公私宴 ブラッシュアップ不足バージョン

はんすけ

第1話 日本の未来が決する夏 ブラッシュアップ不足バージョン

 夏の、広島県広島市。繁華街の熱が道行く人々の肌を濡らす。汗と酒と煙草のにおいが混じった深夜。喧嘩の火種が無数に転がっているその空間に、皆野未来はいた。

 皆野未来、鳥取市立因幡中学校在学の十五歳。身長、百八十センチメートル。体重、七十八キログラム。一見したところでは、彼を十五歳と判別できる人間は皆無。しかし、その漆黒の瞳を覗き込んだならば、彼がまだ汚れ切っていない少年なのだと理解することができる。名は体を表す、それを地で行くように、若い彼は未来そのものだった。

 スカジャン、ジーパン、スニーカーといった具合に、皆野の服装は至ってノーマルで、街に充分溶け込めるスタイルだった。そうだというのに、彼の存在は際立ち、周囲の注目を集めてしまっている。なぜか? その答えは彼の髪型にある。昭和と平成の遺物ともいうべき、前方に突き出したポンパドール、それが彼を悪目立ちさせてしまっているのだ。喧嘩の火種だらけの空間で、彼のポンパドールは正に剥き出しの導火線であり、着火は必至。案の定、広島駅周辺を闊歩していた皆野は、二人の男に呼び止められたのだった。

 「ちょっといいかい、兄ちゃん」不自然に背筋が真っ直ぐな男が言った。

 「ちょっと歩こうな、兄ちゃん」ポケットに両手を突っ込んでいる男が言った。

 微塵も動じず、抗わず、皆野は促されるまま歩いた。

 不自然に背筋が真っ直ぐな男の体格は皆野と同等、そして、ポケットに両手を突っ込んでいる男は皆野より一回りも大きかった。

 皆野たちがやって来た場所は、薄汚い路地だった。酔っ払いが一人、壁に寄りかかっている。ポケットに両手を突っ込んでいる男は躊躇なく酔っ払いを蹴飛ばした。酔っ払いは、「すんません!」を連呼しながら路地を出ていった。そうして、路地にいるのは三人だけになった。

 「俺とタイマンな、兄ちゃん」不自然に背筋が真っ直ぐな男が言った。

 「待てよ、安藤。最初にこいつに目を付けたの、俺だぜ。俺がタイマン張るっつうのが道理だろ?」ポケットに両手を突っ込んでいる男が言った。

 「ふざけんじゃないよ、小山。お前さんにはこの前、縮景高校の裏番とのタイマンを譲ってやったろうがよ。順番的に、こいつは俺だろうがよお」

 小山は、やれやれ、といった具合に首を横に振り、「そいつ、一分以内に半殺しに出来なかったら、揚げもみじ、お前のおごりな」と言った。

 安藤は不敵な笑みを浮かべ、唇をぺろりと舐めた。それから、背中に忍ばせていた金属バットを抜き取った。その様を見た小山は、冷や汗を流した。

 「ドトール、スタバとはしごして、後は広島駅周辺をぶらぶらする、唯それだけを目的として、俺たちは集まったはずだ。喧嘩など当初の目的には一切なかった。平和的に時間を過ごす予定で集まったはずなのに、この安藤っていう俺のマブダチは、金属バットをズボンに突き刺してやって来たっていうのかよ。そうして、バットを隠し持ったまま、キャラメルマキアートなんかをすすってたっていうのかよ・・・・・・正気じゃねえ」

 小山が全身から醸し出す畏怖の念、それを感じ取り、安藤は恍惚の表情を浮かべた。ヒト科には稀に、他人から恐れられることで性的快感を得る個体が存在する。正気じゃない、イカレている、などと形容されることを愛して止まない個体が存在する。安藤は正しくそれだった。

 「まじで、やばいね、あいつは。俺は中学からの長い付き合いだけど、未だにあいつのサガにはぶるっちまうよ」小山は更に言葉で安藤を愛撫する。「絶対に敵には回したくねえ。ガチでイカレてっから、あいつ。ガチもんの切れたナイフだぜ、あいつ」

 切れたナイフ。お笑い芸人の出川哲郎氏に使い込まれてすり減り切っているそのワードを、安藤は甘美な称賛として享受した。快感が絶頂に達して、安藤は喘いだ。狂気が極まった。 

 安藤は狂った眼で皆野を睨み、それから、前方へ素早く跳躍し、皆野との距離を縮めた。バットが届く間合いに入ったのだ。その安藤の動きに対して、皆野は微動だにしなかった。狂気の権化ともいえる安藤を目前にして、臆するところが一切ない。肝が据わっている。安藤は手の平から出血するほど強くバットのグリップを握りしめ、極端に大きくテイクバックをした。それは、骨を粉砕する気持ちでバットを振るぞ、という意思の表れだった。その意思を、皆野は読み取った。読み取ってなお、皆野は避けようとする素振りすら見せない。まるで、プロレスだ。避ける、という概念が存在しない。受ける、という概念しか存在しない。

 「脳みそぶちまけろや!」

 そう叫びつつも、安藤は頭部を狙わず、皆野の左肩を狙ってバットを振った。喧嘩慣れしている人間は、バットで人間の頭部を狙ったりしない。バットで頭部を殴ったならば、それはもう喧嘩ではなく事件であると、喧嘩慣れしている人間は知っているからだ。不良の領分から警察の領分になると、知っているからだ。百戦錬磨の猛者が百戦を消化できるのは、警察の世話にならないからだ。一戦ごとにくさい飯を食していたら、喧嘩に慣れることなど出来ない。安藤は真に喧嘩慣れしている人間だった。

 バットは安藤の狙い通りの部位に当たった。筋肉と金属が正面衝突する鈍い音が路地に轟いた。安藤は下品な笑い声を上げながら、何度も何度も皆野の左肩をバットで打った。その内、バットを振っても鈍い音が轟かなくなった。安藤は、変だな、と思いつつもバットを振り続けた。

 「そういえば、バットが筋肉を打つ手応えも無くなっている」そう言ってから、安藤は皆野を注視した。「この野郎は一ミリメートルも動いちゃいない。俺との距離は離れちゃいないんだ。なのに、どうして、振ったバットに何の手応えも感じなくなった?」

 「安藤! バット!」小山が叫んだ。「バットを見ろ!」

 安藤はバットを見やった。そうして、驚愕した。バットの、芯の根元の部分から先が、無い!? 安藤は路地の暗がりに目を向けた。そこには、真っ二つになったバットの片割れが転がっていた。

 「何した!? おめえ!?」安藤は叫んだ。「金属切断機にでもかけたんか!?」

 「おめえさんの柔なバットが勝手にひしゃげて折れたのさ」

 そう言ってすぐ、皆野は安藤の腹部に強烈な左のブローをお見舞いした。その衝撃で、路地に転がっていた空き缶が一斉に跳ねた。

 安藤は白目をむき、夕食のあなご飯を吐き出し、前のめりに倒れ、失神した。

 ボディブロー一発で人間を打ち倒すことは果たして可能なのか? プロボクサーが、週一日のスポーツジム通い程度の腹筋を打ったならば、可能だろう。しかし、真に鍛え抜かれた腹筋を相手にしたならば、プロボクサーであっても一撃KOは不可能。それは、プロボクシングの試合が証明している。プロの試合において、ボディブローは一撃必殺ではなく、何度も何度も執拗に打ち込む積立貯金のような攻撃なのだ。安藤の腹筋は、シックスパック。ついでにもうツーパック増やそうかという鍛え抜かれた腹筋だ。プロボクサーのそれと遜色ない。この腹筋を一撃で仕留める? 常人には無理だ。到底無理だ、常人には。

 「常人じゃないね、兄ちゃん」小山が言った。「全盛期のマイク・タイソンだって、さっきみたいのは打てねえよ。でもね、兄ちゃん、あえて左でブローを打ったのは感心できないね。金属バットで何度も強打されたその肩であえて打ったのは、ノーダメージだって、俺に思わせたかったからなんだろう? 弱みを見せないためにね。いけねえや、そんな小手先の駆け引きに走って無理をしちゃ。いかれてる肩であんなパワーのブローを打ったら、左肩、もう使いもんになんねえだろ?」

 小山の発言を受けて、皆野は左肩をぐるぐると回した。極めて円滑に肩は回った。

 「左で殴ったのは、利き手の右で殴ったら殺しちまうからだ。左肩は、事実、ノーダメージだ」

 皆野の発言は真実だった。骨が折れても不思議ではない打撃を受けながらも、皆野の骨にはひび一つ入っていなかった。更に言うならば、打撲すらしていない。その上に言うならば、青痣一つできていない。

 皆野の発言が真実であることを、小山は悟った。

 「常人じゃないね、本当に」

 そう言ってから、小山はポケットから両手を出し、全身に力を込めた。小山の筋肉が盛り上がる。身に纏っていた本革のライダースジャケットを内から破り捨て、尋常ではない筋肉を露出する。

 「俺も常人じゃないがね」

 小山は更に全身に力を込めた。小山の筋肉に極太の血管が浮かび上がる。そうして、小山の全身から湯気のようなものが現れた。広島市の熱気が汗を蒸発させたのか? いや、そうじゃない。この湯気のようなもの、科学的に表現するならば、エネルギー。漫画的に表現するならば、気。エネルギーと気、小山が発生させている現象をどちらがより的確に表現しているかと問われれば、気、のほうであると断言できる・・・・・・気、などというものが現実に存在するのか? 存在する、などと断言は出来ない。しかし、現実に、小山は気を発している。それが、全てなのだ。

 「マブダチ、やられちまったらよお、加減はできねえわな。ヤっちまう覚悟で、やるしかねえわな。恨むなよ、兄ちゃん」

 「御託は良いんだよ。さっさと撃ってきな」

 小山はニヤッと笑い、両手の平を皆野に向けた。全身の気が両手の平に集まる。

 「牡蠣鍋波動砲!」

 小山が叫ぶと、両手の平に集まっていた気が皆野目掛けて放出された。巨大な気の塊が時速百キロ以上のスピードで真っ直ぐに飛び、皆野に迫る。気の塊の破壊力は、AT-4対戦車ロケットランチャーと同等。それが直撃したならば、さすがの皆野も無事では済まない。

 皆野は右の拳を天に掲げた。その拳が気をまとい、輝く。皆野は気をまとった拳を腰の辺りまで下ろし、その拳を正拳突きの要領で繰り出した。拳に纏っていた気が、気の玉となって放たれる。大きさは、野球のボールほど。牡蠣鍋波動砲の十分の一くらいの大きさだ。

 「蟹汁光王拳!」皆野が叫んだ。

 「腕力は一流だが、気をコントロールする力は三流だな! その程度の威力で、俺の牡蠣鍋波動砲は打ち破れんぞ!」

 牡蠣鍋波動砲と蟹汁光王拳が正面衝突する。二つの気が激しく競り合う。牡蠣鍋波動砲が少しづつ蟹汁光王拳を押し、皆野に迫った。

 喧嘩は根性ではなく地力によって決するのだと、百戦錬磨の小山は知っている。小山は勝利を確信して高らかに笑った。

 「ピンチからの一発逆転は、リアルじゃあり得ねえ! 地力の差は決して覆らねえ! 終わりだ、兄ちゃん! あの世でパシリからやり直しな!」

 「ピンノ、っていう蟹を知ってるかい?」そう言った皆野の顔に恐怖や焦りは皆無だった。

 「何を言ってる!? イカレちまったのか!?」そう叫んでから、小山の笑いが消え去った。「どういうことだ!? いつの間にか、奴の蟹汁光王拳が俺の牡蠣鍋波動砲と同じくらいの大きさになっている!」

 その言葉通り、蟹汁光王拳はどんどん大きくなっていた。その拡大に伴い、パワーも増している。牡蠣鍋波動砲はもう蟹汁光王拳を押し返すことが出来なくなっていた。

 「ピンノことピンノテレスは、二枚貝などと共生する蟹だ。もちろん、牡蠣とも共生する。牡蠣の懐で、ピンノは育つのさ」

 蟹汁光王拳が牡蠣鍋波動砲よりも大きさとパワーを増した。必然、蟹汁光王拳が牡蠣鍋波動砲を押し返す。巨大な気の塊が迫ってくる状況で、小山に残された選択肢は二つ。巨大な気の塊を受け止めるか、逃げるかだ。小山の辞書に逃げるという言葉は、あった。現在進行形で、高校卒業後の進路から逃げている。二年以上付き合っている女性との関係から逃げている。しかし、人生の辞書に逃げるという言葉があったとしても、喧嘩の辞書には逃げるなんて言葉は持ち合わせていない。小山は両手を前方に突き出したまま両足を肩幅よりも広げ、腰を深く落とした。

 「俺は、広島のクレイジーバッファロー、小山雄彦だ! 全盛期の竹原慎二が相手だって逃げやしない!」

 小山は気の塊を両手で受けた。その瞬間、絶望レベルの後悔の念を抱く。膨れ上がった蟹汁光王拳のパワーは、小山の想像を遥かに超えていた。

 「とても抑え込めねえよ、こんなもん!」小山は泣き言を漏らした。

 強大な力に耐えきれず、小山の両手が弾かれた。そうして、牡蠣鍋波動砲と蟹汁光王拳、二つの気の塊が小山に直撃した。気によって全身を破壊され、小山は悲痛な声を上げた。

 二つの気の塊は、小山に直撃してから三秒ほどで消滅した。気の衝撃で大きく吹き飛ばされた小山は、路地から飛び出し、表通りにその身を横たえた。気による破壊は小山の衣服をもボロボロにしており、小山はほとんど全裸になっていた。全治三か月の重傷。命に別状はない。しかし、圧倒的な敗北によって小山のプライドは粉々に打ち砕かれており、その不良生命は絶たれていた。

 ボロ雑巾のような小山を発見した表通りの人々が揃って悲鳴を上げた。

 皆野は何事もなかったように表通りに出て、そのまま喧騒のなかに消えた。更なる喧嘩の相手を求めて、孤独を纏いながら。


 夜のとばりを切り裂いた陽光が、広島城を神々しく照らし出した。血で血を洗う喧嘩の華は、月下美人のように夜と共に失せて、清潔な朝に何も残さなかった。美しい街に健全な風が吹いた。

 皆野は広島駅周辺の駐輪場にいた。自前のシティサイクルに跨り、こぎ出す。喧嘩の火種が絶えてしまえば、そこはもう皆野の居場所ではなかった。一晩で、皆野は安藤たちを含む計十二人を倒していた。刃物を持った敵がいて、火器を持った敵もいた。それらを相手取ってなお、皆野は無傷だった。その圧倒的な喧嘩の強さも、圧倒的な勝利も、皆野にとっては何の意味もない。人間も、喧騒も、闘争も、全て退屈だと断じて、皆野は薄ら笑った。何にも価値を見出せない悲しい少年は、やり場のない空しさを抱えながら、鳥取県に向かって自転車をこいだ。

 朝の五時半に広島市を出た皆野が目的地の鳥取市に到着したのは、その日の午前十時半だった。広島市から鳥取市までは車で四時間ほどかかる距離である。中国縦貫自動車道を使って四時間ほどかかる距離である。皆野のシティサイクルには何らかの違法な改造が施されているのであろうか? いいや、市販品のままの、ごく平凡なシティサイクルだ。脚力、持久力、土地勘、青信号を手繰り寄せるセンス、それら四つの要素が、異常な早さでの鳥取市到着を可能にしていた。

 皆野は、鳥取市に到着してからはゆっくりと自転車をこいだ。そうして、鳥取市内をぶらぶらと彷徨った。家に帰っても寝る以外にやることがない。喧嘩相手を探す? こんな真昼間ではそうそう相手は見つからない。それこそ、鳥取砂丘でコンタクトレンズを探すようなものだ。鳥取砂丘にでも行く? 小さな頃からもう数え切れないほど行っている。いい加減、飽きている。他の名所も同様で、退屈は多感な少年を苛んだ。

 「よう、未来!」 

 交番の前に立っていた若い警察官に声をかけられ、皆野は自転車を止めた。

 「大原さん」皆野は若い警察官に向かって言った。

 「未来。俺、今、暇で暇でしょうがないんだよ。茶と菓子を出すからさ、ちょっと交番に寄ってって、話し相手になってくれよ」

 皆野は面倒くさそうな表情を見せつつも、自転車を交番の前に停め、交番の中に入っていった。

 「そこに座っちまって構わないよ」

 交番に入ってすぐ左手に置かれている机と椅子を指差して、大原は言った。皆野は言われた場所に座った。大原は詰め所の奥の部屋に入り、二分ほどしてから、茶と菓子を持って詰め所に戻った。

 「大山町産の茶葉だ」机に茶と菓子を置きながら、大原は言った。「菓子は因幡の白うさぎだ」

 「見れば分かる」そう言ってから、皆野は因幡の白うさぎを一口で食した。「童心に返る、癒しの味だ。美味だ」

 「そうだろう」大原は壁に寄りかかりながら、優しい顔で言った。

 皆野は茶をすすった。

 「人体への愛にあふれた味だ。美味だ」

 「そうだろう」

 皆野を見詰める大原の眼は、若者に対する慈愛に満ちていた。それは、大人のあるべき眼だった。

 「未来、チャリでどこに行ってたんだ?」

 「広島市」

 「すげえな。この前はチャリで大阪市まで行ったんだっけか? よくそれでチャリがぶっ壊れないな。普通、ぶっ壊れるぞ」

 「俺の相棒はタフが売りでね。そんじょそこらのチャリとはモノが違う」

 皆野が真顔で言って、大原は笑った。

 「チャリを相棒って呼ぶ君のユーモアが、俺は好きだよ」

 皆野は頬を赤らめ、茶を一気に飲み干し、席を立った。

 「ごちそうさまでした。それじゃあ、俺は帰るぜ」

 「未来。本当の君はとても茶目っ気のある心根の優しい少年で、決して喧嘩に明け暮れるような人間じゃないんだ」

 「くさいこと言うのは止めてくれ」

 「若さは有限だ。もっと自分を大事にしな」

 「大事にしてるさ。大事にしているからこそ、俺は俺の望む喧嘩に明け暮れているんだ。それが、俺にとって幸福なんだ。俺は俺の感情を大事にして生きている」

 「本当に、喧嘩で幸福を感じたことがあるのか? 一度でも、喧嘩で満足を得たことがあるのか?」

 皆野は俯き、黙った。

 「自分が本当は何を求めているのか、考えてみな。考えても分からなければ、探してみな。探す場所なら、人との本当の関わりのなかに幾らでもある」

 皆野は黙ったまま交番を出た。そうして、再び自転車で鳥取市内を彷徨った。そのうちに空腹を覚え、トスクのフードコートで食事を済ませ、それからようやく家路についた。

 午後二時を過ぎた頃に、皆野は鳥取市内の自宅に帰宅した。築四十年を超える安アパート、その二階に皆野の自宅はある。母親と二人暮らしの小さな住まいだった。

 皆野は玄関で靴を脱ぎながら眠気を覚えた。あくびをしながらリビング兼ダイニングに入る。食卓の上には、千円札が二枚と、走り書きのメモが置かれていた。皆野はメモを手に取った。そこには、このお金で食事を済ませてください、とだけ書かれていた。皆野はメモをごみ箱に捨て、千円札二枚を財布に入れた。それから、自室に入り、横になり、眠りに落ちた。

 

 玄関チャイムが鳴って、皆野は目を覚ました。寝ぼけ眼でスマフォを見やり、時刻が午後の七時八分であることを知る。まだ母親は帰っていない時間だ。来客への対応を面倒くさく思い、皆野は居留守を決め込んだ。五秒に一度の間隔で、玄関チャイムが三回鳴った。その後、二十秒ほどの静寂があった。留守だと諦めて帰ったか、そう思った瞬間、皆野は寒気を覚え、全身の毛を逆立たせた。冷や汗がぶわっと吹き出す。生まれたての鹿の脚みたいに震える自分の全身に困惑しながら、皆野は玄関ドアを見やった。

 「生まれてこの方、他人の闘気に気圧されたことなんて一度もねえ。そんな俺が、心の底からブルってる。玄関ドアの向こう側で闘気を放っている人間に、ブルってる。一体全体、この闘気を放っている奴は何者なんだ? どこぞの不良が、喧嘩に負けた腹いせに殺し屋でも送り込んできやがったのか?」

 皆野は一瞬、窓から飛び降りて逃げようかと考えた。そうして、その考えをすぐに恥じた。

 「逃げるだって? 論外だ。相手がどれだけ強かろうが関係ねえ、正面からぶち当たる、それが俺の在り方だ」

 皆野は立ち上がり、玄関ドアに向かって歩いた。際限なく吹き出る冷や汗が、歩を進めるごとに床を濡らした。まるで質の悪いプールサイドみたいに、床一面が湿った。玄関ドアに近付くほど、呼吸が荒くなり、心臓の鼓動も強まる。一歩進むたびに、勇気を振り絞らなくてはならない。それは、毎月貯金を切り崩して生活していくような、痛苦を極める前進だった。

 玄関にたどり着き、玄関ドアの鍵を開けようとサムターンに手を伸ばす。恐ろしさの余り何度も手を引っ込める。真実の口に手を入れようか入れまいか迷う幼子みたいに、何度も何度も、手を伸ばしては引っ込める。そんな自分自身に怒りを覚え、皆野は腹の底から声を上げ、一思いに鍵を開けた。後は、ドアを開けるだけ。しかし、皆野にはもう、ドアノブをつかみ、ドアノブをひねり、ドアを押す、この三工程をこなすだけの精神力が残っていなかった。皆野は閉じたままのドアを前にして、膝をついた。

 玄関ドアの外側にいた男が、玄関ドアをゆっくりと開けた。

 皆野は顔を上げ、玄関ドアを開けた男と目を合わせた。男の瞳は満天の星空みたいに無数の輝きを有していた。年の頃は六十代前半。岩石のように硬質な漆黒の毛髪が若々しく生い茂っている。生粋の紳士であることが一目で見て取れる上品な顔立ち。二メートルを優に超える身長、百キログラムを優に超える体重。紅のスーツに純白のローファー、そんな狂気の装いが滑稽ではなく、粋に見える。男の佇まいに、けちを付けられる要素は皆無だった。

 「怖がらせてしまって、申し訳ありません」男は皆野にそっと手を差し伸べた。「鳥取県知事、漢咲大黒柱です。初めまして、皆野未来君」

 漢咲はもう闘気を放つのをやめていた。それで、皆野は正常な心身を取り戻せた。皆野は漢咲の手をつかまず、自力で立ち上がった。

 「知事が、家に何の用だ?」

 「君と話がしたいのです」漢咲は恭しく頭を下げた。「君のお時間を、少しだけ頂きたい」

 「嫌だね。けえんな」

 「どうしても、君に聞いてほしい話があるのです」

 「しつけえな、あんたも」そう言ってから、皆野は漢咲を睨んだ。「要求を通してえのなら、力ずくでやってみなよ」

 漢咲は真っすぐに皆野の目を見詰め、微笑んだ。

 「君と争いにきた訳じゃないんだ」

 「あんたは俺と話がしたい。俺はあんたと話なんかしたくない。落としどころがない以上は、暴力で我を通すしかねえ!」

 皆野は漢咲の腹部目掛けて強烈な右のブローを放った。手加減なんてない、肝臓を爆破するつもりで放った拳だ。漢咲は避ける素振りすら見せず、皆野のブローを腹部で受けた。

 漢咲の腹部を打った瞬間、皆野は未だかつて一度も味わったことのない衝撃を受けた。

 「十五年の人生で、数え切れないほどの腹筋を屠ってきたが・・・・・・」皆野は心中で語った。「こんな腹筋は、初めてだ。分厚いタイヤみたいな腹筋だとか、装甲車みたいな腹筋だとか、そういう形容じゃまるで足りない。この漢咲って男の腹筋は、言うならば、山だ。それも、特大の山だ。鳥取県民の俺には馴染みがないが、恐らくこの山は、富士山だ。富士山の麓で、地面を殴ったならば、こんな感触だろうと容易に想像できる。山を殴る、こんな不毛なことがあるか?」

 「良いパンチだ」漢咲が言った。「きちんとした訓練を積めば、いつか私よりも強くなれる」

 遥か高みから降り注いだその声に、皆野は切れた。

 「現時点で俺はてめえより弱いって、断言しやがったな! 見当違いだって体に教えてやるよ、くそじじい!」

 喧嘩無敗の浅ましいプライドが、皆野に更なる暴挙を犯させた。皆野は漢咲に向かって二発目の拳を放ったのだ。その拳は漢咲の胸部に当たった。漢咲は微塵も動じない。

 「拳を傷めるぞ。もう止めたまえ」

 明らかにノーダメージな漢咲に、皆野は恐怖を覚え、その恐怖を振り払うために、叫びながら何十発も連続で漢咲を殴った。殴って、殴って、そのうちに拳から血が噴き出した。それだけやっても、漢咲はノーダメージのままだった。

 騒ぎに気付いたアパートの住人たちが部屋から出てきて、皆野と漢咲を見やった。喧嘩など見慣れていない全うな人々は、皆野が繰り出し続ける暴力に恐怖し、震えた。そんな住人たちの様子に気付いた漢咲は、皆野の拳を手の平で受け止め、言った。

 「ご近所迷惑になってしまった。場所を移そう」

 「知ったことか!」

 「子供も見ている」

 漢咲が顎で指した場所には、八歳の男の子がいた。親の制止を振り切って外に出て、喧嘩を見詰めていた男の子の目には、恐怖と同時に誤った尊敬の念も宿っていた。皆野はそれを見て取り、拳を引っ込め、屈辱に震えた。

 「この野郎、これだけ殴ってもノーダメージかよ」皆野は心中で言った。「俺の拳が通用しない奴なんて、この世界のどこにもいないと思っていたのに」

 圧倒的な喧嘩の強さは、空しさの原因の一つであると同時に誇りでもあった。プライドをズタズタにされ、皆野は激しく漢咲を憎んだ。

 「どこで決着をつける?」皆野はこめかみに血管を浮かび上がらせながら言った。

 「鳥取砂丘に行きましょう。この時間ならば、めったに人はいない」そう言ってから、漢咲はアパートの住人たちに恭しく頭を下げた。「うるさくしてしまって、申し訳ありませんでした。もうトラブルは解決しましたから、どうか安心してください」

 漢咲は一階へ降りていった。皆野が後に続いた。

 「私の車で行きましょう。近くの駐車場に停めてあります」

 「車なんて遅い。走ったほうが早い!」

 言うが早いか、皆野は走り出した。

 「いいですね。健康のためにも、走ろうか」

 皆野に続いて漢咲も走り出した。

 走る二人の速度は、歩道を走るには余りにも危険な速度だった。時速五十キロを優に超えているからだ。人道の面からして、歩道を走るという選択肢はない。では、車道を走るか? それは明らかな道路交通法違反であり、その選択肢もない。それでは、鳥取市南部からいかようにして鳥取砂丘へ向かえばいいのか? 簡単だ、千代川を使えばいい。千代川の水面を蹴って走り、北へ向かえばいい。そうして日本海へ出て、東に少し走り、北から鳥取砂丘に上陸すればいい。現に二人はそうやって、鳥取砂丘に到着したのだった。

 漢咲を引き離そうとしてオーバーペースで走り続けた皆野は、汗だくになり、肩で息をしていた。一方の漢咲は、皆野に離されることなく走り続けたにもかかわらず、汗一滴かかず、呼吸も安定していた。

 「今夜はとても空が澄んでいて、よかった」漢咲が空を見上げながら言った。「星明りがなければ真っ暗で何も見えなくなるからね」

 鳥取砂丘のきめ細かな砂粒が、星明りを浴びて輝いた。まるで地上の天の川であった。

 「異常だ。こんな地面には普通ならない」息を整えてから、皆野は言った。

 「特別な夜ということさ」

 「気持ち悪いことを言うんじゃねえ」

 「何も気持ち悪くなんてない。今夜は、私にとって、君のような素晴らしい若者に出会えた特別な夜だ」

 「意味が分からねえ」

 「歳をとれば、君にも分かる日がきますよ」

 「くだらねえお喋りはお仕舞いだ。もうこれ以上、じじいの道楽には付き合いきれねえ」皆野はスカジャンを脱ぎ捨て、鋼のような裸の上半身をあらわにした。「俺の気で、あんたを消し飛ばす。それが、俺をコケにしたあんたがつけなきゃならねえ落とし前だ」

 皆野は砂上で踏ん張った。皆野の両足がくるぶしまで砂に埋まった。皆野の気がどんどんパワーを上げていく。

 「その若さでこの強大な気。大したものだ」

 「余裕ぶっこいてんじゃねえ! 拳は効かなくても、こいつは効くだろうよ!」

 皆野が叫ぶと、周囲の砂が波打った。砂は皆野から一キロメートル以上離れたところまで波打ち続けた。風紋であろうか? いや、違う。この夜に風は全く吹いていない。皆野の気が、地表の砂を振動させているのだ。その振動は、海岸の砂を鳴かせた。静寂が破られた。

 皆野は両手の平を近付け、その中心に気を集めた。大きな気の塊が出来上がっていく。それを見詰めながら、漢咲は微笑んだ。

 「一つ、約束してくれませんか。君のその攻撃に私が耐えたなら、私の話を聞いてくれると」

 「死人に口なし、ってな! まあ、運よく生きてりゃ好きなだけダベりなよ!」

 皆野が作った気の塊は、七号のバスケットボールよりも遥かに大きくなっていた。皆野は両手の平を漢咲に向けた。

 「風紋発生風洞波!」

 皆野が叫ぶと、皆野の気の塊が漢咲向かって飛んでいった。皆野と漢咲の距離は四メートルほどしか離れていない。時速八百キロメートルで真っすぐに進む気の塊は、それこそ一瞬で漢咲に直撃した。

 強烈な気と強靭な肉体の衝突は、膨大なエネルギーを発生させ、巨大な砂嵐を無数に作り上げた。乱れ飛ぶ砂が目に入りそうになり、皆野は目をつぶった。そうして、ボクシングのブロッキングに似た防御の構えをとり、砂嵐に耐えた。

 三分ほどで、砂嵐は消え去った。そうして、皆野はそっと目を開け、驚愕した。一目でノーダメージと分かる漢咲が立っている。身に付けている衣服までもが無傷だ。もっと言うならば、砂まみれにすらなっていない。

 気を全て使い果たし、心も折れ、皆野は膝から崩れ落ちた。

 「七月とはいえ、夜は冷える。ほら、君のスカジャンだ。受け取りなさい」

 漢咲は手に持っていた皆野のスカジャンを皆野に投げて寄越した。皆野はそれをキャッチした。

 「どうして、これをあんたが持っている?」

 「砂嵐に吹き飛ばされたスカジャンが、私のところに飛んできたのだ。それで、キャッチしておいたのさ」

 いかんともしようがない、実力差。皆野は眼が洗われる思いで漢咲を見詰めた。井の中の蛙が大海を知った瞬間だった。

 「私の話を、聞いてくれるね」

 皆野は素直に首を縦に振った。

 漢咲は微笑みを消し去り、険しい表情になって口を開いた。

 「皆野君。二日後に、衆議院議員総選挙こと夏の公私宴が開催されることは知っているね?」

 「知っています」

 「君には、鳥取県代表のメンバーとして、夏の公私宴に出場してもらいたい」そう言ってから、漢咲は地べたに腹ばいになった。土下寝である。「この通りだ」

 「俺よりも遥かに強い知事が、中坊の俺に対して最上級でへりくだっている」漢咲の土下寝に動揺を隠しきれず、皆野は思考をそのまま口にした。「俺みたいな中坊でも価値が分かる上等なスーツを砂まみれにして、俺に頭を下げている」

 鳥取砂丘の沖合に、ともし火の連なりが見えた。それは、イカ釣り船の漁り火だった。皆野は漁り火を見やった。美しいと思った。そうして、自分よりも遥かに非力な少年に土下寝をしてものを頼む初老の男のほうが漁り火よりも遥かに美しいのだと理解した。

 衝動で、皆野は漢咲に駆け寄り、「頭を上げてください!」と叫んだ。

 漢咲はゆっくりと立ち上がった。スーツだけでなく顔まで砂まみれだった。

 「出てくれますか? 夏の公私宴」

 「俺、野球は未経験ですよ」

 「それは問題ありません。公私宴で行われる野球において重要なのは、野球の技術よりも気の力だからです」

 「それでも、なんだって俺みたいな中坊に出場を依頼するのですか?」

 「鳥取最強の中学生喧嘩屋、皆野未来の強さは有名だ。そうして、君は選挙権を有している」

 「十五歳って、選挙権があるんでしたっけ?」

 「去年二月に行われた法改正で、十三歳から選挙権を得るようになったんだよ」漢咲は嘲るような響きが一切ない優しい声で言った。「君は、政治に興味がないんだね」

 「興味ないっていうか、政治は胸くそ悪いから見たり聞いたりしないようにしているだけです」漢咲の声が嫌味ではなかったために、皆野は素直な声を返せた。「高給取りの偉そうな爺さん婆さんたちが、めちゃくちゃなことを言ったりやったりしているのが、むかつくんです」

 「今の政治に嫌悪を抱いている君の感情は、正しい。しかし、その感情を政治への無関心に結び付けていることは、誤りだ。有権者の、特に、若い有権者の政治への無関心は政治を腐敗させる」

 皆野は、「有権者の政治離れは、きちんとした選択肢を有権者側に提示できない野党の責任でしょう。毎回、沈没党が圧勝する出来レースなんですから、有権者がうんざりするのも止むを得ないでしょ」と声にしかけた。しかし、政治論争になるのを面倒くさく思い、その声を飲み込んだ。

 皆野はわざとくしゃみをして、それからスカジャンを着た。

 「私は慈愛党の党首です」漢咲が言った。「そうして、私は鳥取県代表のキャプテンとして夏の公私宴に出場します。鳥取県代表には君が必要なのです。改めて、お願いします。どうか、私と一緒に戦ってください」

 「もう頭は下げないでください」頭を下げようとした漢咲を皆野は制止した。「チームに誘ってもらえたのはうれしいんですが、辞退させてください」

 「理由を聞いてもよろしいですか?」漢咲は穏やかな声で言った。

 「理由は、俺が弱いからです。あなたのチームに入っても、俺じゃ足を引っ張るだけです」

 「皆野君。君は強いよ」

 「嘘だ。あなたに手も足も出なかった俺が強いわけがない」

 「人を過大に評価すること、過小に評価すること、それらは評価した相手を滅ぼし、また自らをも滅ぼす。私はそんな愚は犯さない。全てありのまま評価する。君は強い。そして、これからもっと強くなる。これは正当な評価だ」

 漢咲は名刺を取り出し、それを皆野に差し出した。自前の携帯の番号が記されているプライベート用の名刺だった。

 「二日後の午前十時から、長野県上伊那郡辰野町にある公私宴球場にて、開会式が行われます。私たち鳥取県代表は、開会式終了後の午後二時から高知県との試合に臨みます。開会式には参加しなくて構いません。ですが、試合には、考えが変わるようなことがあったならば、どうか出場してください。私は、君を待っています」

 そう言ってから、漢咲は皆野に握手を求めた。皆野はそれに応じた。大きくてゴツゴツした漢咲の手を握った瞬間、皆野は強い欲求を感じた。それは、この男に認められたい、という欲求だった。大きな手で優しく頭を撫でてもらいながら、君はすごい男だな皆野君、と言ってもらいたい衝動。皆野はその衝動に慄き、漢咲の手を乱暴に振り払った。その無礼にも漢咲は嫌な顔一つしなかった。

 「話を聞いてくれて、ありがとう、皆野君。それでは、さようなら。また会えることを願っているよ」

 漢咲は南に向かって走り出した。皆野は走り去る漢咲の姿を目で追った。すぐに漢咲の姿は砂丘の陰に隠れて見えなくなった。漢咲が走り去って五分ほど立ってから、皆野も南に向かって歩き出した。


 鳥取砂丘を出てから、皆野は鳥取市内をぶらぶらと歩いた。二度ばかり、不良とニアミスしたが、喧嘩にはならなかった。ガンを飛ばされようが、玉なし呼ばわりされようが、喧嘩を買う気にはならなかった。

 「自分のメンツのために喧嘩をする。ナめられないために。俺は強いんだと、他人に思い知らせるために。メンツにがんじがらめにされた、愚かしい見栄の張り合い、それが、俺が今までやってきた戦いだ」皆野は独り言を言った。「それで満たされる人間なら、それでいい。一生、死ぬまでメンツのために戦っていればいい。でも、俺はそんな人間じゃねえ。俺は、一度だって、くだらねえ喧嘩で満足を得たことなんてなかった」

 馴染みの道を歩きながら、皆野はサハラ砂漠のど真ん中を彷徨っている錯覚を覚えた。それでも、市街地を吹き抜ける生暖かい風に背中を押され、歩き続けた。自分はこれからなにをすればいいのか? そんな迷いを抱きながら過ごす十五歳の夜は、無限に自由であるがゆえに、ひどく心細かった。

 皆野は公園に立ち寄った。自販機でコーラを買い、ベンチに座る。

 「ガキのころはよくここで遊んだ。シンプルだったな、ガキのころは。己の思いに素直で、迷いもなく行動できていた。幼子でさえ有する真理を、俺はいつ手放しちまったんだ」皆野は夜空を見上げた。「俺は、漢咲さんに惚れた。その惚れた男が、俺を必要としてくれた。思えば、人に必要とされたのは初めてかもしれない・・・・・・・惚れた男のために戦いたい、惚れた男に認められたい、唯、その思いに素直に生きられたなら、どれだけ心地よいだろうか」

 皆野はコーラを一息に飲み干し、漢咲からもらった名刺を取り出して、それを見詰めた。そうして、漢咲と握手した際に感じた衝動を反芻する。

 漢咲の強力なカリスマに触発された皆野のハートが、猛る。純粋な崇拝が熱を持つ。人間愛によって他人に惚れこむ激情は、初体験の皆野にとって強烈すぎた。今の皆野にとっては、初恋の相手よりも漢咲のほうが遥かに神聖だった。

 「二日後、長野か・・・・・・」

 皆野はつぶやいた。すると、自然に、心の奥底で燻っていた闘志に火が点いた。その火は、真っ暗闇のなかを当てもなく航海していた船にとっての灯台の灯火だった。その灯火に向かわずにいられる船など存在しない。皆野は再び勢いよく立ち上がり、コーラの空き缶を缶用ゴミ箱に捨て、それから、公園を出た。

 公園を出た後、皆野はスキップで鳥取市内を動き回っていた。そのスキップは、喜びの表れだった。惚れた男のために行動する、その決意が甘美な刺激となって、少年の心身を喜びで満たしていたのだ。皆野はもう腹を決めていた。公私宴に出場すると、腹を決めていた。

 「二日後、俺は漢咲さんのために戦うんだ!」

 そう改めて口にしてみると、活力が全身にみなぎり、意図せずともスキップの速度が増した。

 「未来! どうした、嬉しそうにスキップなんかして!?」

 鳥取駅周辺で大原に声を掛けられた瞬間、皆野はスキップを止めた。急停止した皆野に大原が駆け寄った。

 「大原さんの見間違いだ。俺がスキップなんかするわけねえだろ」

 「してたじゃないか。満面の笑顔で」

 「眼下を受診しなよ。目ん玉が腐ってる」

 皆野は大原を避けるようにして歩き出した。

 「未来。家まで送るぞ。俺の車で」

 「ガキじゃねえんだ。一人で帰れる」

 「もう夜の十一時を過ぎている。中学生が一人で出歩くような時間じゃない」

 皆野は舌打ちをした。大原は笑いながら皆野の背中を優しく押し、一緒に駐車場まで歩いた。

 大原の車は日産のノートだった。購入したばかりの新車だった。皆野は後部座席に座った。

 「助手席に乗ればいいのに」シートベルトを締めながら大原は言った。

 車が静かに走り出した。安全運転の鏡みたいな運転で車は進んだ。

 「これからは、夜は家に居てやるようにしな」信号が赤になって、ブレーキを踏みながら大原は言った。「お母さんに心配をかけないためにもな」

 「俺と顔を合わさないで済むことに、あの人はほっとしているよ」

 「君のお母さんが朝早くから夜遅くまで働いているのは、君を愛しているからだ。愛している子供の顔を見たくない親なんていない」

 「出産間近の嫁さんがいるのにこんな時間までほっつき歩いてる大原さんに、とやかく言われたくねえ。勤務先の交番から離れている鳥取駅周辺に私服でいたんだから、仕事ってわけじゃないんだろ」

 「警察学校時代の同期と大事な話があってね」信号が青になって、大原はアクセルを踏んだ。「三日前から嫁のお母さんが家に泊ってくれているし、今日は夜遅くまで友人と会っているっていうこともちゃんと伝えてあるから、何の問題もない」

 皆野はスマホを操作し始めた。しかし、数分で充電が切れて使えなくなった。皆野はスマホを仕舞い、両手を頭の後ろで組んだ。

 「自分とお母さんのことを大事にしろよ、未来」

 「はいはい、分かりましたよ」皆野はあくびの真似をした。「説教はもうやめて、ちょいとばかし俺の質問に答えてくれないかい?」

 「君が俺に質問なんて珍しいな。いいぞ。なんでも聞いてくれ」

 「公私宴について、ちょっとばかり知りたいんだ」

 「政治に興味を持ったのか、未来。そいつはいい心がけだ」

 「興味なんかねえ。唯、俺も一応選挙権を持ってるから、少しくらい公私宴が何なのか知っとこうと思っただけさ。単なる気まぐれだよ」

 「分かった。そういうことにしておこう」大原は微笑んだ。それから、咳ばらいを一つして、語り出した。「1946年の戦後初の衆議院議員総選挙を迎えるにあたって、その前年に、GHQは衆議院議員選挙法を大きく改正した。その法改正の目玉は二つ、女性参政権と公私宴法だ。それらの法改正をもってGHQは日本の民主化を推し進め・・・・・・」

 「ちょっと待ってくれ、大原さん」皆野は大原の語りを遮った。「俺が知りたいのは歴史じゃない。俺が知りたいのは、公私宴の選挙の仕組みだ」

 「そうなのか。でも、歴史も面白いぞ。特に、マッカーサーが一人の日本の野球少年と出会って公私宴法の着想を得るくだりなんかは感慨深い話で・・・・・・」

 「そいつはまた今度聞かせてくれ」

 鳥取城の水堀に月がくっきりと映っていた。それを右手に見ながら、大原の車はゆっくりと進んだ。

 「公私宴に出場するのは全四十九チーム。四十七都道府県全てから代表チームが出場し、北海道は北と南の二チーム、東京は東と西の二チームが出場する。一回戦第一試合が七月三十一日に行われ、決勝戦は八月三十日に行われる、約一ヶ月に及ぶ野球のトーナメント、それが夏の公私宴だ」大原が言った。「六月の最終日曜日に夏の公私宴予選こと国民投票を行う。その投票によって、各都道府県がどの政党のチームとなって戦うかを決めるんだ。各選挙区でそれぞれ最多得票を得た政党は銘々の都道府県の代表チームとして夏の公私宴に出場する。今年の夏の公私宴予選の結果で言えば、鳥取県でのみ最多得票を得た慈愛党は鳥取県代表として一チームだけを夏の公私宴に出場させられ、東東京を始めとする三十五の選挙区で最多得票を得た沈没党は三十五の代表チームを夏の公私宴に出場させられる。現在の衆議院の議席数は全部で四百六十五議席。その内、夏の公私宴を優勝したチームの政党が得られる議席数は二百三十三議席。すなわち、優勝したチームの政党は与党となる。そうして、優勝チームのキャプテンを務めていた人間が、総理大臣になる」

 「ありがとう、大原さん。もう充分だ」皆野はそう言って、外を見やった。自宅の近くにある古ぼけたスーパーが目に入る。「しかし、慈愛党みたいな出来立てほやほやの弱小政党がよく鳥取県で最多得票を得られたもんだな」

 「慈愛党の漢咲大黒柱さんが鳥取県知事としての四年間でやってきてくれたことを、俺たち鳥取県民はちゃんと知っている。市議会も県議会も沈没党の議員だらけのなかでも諦めずに、あの人が鳥取県民の生活をよくするために身を粉にして働いてくれたことを、俺たち鳥取県民はちゃんと知っている。俺たちはバカじゃない。そして、俺たちにはハートがある。慈愛党は鳥取選挙区で勝つべくして勝ったんだ」

 「ずいぶんと買ってるんだな、漢咲大黒柱のことを」

 「メディアリテラシーを意識して政治の情報を集めれば、どの政治家がまともかが分かるようになるものさ」そう言いながら、大原はブレーキを軽く踏み始めた。

 大原の車が皆野のアパートの前に停まった。皆野は車を降りた。

 「未来。ちょっと聞いてくれ」助手席の窓を開けて大原は言った。「君の幸せを願っている人がいることを、忘れなるなよ。君は一人じゃない。自分と大切な人たちの未来を少しでも良いものにするために、生きてゆきなさい」

 「今日は何か変だぜ、大原さん。説教くさくて、らしくねえや」

 皆野は手を振って別れを告げ、アパートの階段を上っていった。大原はしばらく皆野の姿を見詰めた後、ゆっくりと車を動かし、皆野のアパートから離れていった。

 

 真っ暗ななか、玄関で靴を脱いだ。リビング兼ダイニングに入り、母親の部屋から聞こえてくる寝息を聞いた。

 皆野は自室で一時間ほど仮眠をとった。それから、長野県へ向かう準備に取り掛かり、着替えなどをショルダーバッグに詰め込んだ。

 旅支度が済んで、皆野は自室を出た。そのまま家を出ようとしたが、思い直し、メモ帳から一枚を破り取り、数日戻らないけど心配はいらない、と記し、そのメモを食卓の上に置いてから、家を出た。

 「チャリで長野まで行くってなると、どれくらい時間が掛かるものだろうか?」自転車に跨りながら皆野は言った。「まあ、どんなに時間が掛かったとしても、試合当日には到着すんだろ」

 静寂の夜に自分の心臓の鼓動を聞いた。未だかつて一度も感じたことのない興奮を持て余し、皆野は笑った。

 「待ってろよ、公私宴! 俺の活躍で漢咲さんを必ず総理大臣にしてやるぜ!」

 そう言って、皆野は東へと漕ぎだした。純粋な魂は、夜のとばりに恐怖ではなく希望を抱き、よどみなく進んだ。

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