公私宴 ブラッシュアップ不足バージョン

第2話 開会式前夜 ブラッシュアップ不足バージョン

　七月三十日午後十時八分。日本の地理的中心ゼロポイントを有する、長野県上伊那郡辰野町。その町の中部に位置する穴倉山、その山中にあるホテルの談話室に、七人の鳥取県民が集っていた。

　「公私宴出場者でこんな安ホテルに泊まってる奴らなんて、俺たちぐれえのもんだろうよ」倉吉市でおもちゃ屋を営んでいる真田哲夫が言った。中年太りが目立ち始めた強面の四十九歳だ。「しかも、自腹きって泊ってるんだ。このちんけな缶ビールだって自腹さ。コンパニオンを呼ぶ金もねえ。明日から命がけで戦うことになるっつうにの、これでどうやって英気を養えってえんだ？」

　「明日の対戦相手、高知県代表の連中は全員、下劣杉男の金で一流ホテルのスイートルームに泊ってるみたいっすね。下劣杉男本人がそうツイートしてる」琴浦漁業円滑遂行連合組合所属の漁師、海原清がスマホをいじりながら言った。真っ黒に日焼けした細マッチョの二十四歳だ。

　「マジかよ！？」

　真田はスマホを取り出し、ツイッターを起動した。

　「どこにもそんなツイートねえぞ？」スマホを操作しながら、真田は言った。

　「本人が削除したんでしょう」水木しげる大学三年生、蟹江久遠が文庫本に栞をはさみながら言った。眼鏡がおしゃれな長身で細身の青年だ。「公私宴出場者に対して、政治家は金品を与えることを禁止されています。公私宴法第199条ですね。沈没党の衆議院議員である下劣杉男さんのお金で選手が宿泊していることが公私宴運営委員会に知れたら、下劣さんも下劣さんのお金で宿泊した選手も公私宴出場権を失います」

　「本人ではなくてインターネット管理庁がツイートを削除したのかもな」米子市に店舗を構える豪傑ラーメン、その店の従業員である松田ガネッシュが飲み終えたコーヒーのカップをテーブルに置きながら言った。小柄だがハンサムな二十三歳だ。「沈没党議員のケツをふくときだけは光の速さで動くからな、今の省庁は」

　「キヨちゃん。下劣杉男のバカツイートをスクショしたか？」

　「してねえっす」

　「そりゃないぜ、キヨちゃん。スクショしてりゃあ、そいつを証拠に連中の公私宴法違反を暴けたじゃねえか。そうすりゃあ、明日の一回戦、俺たちの不戦勝だったのによお」

　「胡麻擂利男財務大臣の甥っ子である下劣杉男は、沈没党全体に守られておる」北栄町でらっきょう農家として生計を立てている楽境大吉が鼻毛を抜きながら言った。腰は曲がっているが元気な八十歳だ。「公私宴運営委員会は出場者の出場権を失効させる権限は持っているが、公私宴法違反の捜査を独自に行う権限は持ち合わせていない。公私宴法違反の捜査は、国滅鬼畜丸に飼いならされた検察が行うことになる。そういうことじゃから、下劣杉男や沈没党のチームとして出場する高知県代表の面々から公私宴出場権を取り上げるのは不可能じゃ」

　「下劣さんは二年前に強姦の容疑で起訴されていますね」地方公務員として三朝町役場に勤める優崎実がソファに座り直しながら言った。お釈迦様のような優しい顔をした四十二歳だ。「強姦の証拠映像があったにもかかわらず、裁判が始まると検察は急に起訴を取り消した」

　「腐ってるな」

　そう言って、松田は席を立ち、窓から外を見詰めた。穴倉山に建つホテルの二階からは、辰野町の夜景が一望できた。清らかな少女が丹精込めて作り上げた箱庭のように、美しく愛らしい夜景だった。その美しい景観を損ねているのは、大城山の山中にある巨大な建造物、公私宴球場だ。公私宴球場は、強い照明の光を放ちながらその存在を誇示していた。

　公私宴球場は1940年代の旧ヤンキー・スタジアムを模して1946年に建造された。外観やフィールドの広さなど、球場の造りは1946年の完成から一度も変化しておらず、公私宴球場はまるで戦後間もない時代からタイムスリップしてきたかのような佇まいであった。公私宴球場の工期は、衆議院議員選挙法改正法案が可決成立した1945年十二月十五日から翌年七月三十日までの七か月半。着工前の予定では、1946年三月十一日に予定されていた第一回公私宴開会式までに建設を終えるつもりであったが、そんな短期間での建設など土台むりな話であり、完成は大きくずれ込んだのであった。それにより、図らずとも、衆議院議員選挙は夏の公私宴と呼ばれるようになったのである。落成から八十年以上の長い歴史の中で何度も行われた修繕工事は、素人のパッチワークのような歪さを公私宴球場全体に与えている。それでも、醸し出される伝統の味わいによって、公私宴球場の威厳は保たれていた。

　夏の公私宴が開催されない年には、阪神タイガースが夏の甲子園開催中に公私宴球場を使用する。そのため、公私宴球場は野球ファンの馴染みの球場である。また、公私宴ライブといえば、ミュージシャンやアイドルにとって武道館ライブに並ぶビッグモーメントであるために、野球ファン以外にも公私宴球場は広く親しまれていた。

　政治への関心が希薄な多くの日本人は、愛玩動物を慈しむのに似た感情で公私宴球場を愛していた。その愛情は、公私宴球場の重要さを失念しているのと同義だった。公私宴球場に集まる政治家の高潔な信念と醜悪な野心を失念しているのと同義だった。公私宴球場は愛玩動物ではなく、猛獣だった。

　「高知県代表は下劣杉男の金で高級ホテルのスイートだ。俺たちは自腹でビジネスホテルとどっこいどっこいだ。公私宴法をバカ真面目に順守しちまって、愚直だね、俺たちの大将漢咲さんは」真田が言った。

　「その愚直さが、今の政治に決定的に欠けているものだと私は思います」優崎が言った。「私は、我々や国民に対してしっかりとけじめをつけてくれている漢咲さんを支持します」

　「愚直じゃ勝負には勝てねえっすよ。勝負に勝ちたきゃ何でもするのがセオリーなんすよ。生きるために泳ぐのがマグロの常、金のために動くのが人の常、ってね。金をばらまけば選手の士気が上がるんだから、ばらまきゃいいんすよ」

　「そうだ！　よく言った、キヨちゃん！　かっこつけてねえで、漢咲さんは金を使うべきなんだよ。そうすりゃ、今みてえに選手が九人集まらないなんて情けない状態にも陥らずに済むんだ」

　「サンマは光に集まる、人は金に集まる、っすね」

　「金をもらえれば何だってやるって奴等が幾らでもいるんだ。そういう奴らを金でチームに加えちまえばちまえばいいんだよ。よし、俺、今から漢咲さんに電話して、金で選手を雇うように進言してみるぜ」

　「よしなさい、真田君」楽境が言った。「法を順守しない者は、唯の獣じゃ。獣が国を動かせば、国の倫理は失われる。それは国滅鬼畜丸政権の八年間で嫌というほど証明されておる。再び人が国を動かすためにも、漢咲君は法を順守しなければならない。例えそれで多くの困難を抱えることになろうとも、獣に落ちることなく、人として戦い抜かなければならない」

　「奇麗事だぜ、そんなもん」

　そう言いつつも、真田が漢咲に電話を掛けることはなかった。真田はスマホをテーブルの上に置き、四本目の缶ビールに手を伸ばした。そうして、沈黙が広がった。

　「そういえば、大原君。君が昨晩会って勧誘した、警察学校の同期で今は鳥取県警察本部に勤務しているという方、明日の試合開始までに考えを変えてくれる可能性はどれくらいあるでしょうか？」沈黙に耐えかねた優崎が、自分の隣に座っている大原に尋ねた。

　「彼自身は沈没党を嫌悪していますが、沈没党以外の政党を支持すれば職場で孤立することになりますから、考えを変えて俺たちのチームに加わってくれる可能性は極めて低いと思います」大原が寂しげな声で答えた。

　「そうか・・・・・・そうだね。職場で孤立するっていうのは、想像するだけで恐ろしいからね」そう言って、優崎は小さく震えた。「私も、明日の試合に出場したならば、職場で孤立することになるでしょうね」

　「公務員の多くは沈没党の言いなりだからな」

　「真田君よお。そんな偏見を口にするもんじゃあないよ。公務員で沈没党に異を唱えている人はたくさんおる」

　真田は鼻を鳴らし、それから、四本目の缶ビールを空にした。それだけ飲んでも、全く酔えなかった。明日の試合への恐怖から、酔えなかった。

　「役場や警察署なんかで沈没党支持の同調圧力が蔓延しているっていうのは、恐ろしいな」松田が言った。

　「国滅鬼畜丸政権の八年間で、公務員の給与は二倍になっています。沈没党が与党でなくなったら自分たちの給料が大幅に下げられると分かり切っているのだから、沈没党支持の同調圧力が蔓延するのも無理はありません」蟹江が言った。

　「国滅の手による国公準拠徹底法施行からの国会議員の給与爆上げ、その副産物で増えただけの給与だろうによお、地方公務員の給与なんてよお」言いながら、真田は五本目の缶ビールに手を伸ばした。

　「明日は大事な試合の日です」真田の伸ばした手を制止して大原は言った。「あまり飲み過ぎないほうがいい」

　「心配ねえよ、大原ちゃん。俺は十五のころから一度も、悪酔いも二日酔いもしたことねえんだ」

　真田は大原の制止を振り払い、缶ビールを手に取った。それと同時に、七人全員のスマホに着信が入った。全て漢咲からのLINEだった。海原と蟹江と優崎と大原は、すぐにスマホをチェックした。

　「漢咲さんからっす。今夜はここに戻らないって書いてあるっす」

　「一人だけ高級ホテルに泊まるのかもな」真田が言った。

　「あの人はそんな人じゃない」

　そう言って、松田は談話室から出ていこうとした。

　「松ちゃん、どこに行くんだ？　夜はこれからだぜ」

　「自分の部屋に戻るんですよ。明日の試合のために、しっかりと睡眠を取っておきたいので」

　「俺ももう寝るっす」海原は大きなあくびをした。「漁師は朝も夜も早いんで」

　「僕も部屋に戻ります。原稿を進めたいんで」

　「蟹江君、何を描いているの？」松田が尋ねた。

　「漫画です」

　「漫画が描けるなんてすげえっすね。完成したら俺にも見せてよ」

　「ちょっと待て！　若者たちよ！　おじさんを置いていくな！　一緒に飲もう！　ちょっとだけでいいから、一緒に飲もう！」談話室から出て行こうとする三人の若者に向かって、真田が叫んだ。「おじさんっていう生き物は、寂しいと死んでしまう兎みたいな生き物なんだ！　君たちのような若者とお話しすることに飢えているんだよ、おじさんは！　後生だから、付き合ってくれ！」

　真田の叫びを、若者三人は無視した。中年に対する情けなど、彼らは持ち合わせていなかった。若者三人は談話室を去った。

　「あいつらには年上を敬う心ってもんがねえのか」真田はぼやいた。ぼやいてすぐに、大原を見やる。「大原ちゃん。若者代表として、付き合ってくれ！」

　「俺は若者じゃないですよ」言いながら、大原は素早く席を立った。

　「二十九歳が若者じゃなかったら、俺なんかもう爺さんだぜ。ほれ、くだらない謙遜なんかしてねえで、座って飲みねえ！」

　「お付き合いしたいのは山々なんですが、俺も明日のために早く休みたいので、今日のところは勘弁してください。また、後日飲みましょう」

　颯爽とした身のこなしで、大原は談話室から去っていった。

　「最近の若い奴らは駄目だ、なんて言葉は使いたくねえと思って生きてきた。そんな言葉を使っちまったら、肉体だけでなく精神までおっさんになっちまう気がして。だから、最近の若い奴らは駄目だ、って言葉だけは封印して生きてきた」真田は悔しさで全身を震わせながらつぶやいた。「でも、辛抱たまらないから、封印を解くぜ・・・・・・最近の若い奴らは！　いけん！」

　真田はテーブルに突っ伏して、泣いた。酒には酔っていなかったが、自分の侘しさには酔っていた。

　「おっさんほど惨めな生き物は他にいねえ！」真田は涙声で言った。「おっさんてやつはよお、三分に一回SNSを更新するような奴よりもかまってちゃんな訳なのによお、誰も相手にしてくれやしねえんだ！　フォロー中は際限なく増えていきながらもフォロワーは一向に増えねえような状況が、リアルで延々に続くっていうのが、おっさんの置かれている立場なんだ！　おっさんになるまで一生懸命生きてきて、なんだって虐げられなきゃならねえんだよお！　酒の相手くらいしてくれたっていいじゃあねえか、若者たちよ！」

　真田は気が済むまで泣いてから、顔を上げた。

　「しょうがねえ、爺さん相手の酒で我慢するか。おい、大吉の爺さん！　飲もう、飲もう！」

　真田は談話室を見渡したが、もう楽境の姿は談話室のどこにもなかった。

　「徘徊に出る老人みてえに、音もなくいなくなるな、あの爺さん」

　そう言ってから、真田は優崎を見詰めた。優崎は目を逸らした。優崎は、真田が突っ伏しているあいだに逃げなかった自分自身を憎んだ。

　「実ちゃん」親愛を込めた声で真田は言った。「飲もう。今夜は二人で語らおう。明日生き残れる保証なんてねえんだ。今夜が人生最後の夜かもしれねえんだ。最後の晩餐ならぬ最後の晩酌、ってな感じで、酒を酌み交わそう」

　「でも、明日、朝が早いですよ」

　「開会式には各チームから一人でも出席すればいいんだろ。漢咲さんが出席するって言ってたんだから、俺たちは午後二時からの試合までに公私宴球場入りすればいいのさ」真田は優崎の隣に座った。「国道153号を横断する公私宴道路を使えば、ここから公私宴球場まで車で三十分かからねえんだ。俺たちは昼頃まで寝てたって問題ねえのさ。さあ、そうと分かったら、飲もう！　飲み明かそう！」

　「じゃあ、一本だけ頂きます」

　NOと言えない日本人を地で行く優崎は、一本では済まないと分かっていながらも、缶ビールを手に取った。優崎は生粋の甘党で、酒の味は好みではない。酒にめっぽう強いため、酔いを楽しむこともできない。そんな優崎のような人間ほど酒飲みの餌食になってしまう摂理は、バッコスの信女と並ぶ悲劇だった。

　辰野町から約百キロメートル離れた場所、青木ヶ原樹海。闇夜さえも飲み込む暗黒に満ちた魔境、その奥深くに、漢咲はいた。

　「この場所で、対語先生に政治と気の何たるかを学ばせて頂いたのは、もう三十年以上も前のことなのか」漢咲が眼前の巨大な建造物を見詰めながら言った。「私も歳を取るわけだ」

　漢咲が見詰める建造物は、上等なヒノキをふんだんに使って造られた寺院だった。1948年、日本国憲法施行一周年を祝して、当時の内閣総理大臣、仁義大徳が自ら土木作業を買って出て建設したのがこの寺院、気政寺院である。ちなみに、建設費は全額、仁義の自己負担である。

　気と政治の修練の場として、党派の垣根を越えて開かれていた気政寺院は、二十一世紀になってから次第に人の足が遠のき、今では政界にも正確な場所を記憶している人間はごく僅かと言った有様の、忘れられた場所だった。密会するには打って付けの場所である。

　「待たせてしまってすまない、漢咲」

　暗がりから現れた男が、漢咲に近付きながら言った。男は、ジャニーズ事務所もびっくりな美貌の持ち主だった。

　「美政。久しいな」

　漢咲はそう言って、暗がりから現れた男、美政に握手を求めた。美政はそれに応じた。

　「老けたな、漢咲」握手を続けたまま、美政は言った。

　「君は変わらないな、美政。二十代のころのままだ」

　「私も老けたさ。この前、おでこに小さなしわを一つ見つけたしね」

　「嫌味にしか聞こえんよ」

　二人は微笑んだ。六十代の男同士が旧友に会った際に見せる、哀愁ただよう微笑みだった。

　「再開の余韻に浸りたいところだが、そうもいかない。私とお前が会っていることが国滅鬼畜丸に知れたら、私は西東京代表チームのキャプテンの座を追われることになる。手短に、用を済まさせてもらうぞ」

　美政は握手している自身の手に気を込めた。その強力な気の発生は、青木ヶ原樹海全体を震わせた。極太の木々が激しく震えている。地上にはって伸びた木の根さえもがウェーブするほどに震えている。青木ヶ原樹海に生息する多様な動物たちも震える。

　美政の気の強さに耐えかねて、漢咲は片膝をついた。漢咲の頬を一筋の汗が伝った。

　「紀元前九世紀、アッシリアの王とバビロニアの王が同盟の証として人類初の握手を行った。どちらが優位であるのかを相手に知らしめるために、二人の王は己の手に気を込め、相手と気比べをしたのだ。以降、握手は自分と相手の力量差を計るためのものとして広く人類に浸透していった」美政は片手で自身の美しい長髪をなでた。「この程度で片膝をついてしまうとは、肉体だけでなく気までも衰えたようだな、漢咲」

　美政の声を頭頂部に浴びながらも、漢咲は微笑んだ。

　「年を取ってなお美しくなり、強くなる。美政、君のその在り方は超高齢社会である日本の希望ともいえる尊いものだ」漢咲はゆっくりと立ち上がった。「私も負けてられん！」

　漢咲も自身の手に気を込めた。その超強力な気の発生は、青木ヶ原樹海全体を震わせるだけにはとどまらず、富士山までをも震わせた。活火山が激しく震えるそのさまは、肝が冷え切る恐ろしい光景だった。

　美政は両膝をついた。噴き出した大量の汗が、きめ細かい絹のような肌を濡らした。

　「ギブだ、漢咲。ギブだ」喘ぎ声で美政は言った。その喘ぎさえもが美しかった。

　漢咲が美政の手を放した。そうして、自身の手に込めていた気を消した。美政も気を消した。周囲の震えが止んだ。

　「芯まで震えたよ」美政は立ち上がり、漢咲の目を真っすぐに見詰めた。「漢咲大黒柱健在、それを痛感できた。リスクを冒してまでお前との密会を果たした価値があったよ。確信を得られたのだから・・・・・・漢咲、次の総理大臣になるべき男は、お前だ」

　「美政」漢咲は美政の肩にそっと手を置いた。「国滅鬼畜丸政権が始まってからの八年間、君が鬼畜丸さんの支配を終わらせるために寝る間も惜しんで動き続けてきたことを、私は知っている。西東京代表チームのキャプテンを任されるほどの信頼を鬼畜丸さんから勝ち取りながら、鬼畜丸さんを総理の座から引きずり下ろすために暗躍し続けることは、水の中で火を起こすが如き難事であったろう。君のそのすばらしい努力と忍耐と英知は、最大級の称賛に値する」

　「称賛など、止してくれ。私は、鬼畜丸に壊されていく日本を見ていることしか出来なかった、恥ずべき政治家だ」

　「恥を知る者は恥ずべき者ではない」

　「私に優しくするな、漢咲。私に必要なのは許しではなく、贖いなのだ。腐敗した沈没党を与党の座から引きずり下ろし、真に国民のための政治をこの国に取り戻す。そのために全てを懸けて戦うことこそが、沈没党の議員として国民に償える唯一、私の唯一なのだ」

　その美しい声は質量を伴って舞い上がり、暗黒を生み出す木々の葉を揺り動かした。そうして覗いた星空が、清らかな光を差して、漢咲と美政を照らした。

　「国民のために全てを懸ける。その政治家の本懐に尽くすのだな、美政」

　「ああ、そうだ、漢咲。準決勝で、西東京代表は東東京代表と対戦する。その試合に、私たち西東京代表は必ず勝利する。そうして、決勝でお前の鳥取県代表と対戦することとなった暁には、西東京代表は決勝戦を放棄する。結果、政権交代は成り、漢咲大黒柱総理大臣の誕生だ」

　漢咲は美政に向かって深々と頭を下げた。

　「すぐに頭を下げるのはお前の悪い癖だ、漢咲・・・・・・さあ、もう顔を上げてくれ」

　漢咲は頭を上げ、それから、気政寺院を見やった。

　「かつてこの場所で、対語先生は仰った。政治は政治家のものではなく国民のものである、と」漢咲は美政を見詰めた。「その理念を忘れずに、私は総理大臣として国民に尽くすことを、君に約束する」

　「変わらないな、漢咲。お前のほうが私なんかよりもよっぽど、二十代のころのままだ」

　美政は気政寺院に体の正面を向け、会釈した。

　風が吹いた。木々の合間を何度も何度もすり抜けてきた傷だらけの風だった。その風は美政の髪を穏やかになびかせた。

　「私は沈没党の決起集会を抜け出してやってきた。もう戻らねばならない。さらばだ、漢咲」

　その声が響いてすぐ、美声の姿は青木ヶ原樹海の闇に溶け込み、消え去った。

　美政の姿が見えなくなってから、漢咲は気政寺院の表口の扉を開けて、玄関で靴を脱ぎ、玄関からすぐの板の間に上がった。その板の間は、五百平米の広さを有していた。

　漢咲は板の間の中央で正座をした。そうして、気を練る。発せられた、穏やかながらも力強い気が板の間を漂い、雲海のようになって、漢咲の姿を隠した。

　開始まで二十四時間を切った夏の公私宴一回戦第一試合を見据えて、漢咲は夜通し気を練るのだった。