第4話 証明 ブラッシュアップ不足バージョン

 公私宴球場の正面ゲート前に、鳥取県代表チームの七人が立っていた。一時間後に野球の試合に臨む彼らだが、野球のユニフォームを着用しているのは真田だけである。公私宴の試合では服装が自由であるために、真田以外の六人はカジュアルな服装をしていた。

 「甲子園で投げる夢が叶わなかった俺が、まさか公私宴で投げることになるとはな」正面ゲートの上部に印された、KOUSIENSTADIUM、の文字を見上げながら、真田は言った。「人生ってもんは、何があるか分からねえもんだ・・・・・・野球人の血が滾ってきたぜ!」

 そう言って、己で己を奮い立たせようとするが、心は奮えず、体が震えるばかりだった。

 「サナさん、やる気ガン上げっすね。めっちゃブルってるっすけど。無観客の侘しい試合なんすから、気楽にやりましょうや」

 軽口をたたいて己の緊張を解きほぐそうと試みた海原であったが、それは失敗に終わった。荒れ狂う日本海のように、彼の心は不安と緊張の波に満ちていた。

 海原の言った通り、開会式では満員だった公私宴球場に客は一人も残っていなかった。1946年に行われた第一回夏の公私宴において、観客に多数の死傷者が出たために、後の公私宴は全試合無観客で行われるようになり、現在に至っている。開会式終了から閉会式開始までの間、大会関係者以外は公私宴球場どころか大城山に近付くことすら許されないのであった。

 「気楽にやっていい試合じゃない」

 松田が言った。緊張すると貧乏ゆすりをする癖のある彼は、立っていながらも激しく右脚を震わせていた。

 「僕たちが負ければ、それで慈愛党の夏は終わりですからね」蟹江は利き手ではないほうの小指を使って眼鏡の位置を直した。それは、彼が神経質になっているときのサインだった。

 「それでも、海原君の言うように気持ちを楽に保つことも重要でしょう。気負い過ぎはパフォーマンスを低下させるものですから」そう言って、大原は大きく深呼吸をした。

 「何事も、なるようにしかならん。平常心、平常心」楽境が地べたに座りながら言った。発した平常心という言葉からは程遠く、楽境の呼吸は乱れていた。

 「平常心、難しいですね」優崎は落ち着きなく、人差し指で自身の額を軽く叩き続けた。

 負けられない試合に臨む重圧が、七人の鳥取県民を苛んでいた。大城山から見下ろせる美しい辰野町の景色でさえ、彼等を癒すことは出来なかった。重苦しい沈黙が、場を支配した。

 新緑がさざめいた。その刹那に、清涼な声が響いて、沈黙は破られた。

 「皆さん、ご苦労様です」

 その声の主は漢咲だった。

 紅のスーツに純白のローファーという普段通りの出で立ちで、慈愛に満ちた笑みを浮かべる漢咲。彼を見やり、七人の鳥取県民は得も言われぬ安堵を覚えた。まるで、大きくて力強い父親の胸に抱かれたような安堵だった。

 「漢咲さん!」

 そう叫んで、七人の鳥取県民は揃って漢咲のそばに駆け寄った。そうして、談笑。重圧を忘れ去っての、談笑。漢咲の存在が、七人の鳥取県民に平常心をもたらしていた。

 しばしの談笑の後に、真田が真顔になって、漢咲に対して深々と頭を下げた。

 「漢咲さん! すみませんでした!」

 「頭を上げてください。真田さん」漢咲は優しい声で言った。

 「謝らねえわけにはいかねえ!」真田は頭を下げたままで言った。「あのクソみてえな開会式に、あんた一人を出席させちまったのは、俺たちの誤りだった! 俺たちも一緒にブーイングを受けるべきだったんだ!」

 「それについては、俺もちゃんと謝りたいと思っていました」松田も深く頭を下げる。「すみませんでした、漢咲さん」

 「私も申し訳なく思っていました」優崎も頭を下げる。「漢咲さん。申し訳ありませんでした」

 「私が一人で出席したいと申し出たのです。その私の意思をあなたたちは尊重してくれた。むしろ、私のほうがあなたたちに頭を下げるのが筋というもの」漢咲も深く頭を下げた。「私の意思を尊重してくれて、ありがとうございました」

 「俺たちの考えが足りなかったんです。民主主義の象徴である公私宴球場で、あんな偏った罵声が飛び交うなどとは思いもせず、あなたが一人で開会式に出席すると言った意図を理解できなかった」大原も頭を下げた。「あなたが一人でブーイングを浴びている姿をテレビで見た時、自分のバカさ加減に怒りを覚えました。あなたに申し訳ないと心から思った。俺たちも鳥取県代表なんです。あなたと一緒に戦う人間なんです。あの開会式には、俺たちも一緒に立ち向かうべきでした」

 「お心遣い、ありがとう」漢咲は更に深く頭を下げた。「お心遣いに感謝しつつ、言わせてもらいます。あなたたちは開会式に出席する必要はなかった。あのような敵意に満ちた声をあなたたちが浴びる必要はなかった。あなたたちは私と一緒に戦ってくれる仲間ですが、だからといって、私と一緒に傷付く必要はない。私にとって、あなたたちの心身が無事であることは、公私宴を勝ち抜くのと同じだけ大事なことなのです。代表者一人が出席すれば済む開会式である以上、あなたたちが出席する必要も理由も皆無だったのです。あなたたちは何も悪くない。だから、頭を上げてください」

 そう言われても、真田、松田、優崎、大原の四人は頭を下げ続け、謝罪の言葉を口にし続けた。

 漢咲も頭を下げたまま、四人に頭を上げるようにと求め続けた。

 「まるで大山町の田植え体験じゃな。みんなで揃って腰を曲げたりしてのぉ」楽境が愉快そうに言った。「儂は開会式に出席せずに済んで助かったと思っとるよ。ブーイングなんかは気にならんが、この炎天下に大勢の人間がいるところで長時間立たされるのは耐えられそうもなかったからのぉ。だから、儂は漢咲君にありがとうと言いたい。漢咲君、開会式を欠席させてくれて、ありがとう」

 楽境も頭を下げた。

 「俺も、あんな式なんかに出ないで済んで助かったと思ってるっす。だから、ありがとうございましたっす、漢咲さん」そう言って、海原も頭を下げた。

 「僕も、あんなくだらない式に出席させられずに済んで感謝しています。おかげで貴重な時間を漫画の制作にあてられましたから。ありがとうございました、漢咲さん」蟹江も頭を下げた。

 八人は頭が低い日本人を地で行っていた。謝罪と感謝がシンクロした八つのお辞儀は、親愛に満ちていて、場の空気を大いに和らげた。その和らいだ空気に誘われて、大城山に生息する動物たちが漢咲たちのそばにやってくる。キツネ、二ホンリス、イノシシ、ツキノワグマ、他にも多数の動物たちがやってきて、絵に描いたように平和な世界が公私宴球場正面ゲート前に出来上がった。

 八人は同時に顔を上げ、揃って、後腐れのない笑みを浮かべた。

 「漢咲さん。一つ提案してもよろしいでしょうか?」笑みを引っ込めて、蟹江が言った。

 「何でしょう?」

 「試合開始までに九人の選手が揃っていなければ、鳥取県代表は不戦敗になってしまいます。そこで、僕はSNSを使って九人目の選手を募ることを提案します」蟹江はスマホを取り出し、アプリを起動し、その画面が皆に見えるようスマホを掲げた。「これは、漢咲さんが鳥取県知事に就任してすぐ開発したソーシャルネットワークサービスアプリ、鳥取県民繋がり合いサービス、です。鳥取県民の90パーセント以上の方が利用しているこのSNSは、マイナンバーや住民票など複数の個人情報がなければアカウントを作れないため匿名のユーザーが存在せず、それによって、誹謗中傷やフェイクニュースなどが一切存在しない世界一優しいSNSとして全世界から称賛されています。このSNSを使って選手を募れば、辰野町やその周辺に滞在している鳥取県民が、鳥取県代表チームに加わるため駆けつけてきてくれるでしょう」

 「SNSを使って公私宴出場者を募る、その考えに、私は不賛成です」

 「あなたは試合開始までに九人の選手が必ず揃うと言っていた。しかし、試合開始まで一時間を切っても、八人しか揃っていない。その現状を踏まえて、SNSを使って選手を募ることは必要な対応だと思われますが」

 「私が不賛成を表明する理由は二つあります。一つは、激しい気の攻防が予想される公私宴の戦いに、半端な気の使い手を出場させるわけにはいかないからです。今、ここにいる皆さんには、公私宴を生き抜くだけの力がある。しかし、これからSNSを使って募る方々が公私宴を生き抜く力を有しているとは限らない。私は、この公私宴で一人の死亡者も出すつもりはない」

 「チームに加える前にきちんと力量を計れば、力不足な人を戦いに駆り出さずに済みます。あなたの今の発言では、SNSで選手を募ることを否定できない」

 「私は四年間、県民の方々から鳥取県知事の任を任せて頂きました。それによって私は、全鳥取県民の気を感知することが可能となりました。鳥取県民が今どこにいて、各々がどれほどの気を有しているのか、私は全て把握できているのです」

 「そんなこと、出来るわけがない」蟹江は冷や汗を拭った。

 「出来ます。知事として研鑽を積んだ者なら誰でも出来ます」漢咲は言い切った。はったりなど微塵もない声だった。「現在、この辰野町および辰野町周辺にいる鳥取県民は、私たちを除いて七人います。そのうちの六人は、公私宴を生き抜けるだけの気を有していない」

 「それなら、その残りの一人をSNSで勧誘してみりゃいいんじゃないっすかね?」海原が言った。

 「その必要はありません。その彼は既に九人目の選手となるべくこの場所へ向かってきていますから。それこそが、私がSNSで出場者を募ることに不賛成な二つ目の理由。既に選手が九人集まることが確定している以上、無理に人員を募る必要はないのです」

 そう言って、漢咲は西を向き、中国地方まで伸びている公私宴道路を見下ろし、皆野の気を更に強く感じた。


 公私宴球場周辺では、長野県警が総力を挙げて四方八方に検問所を敷いていた。大城山の登山道に検問を敷くのはもちろんのこと、獣道にまで検問を敷く徹底ぶりだった。長野県警の任務は、公私宴の関係者以外を公私宴球場に近付けないことであった。

 当然、公私宴球場へ続く公私宴道路にも検問が敷かれている。公私宴道路は、公私宴球場を中心に、東西南北へ四道路が伸びている。その内の一道路、山口県直通公私宴道路では、大城山の麓に位置する場所に検問が敷かれていた。五台のパトカーをバリケードにしているその場所では、計十人の警察官が任務にあたっていた。

 「川上警部補、無線連絡です。大城山の一杯水付近にて、カップルと思わしき若い男女の身柄を確保したとのことです」若い警察官が言った。

 「公私宴が開催されていることも知らない無知なバカップルが、山中で青姦しようって腹だったんだろうよ」川上と呼ばれた初老の警察官が、煙草に火をつけながら言った。「上田よお。開会式が終わってからガラヒキされた人間は、これで何人になるんだったかな?」

 「八人になりました」上田と呼ばれた若い警察官が言った。

 「まだまだ増えるぞ。前回の夏の公私宴じゃ、公私宴初日だけで百人以上もガラヒキしたからな、俺ら」

 「前回の夏の公私宴でガラヒキが続出したのは、前回の夏の公私宴予選における沈没党の不正選挙疑惑に対する抗議デモが公私宴球場付近で起こったことが原因でしたよね。でも、今はもうデモなんて起こせる時代じゃないんですから、ガラヒキはそれほど増えないでしょう」

 2027年の秋に施行された日本国家安全維持法によって、日本でのデモは事実上禁止されていた。日本国家安全維持法は、2020年に中国で施行された中華人民共和国香港特別行政区国家安全維持法を模して作られた法律だった。

 「インテリぶって、状況分析なんぞ垂れてんじゃねえ、上田」川上は吸い始めたばかりの煙草を素手で握りつぶした。気を込めた握力によって、煙草は細かい灰に変わった。「インテリぶりてえんなら、キャリア組に鞍替えしやがれ。現場に頭でっかちは必要ねえ」

 「すみませんでした。以後、口を慎みます」

 上田は不服を隠しつつ頭を下げた。頭を上げ、徐に西を見やる。そうして、接近してくる一台の自転車を見つけた。その自転車をこいでいるのは、皆野だった。

 「はーい! 止まってー! お兄ちゃーん!」上田は人の良さそうな顔を作り、皆野に向かって両手を振りながら言った。「ここから先は関係者以外立ち入り禁止だよー!」

 「俺は関係者だ。道を開けな」自転車を止めて、皆野は言った。

 「うーん。関係者っていうとー、どういった立場の人なのかなー、君はー?」

 「あんたみたいなサツは、好きじゃないね」皆野は自転車を降り、上田にガンを飛ばした。「装った良心的なツラで、間の抜けた話し方をしやがって。それで相手の心中を穏やかにしようと思ってんのなら、逆効果だぜ」

 皆野が言い終わると、上田の顔つきがガラッと変わった。その顔は、とても法の番人とは思えない恐ろしいものだった。

 「その口振り、てめえ、サツ慣れしてやがんな。てめえ、マエがあるんか? こらあ!」上田が言った。小悪党なら一瞬で失禁する声だった。

 「見当外れだ。俺に前科はねえ」一切臆さず、皆野は言った。

 「警察ナめとんのか、ガキ!」上田が皆野のポンパドールの先端に触れる寸前の距離まで移動した。「職質受けるか!? おお!? 徹底的に職質すんぞ! てめえ、こらあ!」

 「職質は拒否できるだろうがよ。脅しになってねえぜ、お巡りさん」

 皆野の余裕に満ちた声を浴び、上田は言葉を詰まらせた。

 「ガキ相手に口喧嘩で負けてんじゃねよ、上田」言いながら、川上は煙草に火をつけた。「よお、口が達者な坊主。おめえさん、さっき自分は関係者だって言ったよな。おめえさんが何者なのか、俺たちに教えてくれねえかい?」

 「俺は十五歳の鳥取県民だ。それだけ言えば充分だろ」

 「まあ、充分になっちまうんだわな」言ってから、川上は煙の輪を吐き出した。「公私宴のガバガバな出場者規程のせいで、充分になっちまうんだわな。今、大城山にいる鳥取県代表チームのメンバーは八人。どんなタイミングでもベンチ入り最大人数の十八人までは自由にメンバーの補充が可能っていう出場者規程によって、おめえさんが選挙権を持つ十三歳以上の鳥取県民だっていうんなら、それだけで、公私宴球場に向かうおめえさんを止められる奴は誰もいなくなっちまうんだ」

 「分かってるじゃねえか」皆野は自転車に跨った。「それじゃあ、通してもらうぜ」

 「焦るなよ、兄ちゃん。おめえさんが十三歳以上の鳥取県民だってことを証明する何か、そいつを提示してくれたなら、すぐにでもここを通してやるからよ」

 皆野の表情が僅かに曇った。それを見逃さなかった川上は、インパラを見つけたヒョウみたいな顔になり、微笑んだ。

 「坊主は中学生かい?」川上が毒を含んだ甘ったるい声で尋ねた。

 「そうだ」皆野は冷静に答えた。

 「中学生なら、学生証があるわな。俺たちは、坊主が鳥取県代表チームに加わる資格を有しているという証明が欲しいんだ。だから、出しな、学生証。出してくれさえずれば、すんなりここを通してやるからよ」

 「俺が、学生証を持ち歩くような真面目な中坊に見えるかい?」

 「見えねえなあ」川上は嬉しそうに言った。「身分を証明できねえっていうんなら、坊主、おめえさんは公私宴球場にゃあ行けねえよ」

 「あんたはさっき、大城山には鳥取県代表チームのメンバーが八人いると言っていたな。その八人のなかに、漢咲大黒柱さんはいるのかい?」

 川上は、「さあ、どうだったかな?」と言おうとしたが、それよりも先に上田が、「いる。大城山に誰がいるのか、長野県警は全て把握しているから分かるのさ」と言った。

 川上は、怒りの余りに、くわえていた煙草を噛み切った。

 「上田ぁ! この野郎! 余計なことを言うんじゃねえ!」

 川上に怒鳴られ、上田はすぐさま、「すみません!」と叫び、頭を下げた。

 「漢咲さんに確認してみてくれ。そうすれば、俺が鳥取県代表に加わる資格を有していることが分かる」

 川上は、噛み切って地面に落とした煙草を拾い、それを携帯灰皿に入れた。その短い時間で冷静さを取り戻した川上は、皆野の目を覗き込むようにして見詰めた。

 「坊主よお。漢咲に確認しろ、っていうのは、漢咲の口頭を以てしておめえさんの身分を認めろ、ってことなのかい?」

 「ああ、そうだ」

 川上は再び微笑んだ。

 「おめえさんは、世の中ってもんを、警察ってやつを、俺って男を、まるで分かっちゃいねえ」呼吸をする感覚で煙草に火をつける男である川上は、煙草に火をつけた。「警察は、俺は、身分証っていうブツがねえ限りは何も認めねえよ。年齢も、住所も、国籍も、性別でさえも、身分証で示されねえ限りは俺は何も認めねえ。漢咲大黒柱がおめえさんのことを十五歳の鳥取県民だと言ったって、アメリカ大統領がおめえさんのことを十五歳の鳥取県民だと言ったって、国際連合事務総長がおめえさんのことを十五歳の鳥取県民だと言ったって、お袋がおめえさんのことを十五歳の鳥取県民だと言ったって、俺は、学生証なり運転免許証なり年金手帳なりパスポートなりマイナンバーカードなりを示されねえ限りは、おめえさんが十五歳の鳥取県民であることを死んでも認めねえ」

 「なるほどね、よく分かったよ」皆野が言った。「良くも悪くも、あんたは典型的な公務員だ」

 「分かってくれてうれしいよ、坊主。分かったんなら、さっさとお家に帰ってママのおっぱいでも吸ってな」

 川上は、警察官の勘を以てして、皆野が鳥取県代表チームに参加する資格を有していることを察知していた。察知した上で、皆野の道を阻み、鳥取県代表チームに参加できないことで少年が感じるであろう苦悶を想像し、悦に入っていた。警察官の権限を行使して一般人をいたぶることが、川上という男にとって至上の喜びなのだった。

 川上は、邪な顔に満面の笑みを浮かべた。

 皆野が再び自転車から降りた。それから、皆野は自前のショルダーバッグを地面に置いた。そうして、ショルダーバッグから、アカマツの切り株を取り出した。それを見て、川上の顔からスッと笑みが消えた。

 「コンパクトで形の良い、キュートな切り株じゃないか」上田がクスクスと笑った。「そんな訳の分からないもんを取り出して、一体全体何をしようっていうんだい?」

 「黙ってろ、上田ぁ」わなわなと震えながら川上が言った。

 「気の年輪。あんたくらいベテランの警察官なら知っているだろう?」皆野が川上に向かって言った。

 「木の年輪なら小学生だって知っているさ!」上田が大笑いしながら言った。

 「黙ってろ! 上田ぁ!」

 川上が全力で怒っていることに気付いて、上田はすぐに笑うのを止めた。

 「まずは、俺が十五歳であることを証明する。この切り株を、あんたの言うブツにしてな」

 「イかれてんのか?」上田が嘲るように言った。「イかれてんのか?」

 「上田・・・・・・俺にもう一度、黙ってろ、と言わせてみろ。そん時は、お前のちんぽこ引き千切んぞ」

 脅しではないと悟り、上田は腰を抜かし、尻餅をついた。

 「気の年輪。二十世紀には警察も採用していた年齢証明の一種だ」皆野が言った。

 「最近の若い警察官だって知らねえようなもんをよく知ってるじゃねえか、坊主」川上は冷や汗を拭った。「確かに、援助交際が流行った二十世紀の世紀末なんかでは大活躍したぜ、その気の年輪はさ。俺もそいつのおかげで何人ものロリコンを豚箱に放り込めたよ」

 「それなら、気の年輪の数え方は分かるよな?」

 「昔取った杵柄は早々忘れるもんじゃねえ」

 川上の声を聞いてから、皆野は切り株を地面に置き、そのまま切り株の断面に右手の平を置いた。そうして、右手に気を込める。すると、切り株の断面に光の円が現れた。光の円は、外側にどんどん数を増やしていき、最終的には十五個までその数を増やした。皆野が右手を放しても、光の円は切り株の断面で輝き続けた。

 「俺の年齢を読み上げろ」皆野が言った。

 川上は切り株のそばに座り、光の円の数を数え、それから、誰も聞き取れないような小さな声を出した。

 「もっと大きな声で読み上げろ!」皆野が怒鳴った。

 「十五歳と二十四日だ、チクショウめ!」

 川上のくわえている煙草が一気に燃え上がった。心中の怒りの炎が煙草に引火したのだ。煙草はあっという間に灰になり、山の頂上へと吹き上がっていく風に乗り、空を舞った。

 「坊主! 俺たち警察が一番嫌いなことを教えてやるぜ! それはな、一度決着となった物事をぶり返されることだ!」川上は被っていた制帽を地面に投げ付けた。「おめえは身分を証明できねえから公私宴球場には行けねえ、それで一件落着したのに、おめえときたら気の年輪なんてかび臭いもんを後出ししやがった! こいつは、警察をナめるなんて生易しい所業じゃねえ! 警察に全面戦争を吹っ掛けるが如き所業だ、こいつは! 坊主! 覚悟はできてるんだろうな!? おめえ、この上で自分が鳥取県民だと証明できなかったなら、俺たち警察に食って掛かった罪でしょっ引いてやるからな!」 

 怒り狂う川上とは対照的に、皆野は果てしなく冷静だった。

 「制帽が風に飛ばされちまうぜ。ほら、早く拾いなよ。くるりんぱ、で拾いなよ」皆野は川上の制帽を指差した。

 「おめえ、また随分と懐かしいネタを持ち出しやがって」川上は制帽を拾い、それを被り直した。くるりんぱ、はしなかった。「本当に十五歳かよ、おめえは」

 場がほんの僅か、和んだ。しかし、それで手心を加えてやろうという気になるほど川上はヤワな警察官ではなかった。

 「どうやって証明するんだ、ええ? どうやって証明するんだい、おめえが鳥取県民だってことをよお!?」

 皆野は再びショルダーバッグから物を取り出した。皆野が取り出したのは、パックに詰められた市販の豆腐だった。

 「小腹がすいたら食べようと思って、この近くのスーパーで買った物だ」皆野は言った。

 「随分とヘルシー志向だな。豆腐じゃ小腹も膨れねえだろうに。それで、豆腐なんか持ちだして、おめえ、一体全体何をしようって言うんだい?」

 「この豆腐を、とうふちくわに変える」皆野は言った。「それが、俺が鳥取県民である証明だ」

 「ふざけたことを言うな!」尻餅をついたままの上田が叫んだ。「そんなことが鳥取県民である証明になるわけないだろう! 寝ぼけてんのか!? そもそも、とうふちくわ、ってなんだ!? いちごとうふの親戚か何かか!?」

 「普段インテリぶってるくせに、ものを知らねえ男だぜ、おめえはよお」川上が上田を睨んだ。「とうふちくわ、っていやあ、鳥取県民のソウルフードだ。俺たち長野県民にとっての、おたぐり、みてえなもんだ」

 「そうだとして、とうふちくわっていうのが鳥取県民のソウルフードだとして、それが鳥取県民の証明とどう関係があるっていうんですか!?」上田が叫んだ。

 「おたぐりが俺たち長野県民にしか作れないのと同じで、とうふちくわもまた、鳥取県民にしか作れねえ!」川上が叫んだ。「こいつがとうふちくわを作った時点で、こいつが鳥取県民だということは証明される! この真実は、神様仏様であったとしても覆せねえ!」

 「学生証やパスポートなんかはいくらでも偽造できる」皆野が言った。「しかし、とうふちくわを作る技術だけは偽造できない。とうふちくわを作る技術は、純度100パーセントの身分証明だ」

 「なんてこった」上田は冷や汗を流した。

 皆野はパックから豆腐を取り出し、その豆腐一丁を手の平に載せた。

 「墓穴を掘ってるぜ、坊主」川上は意地の悪い目を皆野に向け、ニヤリと笑った。「とうふちくわの製造方法は鳥取県民の秘密である以上、俺の知るところではない。それでも、持ちうる料理の知識を最大限に駆使して製造方法を推測することは出来る。ちくわを作るには、食材を焼くための火が必要だ。しかし、あいにく、ここはキッチンじゃねえ。今俺たちがいるこの場所は、カセットコンロすらない道路だ。この環境では、どうあがいたってとうふちくわは作れねえはずだ。とうふちくわを作る技術を有していても、実際に作れないんじゃ、鳥取県民だと証明することはできねえ」

 「調理器具も何も必要ない。豆腐一丁あれば全て事足りる」

 「はったりだ」

 「はったりじゃねえさ」

 言うが早いか、皆野は豆腐に気を込めた。すると、豆腐がひとりでに蠢き出した。豆腐は、角張ったり丸まったりを繰り返しながら次第に筒状になっていき、やがて、ちくわの体を成し、動きを止めた。

 「なんだとぉ!?」川上は驚愕し、叫んだ。「何が起きた!? まるで上質な手品みてえに、豆腐がとうふちくわに変わっちまった!」

 「鳥取県民の気に反応して、豆腐はとうふちくわに変わるのさ」皆野が言った。「これで証明は済んだ。あんたらの脳みそに刻んどけ。俺は十五歳の鳥取県民だ、ってな」

 「まだだ! まだ終わってない!」川上が苦し紛れの声をあげた。「まだ、おめえさんの持ってるそれが、とうふちくわと決まったわけじゃない!」

 「これがとうふちくわじゃねえっていうんなら、何だっていうんだい?」

 「ちくわ状の豆腐だ、それは! 形だけだ、そんなもんは! 本物のとうふちくわじゃねえ!」

 「そうかい。あんたの言いたいことは分かった」皆野はとうふちくわを川上に差し出した。「食ってみな。それで形だけかどうかが分かる」

 「食ってやるぜ。とうふがちくわになる訳がねえんだ。食って、こいつが唯の豆腐だってことを証明してやる」

 川上は勇ましい素振りでとうふちくわを受け取り、それを頬張った。

 「ちくわの食感だ!」秒で、川上は叫んだ。「豆腐の虚無な食感じゃねえ! こいつは、ちくわの、ラテックスマットレスみてえな弾力の、生きた食感だ!」

 「味はどうなんです!?」上田が叫んだ。「食感だけでなく、味もちゃんと伝えてくださいよ!」

 「ノーマルなちくわにありがちな魚の臭みが、豆腐の清潔感に中和されている! それでいて、魚の命の恵みが実感できる! 自己主張がない、エゴがない、謙虚な豆腐だからこそ、魚の良さを殺していない! 言うなれば、鰓呼吸を卒業して陸上で生活を始めた魚が丹精込めて育て上げた大豆を使って作った豆腐! そういうハートフルな味わいが、このとうふちくわにはある! 美味い! これは、美味い! 美味いと断言できる! そうして、こいつは紛れもなく本物のとうふちくわだとも断言できる!」

 「もう一つ、断言してもらうぜ」皆野が言った。「何を断言しろと言ってるかは分かるよな?」 

 「おめえは鳥取県民だ!」とうふちくわを完食して、川上は叫んだ。「断言できる! おめえは鳥取県民だ!」

 叫んでから、川上は皆野に背を向け、ふらふらとした足取りでパトカーに歩み寄った。

 「大丈夫ですか、川上警部補?」上田が心配そうに尋ねた。

 「問題ねえ。炎天下に若いのとやり合って疲れちまっただけだ。歳はとりたくねえよな、全くよぉ。悪いが、ちいとばかし、冷房の効いたPCで休ませてもらうぜ」そう言ってから、川上は振り返り、ショルダーバッグを肩にかけて自転車に跨ろうとしている皆野を見やり、優しい声を出した。「坊主。美味いもん食わしてくれて、ありがとな。もう二度とおめえさんのツラは見たくねえから、この長野で警察の厄介になるようなことはしてくれるなよ」

 川上は、パトカーに乗り込み、そうして、煙草に火をつけた。

 皆野は自転車をこぎ出し、パトカーのバリケードの隙間を通り、公私宴球場目指して坂道を上っていった。

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