が決まっているでしょ」

 蟹江が言い終わるのと同時に、スカウターアプリの機械音が鳴り止んだ。

 「ガキンチョの気は、28000っす」そう言ってから、海原は口笛を吹いた。「デカい気っすね。デカさだけなら超一流の気っすね」

 「俺の力が分かったかい?」そう言いながら、皆野は強まった気を平常に戻した。同時に、風雨が止んだ。晴天が戻った。「俺とおめえらじゃあ、格が違うんだよ」

 「坊主」真田が言った。その顔には、自分の倍の気を有する者への畏怖も気後れも皆無だった。その顔にあったのは、余裕の笑みだけだった。「おめえ、トム・ジャクソンって知ってるかい?」

 「現WBAヘビー級チャンピオンだろ」質問の意図が全く読めないまま、皆野は答えた。

 「昨今のボクシングでは、試合前の体重の計量と同時にスカウターアプリで気を計るのさ。それで、去年三回目の防衛戦に挑んだトム・ジャクソンが計量時に記録した気の数値が、20000だった」

 「それじゃあ、俺は世界最強のボクサーよりも強いってわけだ」若さと才能からくるおごりによって、皆野はドヤ顔を作った。「それじゃあ、あんたみたいなチンケなおっさんなんか俺の相手にもならねえわな」

 「俺がトム・ジャクソンとタイマン張ったらよぉ」真田は冷静に言葉を続けた。「十秒で、俺の顔面は十倍に腫れ上がってる。そんで、俺は土下座してこう言うのさ。俺じゃああんたには逆立ちしたって勝てねえ、ってな」

 「そりゃそうだ」皆野が見下すように言った。

 「そんな俺がよ、もしもおめえとタイマン張ったらよ、どうなると思う?」

 「小学校一年生の算数からやり直すかい? ええ? おっさんよぉ」皆野が嘲るように言った。「20000と28000、どっちが大きい数字か、分からないのかい?」

 「そんな安い煽りはいらねえからよぉ、どうなると思うのか、言ってみろよぉ」そう言って、真田は自宅のリビングでするようなリラックスしきった伸びをした。

 真田の言動に不気味なものを感じつつも、皆野は弱みを見せまいと更に威勢を良くした。

 「俺とあんたがタイマンを張ったら、あんたの顔面は首の上からさようならをすることになるだろうよ」

 「残念ながら、そうはならねえんだわな」真田はあくびをした。「タイマン開始十秒で、おめえは失禁しながら、俺に土下座してこう言うのさ。僕チンではあなたに逆立ちしたって勝てません、ってな」

 「本当に、あんたは小学校一年生の算数からやり直さなきゃならねえみてえだ」皆野は失笑の声を漏らした。「気の数値14000ごときのあんたが、28000の俺を一体全体どうやって土下座させるっていうんだい?」

 「戦闘力っていうのはよ、気のデカさだけで決まるもんじゃねえんだわ。気をいかに上手く使いこなせるか、これが真に戦闘力を計る指針なんだわ。それでいったら、おめえは俺の三分の二程度の戦闘力しか有していねえ」

 「酷い負け惜しみを聞いたぜ」皆野は首を横に振った。「十五年間生きてきて、負け惜しみは散々聞いてきたが、これ程に酷い負け惜しみを聞いたのは初めてだぜ」

 「負け惜しみじゃねえ。厳然たる事実だ。おめえの力は唯デカいだけの、実用性のねえ力だ。プファイファー・ツェリスカみたいなもんだ、おめえは」

 「上等だ、この野郎! てめえを血の海に沈めて、俺が使い物にならねえプファイファー・ツェリスカとは違うってことを証明してやらぁ!」

 皆野は真田に殴りかかった。そのパンチを、真田は相撲に似た技でいなした。いなされた皆野は勢い余って前のめりになった。

 「おいおい、ここは球場の外だぜ。ヘッドスライディングをするような場所じゃあねえぜ」真田が大声で笑った。

 「この野郎! ナめんな!」

 皆野は更に数十発、真田に向かってパンチを放った。その全てが、最初のパンチと同様に軽々といなされた。

 「バカな!? なんでこんなにも簡単にいなされちまうんだ!?」パンチを打つのを諦め、肩で息をしながら、皆野は言った。

 「気の流れが単純すぎるんだよ、おめえは」真田が真顔になって言った。「格ゲー初心者のジャンプ強パンチみてえなもんだ、おめえのパンチは。目をつぶっててでも躱せるぜ、そんなもん」

 「ちくしょう。俺のパンチが当たりさえすれば、てめえなんざイチコロなのに」 

 「それこそ酷い負け惜しみだぜ、坊主」

 真田に指摘され、皆野は、ぐぅ、と唸った。

 「それによ、おめえの言う当たりさえすればイチコロっていうパンチ、それでさえ、俺からしたらあくびが出る代物なんだ」そう言って、真田は地面に向かってこぶしを振り上げた。空手の瓦割りに似た動作だ。「坊主。パンチってえのはなあ、こうやって打つんだよ!」

 真田はこぶしに気を集中して、気合の声を発し、地面にこぶしを振り下ろした。その凄まじいパンチが放った衝撃は、地中を貫き、コアを貫通し、ウルグアイの近海に大きな水しぶきを噴き上げさせた。そのパンチに圧倒され、皆野は尻餅をついた。

 「おめえの半分程度の気しかねえ俺でも、おめえより強いパンチが打てる。これが、気の奥深さってやつだ」皆野を見下ろしながら、真田は言った。「分かってくれたかい、坊主?」

 二日前に漢咲に完敗した時以上の屈辱が皆野を襲った。皆野にとって、漢咲への完敗は、ミドル級のボクサーがヘビー級のボクサーに挑んでの敗北に等しかった。しかし、真田への完敗は、ミドル級のボクサーがライト級のボクサーに挑んでの敗北に等しかった。自分よりも弱いはずの人間に負ける、圧倒的な屈辱。皆野は、悔しさの余りに涙を流した。

 「ゲームセットまで、泣くんじゃない」真田が言った。「おめえはこれから公私宴の試合に出るんだ。だから、ゲームセットまで、泣くんじゃない」

 「なんでだ?」涙を乱暴に拭って、皆野は真田を見上げた。「足手まといは必要ないんだろ?」

 「俺の半分でも気の数値を出せれば鳥取県代表入りを認めてやる、とも言ったんだぜ、俺は」真田はニヒルに微笑んだ。「おめえは俺の半分どころか倍の数値を叩き出した。約束通り、俺はおめえの鳥取県代表入りを認める」

 「こんなバカな話はありませんよ!」大原が叫んだ。「彼に公私宴出場を断念させようとしていたあなたが、結局、彼の出場を後押しするようなことを言い出すなんて!」

 「真田さん。昨晩、私はあなたと飲んで、あなたが情に厚い人だと感じた。でも、それは勘違いでした」優崎が言った。「子供の公私宴出場を認めるなど、情の欠片もない人間のすることです!」

 「その辺の普通のガキを公私宴に出そうっていう鬼畜がいたら、俺はそいつをぶっ飛ばすぜ」真田は大原と優崎を見やった。「このガキが普通のガキだったら、俺は漢咲さんをぶっ飛ばすつもりでいたんだ。だが、このガキは普通のガキじゃなかった。このガキは、気の扱いはまだまだ未熟だが、気のポテンシャルに関しては桁外れなものがある。これだけの気があれば、例え未熟ではあっても、公私宴で簡単に命を落とすことはねえ。自分の身は自分で守る、その最低限の力を有している奴の出場に反対することは、俺はしねえ」

 「力の有無で子供の公私宴出場を判断するべきではない! 人道に則ってのみ、判断するべきです! 子供を戦いに駆り出す非人道的な行為を、私は認めない!」優崎が叫んだ。

 「サキさんの言ってることはすげえ優しくて、俺は好きっすけど・・・・・・」海原が言った。「でも、優しさだけで全ての物事を判断するっつうのは無理だと思うっす、俺は。結局、このガキンチョがそれなりの力を持っていて、自分の意思で公私宴に出ようっていうんなら、それはこのガキンチョの権利と自由であって、俺たちがあれこれ心配してその権利と自由を奪うっつうのは、違うんじゃねえかなって、俺は思うっす」

 「優崎君、大原君。君たちは、銃口を向けられている子供を目の前にしたとき、その子供に何と声を掛ける?」楽境が険しい表情で言った。

 「何て物騒なことを仰るんですか、楽境さん!?」優崎が言った。

 「まさか君たちは、銃口を向けられている子供に対して、君は子供だから戦うな、などとは言うまいね?」

 「楽境さん! それは余りにも乱暴すぎる例えですよ!」優崎が言った。

 「これは例えではなく、現実じゃ。現実に、今、日本の子供たちは国滅鬼畜丸に銃口を向けられておる」楽境の表情が更に険しくなった。「この公私宴で、国滅鬼畜丸が再び総理大臣になれば、日本の子供たちの未来は失われる。虐待が日常茶飯事の国滅鬼畜丸軍への徴兵制度が法律で認められれば、日本の子供たちの生命と精神は危険にさらされる。国滅鬼畜丸が三期目で必ず国会で可決させると公言している法案で、十代の少年少女たちは国滅鬼畜丸軍の徴兵対象になってしまうのじゃ。その法案は、最速で、公私宴終了後最初の国会で審議される。参議院も沈没党が過半数を占めている現状じゃから、沈没党が与党のままであったならば、その法案は必ず可決される・・・・・・儂は、銃口を向けられている子供を目の前にしたら、こう叫ぶよ。自分が生き残るための最善の手を打て、その最善の手が戦うことならば、戦いなさい! 儂なら、そう叫ぶ」

 「俺なら、子供が撃たれるよりも先に銃を持った奴を倒し、子供を助けます」大原が言った。「それが大人の責務です」

 「しかし、今の俺たちには子供を助ける力がない」松田が言った。彼は、出血するほどに自身の両手を強く握り締めていた。「九人のメンバーを揃えられない俺たちには、銃を持った奴を倒すことが出来ない。だから、俺たちは、自分たちの無力さとクソったれさにムカつきながら、その子に戦えと言うしかない」

 大原と優崎も出血するほどに自身の両手を強く握り締めた。更に、強く歯を食い縛り、口からも出血した。

 「話し合いで解決できる内容ではないでしょう。その子が公私宴の試合に出るべきか否か、多数決をとりますか?」蟹江が言った。

 「多数決で決めるようなことじゃない!」大原が叫んだ。

 「では、どうやって決めるのですか? 試合開始まで、後二十分を切りましたよ」

 大原は、尻餅をついたままの皆野のそばで片膝をついた。そうして、皆野の目を真っすぐに見詰めた。

 「未来。公私宴には出場するな。九人目のメンバーは、これから鳥取県民繋がり合いサービスを使って募る。だから、君が戦う必要はない」

 皆野は、大原の愛情を強く感じ、しゅんとして、俯いた。

 場が、停滞という名の重たい重力によって、ひしゃげた。

 停滞という名の重たい重力、それを消滅させたのは、漢咲の声だった。

 「彼、皆野未来君は、未来の当事者だ。彼だけではなく、子供や若者は皆、未来の当事者だ。公私宴という選挙は、未来を決めるためのものであるのだから、一番に、彼のような子供や若者たちの考えが反映されなければならない。私は、皆野未来君本人の意思を尊重したい。彼が公私宴に出場して自分の力で選挙結果に影響を及ぼしたいと願うのであれば、私は彼の意思を尊重する。彼が公私宴への出場を望まなければ、その時も当然、私は彼の意思を尊重する。彼が公私宴に出場するか否か、それを決めるのは我々ではなく、彼本人だ」

 漢咲の声には、彼のありとあらゆる感情が詰まっていた。皆野への愛情、日本の全ての子供や若者たちへの愛情、日本の未来への危惧、日本の現状への危惧、子供の力を当てにしなくてはならない自身の無力への怒り、戦うことでしか未来を勝ち取れない人類のサガへの悲しみ、その他もろもろの感情が詰まった声は、果てしなく人間らしい声だった。

 「子供に、そんな大変な決断をさせるべきではありません」優崎が言った。「大人が決めてあげなければならないこともある」

 「子供にも人権があります。彼には、自分の全てを決定する権利がある」漢咲が言った。

 大原は、思案した。思案した時間は実際には数十秒程度だったが、脳みそが過剰なドーパミンによってフル回転したために、何十年も思案し続けたのと同等の思案になった。その思案の果てに、大原はゆっくりと口を開いた。

 「未来。やはり俺は、君を危険な公私宴には出場させられない」

 父性を帯びた人間愛に満ちた声を浴びて、それでも、皆野は保護される甘美を振り払い、力強く立ち上がった。

 「漢咲さんを、惚れた男を総理大臣にするために、俺はここまで来た。その意志を、俺は通す」

 空気が張り詰めた。一筋の風が吹き抜けて、皆野と大原の睫毛を揺らした。

 ゆっくりと立ち上がった大原は、気を発し、皆野を睨み付けた。

 「力尽くでも、君の公私宴出場は阻止する。どうしても公私宴に出場したければ、俺を倒すしかないぞ、未来!」

 大原が真田以上の強者であることを、皆野は感じ取った。感じ取って尚、皆野は気を発し、戦う構えを取った。

 「バカな!? 俺の力が分からない訳ではないだろう! なのになぜ、戦おうとする!?」大原は叫んだ。

 「勝ち目がなくても、引かねえよ、俺は。例え手足を引きちぎられたって、這ってでも、俺は大原さんを倒し、公私宴に出場する」

 はったりではなかった。それを見誤るほど、大原の目は節穴ではなかった。

 皆野が繰り出したパンチ、それを手の平で受け止めて、大原は涙を流し、皆野を見詰めた。

 「公私宴に出場すれば、死ぬかもしれないんだぞ、未来」

 「俺は死なねえ。必ず、この公私宴を生きて勝ち抜く・・・・・・約束するよ、大原さん」

 陽光が、大原の涙を照らした。反射で煌めいた光は、皆野の瞳を色彩豊かに染め上げて、儚く消えた。

 「優崎さん」大原は優崎に目を向けた。「彼の出場を阻止することは、俺たちには出来ない。俺たちに出来ることは、試合の最中、彼を守ることだけだ」

 優崎は、納得がいかない気持ちを抱えたまま、黙した。

 鳥取県代表の誰一人として、皆野の出場を喜ぶ者はいなかった。十五歳の少年が命がけの戦いに身を投じる現実に、鳥取県代表の全員が苦しんでいた。それでも、彼等は皆野と共に戦う腹を決めた。

 「打順とポジションを発表します!」腹の底から、漢咲は叫んだ。「一番、キャッチャー、私! 二番、ピッチャー、真田哲夫さん! 三番、サード、優崎実さん! 四番、ファースト、大原純さん! 五番、セカンド、海原清さん! 六番、ショート、松田ガネッシュさん! 七番、センター、蟹江久遠君! 八番、レフト、楽境大吉さん! 九番、ライト、皆野未来君!」

 鳥取県代表の面々の表情が引き締まった。決して、士気は高くない。それでも、各々が自分の守りたいもののために、戦意を奮い立たせたのであった。そうして、鳥取県代表は公私宴球場に入場した。

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