第4話 誘い
惑星ウィッカの自転周期では八日。
惑星ホルガの自転周期では十日。
任務開始から、既にそれだけの時が経っていた。
アスタたちは自らをジョシュ族と名乗った。
地球に月があるように、ホルガの夜空にも光り輝く衛星が浮かぶ。
草原に直立するピレネー。少し離れた位置で輪になって歌っているジョシュ族の生き残りたち。幻想的に浮かび上がる彼女たちの発光。ピレネーのつま先に背を預け、「傷物」はその様子を眺めていた。
あれからも幾度か、大猿たちの襲撃があった。どうして気候や大気組成が適しているこの星が入植されていないか不思議だったが、どうやら、百メートル級の獰猛な生物が多数生息していることが原因らしい。追い払う度、『傷物』はアスタたちに感謝された。
「はい!」
多目的携帯端末にその日のレポートを付けていると、ピュウが精一杯に手を伸ばし、洋梨のような形状の果実を差し出していた。
「それは?」
「ナシププの実。森で採れたの。美味しいよ」
受け取ると、輪に加わるため、ピュウは仲間たちの元に駆けていく。
『傷物』は腰のポーチを漁り、十五センチ程度の機器を取り出す。未開惑星への潜入任務の際は、現地の食物を口にしても安心かを判定するキットを携行することになっていた。貰った実を手で毟り、検査キットに放り込む。五秒ほどで、食べても問題はないが栄養素は少ない――という結果が返ってきた。
「プレゼント? 妹に好かれたみたいね」
気付くと、目の前にアスタがいた。
「大猿から守ってくれて、あたしもあなたには感謝している。ありがとう。……それ、遠慮なく食べて」
検査キットをポーチに仕舞うと、『傷物』は贈られた果実を齧る。
「ほぼ水分だな。食べる価値はない」
「あら、残念。あなた、いつもパサパサした味気ないものや錠剤ばかり食べているでしょう。美味しいもの、喜んでくれると思ったのに」
「活動の維持にはあれで充分なんだ。食事を味で考えたことはない」
『傷物』の回答に、アスタは肩をすくめる。
「素っ気ない。食べること、もっと楽しめばいいのに」
「必要ない。だから感謝の気持ちだけ妹に伝えておいてくれ」
そう言って、『傷物』はピュウの方を見る。彼女らの楽し気な輪唱に『傷物』の頬が緩む。
「仲が良い姉妹なんだな。羨ましいよ」
「どこへ行くにも後ろに付いて回る、可愛い妹よ。……あなたには家族はいないの?」
口に出してから、アスタは気付いた。
「出会ってから十日も経つのに、『あなた』っていう呼び方も随分ね。傭兵さん、名前は何ていうの?」
『傷物』は棒状の緊張緩和剤を取り出すと、先端を捻って口に咥える。
「KSN8823」
「それは軍隊の中での識別番号でしょ」アスタは微笑んだ。「そうじゃなくて、あなたの名前よ」
緊張緩和剤の先端では噴霧中を表す青色LEDが灯っていて、その灯りに照らされた『傷物』の表情には寂しさがあった。
「名前は……今はない。家族も同様だ」
「今は?」
「軍に預けてある。私は、それを買い戻すために戦場を這いずり回っている」
* * *
『土上がり』とは『傷物』が育った地、惑星ウィッカでの第四身分を指す蔑称である。
恒星(太陽のように自身が光を放つ星のこと)を崇拝対象とする『恒星教』を国教とするウィッカには四つの身分があった。
まず、第一位が聖職者。第二位が貴族。次いで第三位が平民。これらは全て、恒星レイナーの陽光の下、先祖代々ウィッカで育った者たちの身分となる。
最下層である第四位の身分は、ウィッカが領土とする星外地域のうち、人工の光源下で育った者たちの事を指す。資源発掘のため、あるいは遠い祖先の犯した罪のため、防護服がなければ屋外活動も出来ない、凍てつく地で営まれる彼らの暮らしは苦しかった。
第一、第二身分の慈悲によって陽光を分け与えられ、暗い地の底から這い出て生きることを許された存在。だから、生まれも育ちもウィッカ本星の者たちは、第四身分を『土上がり』と呼び、不浄と捉えた。
『傷物』は『土上がり』である。不採算により撤退が決定した星外領土から、幼い頃に移民としてウィッカに渡ってきた。
人の権利も満足に与えられない彼女らが、まともな職にあり付けるはずもない。『土上がり』の前にある選択肢は、犯罪者になるか、行きずりの娼婦になるか、軍人になるかの三つだけ。
蔑まれることにはとうに慣れたとはいえ、罪なき人から奪って平然とする生き方を選ぶ気はなかった。軽んじられることにはとうに慣れたとはいえ、自分をただの肉塊と見る者に卑屈な笑みを浮かべてすがる生き方を選ぶ気ははなかった。
だから『傷物』は、自身を引鉄を引くだけの機械と変える規律と、脳髄をまき散らした遺体が転がる環境を当たり前とする生き方を選んだ。
『土上がり』の人間が軍属となる際、差し出さねばならないものがある。
それは、記憶だった。
だから『傷物』には出自に関する最低限のものを除き、自分がどうやって生きてきたかの思い出がない。
父の名を知らない。母の名も知らない。自分が何を見て笑い、何に対して泣き怒る人間だったのかを知らない。
忠誠の証として献上した記憶を買い戻すには、人生を二度生き直せるほどの大金が必要だった。
それを取り戻す金を得るため、個人的な恨みもない相手の命を星屑に変え、自身をインベーダーゲームの的として戦場に晒す今を生きている。
* * *
身の上話を終え、『傷物』はふと気付く。眼に涙を溜めたアスタの視線が、自分の肩口に向けられていた。
いつもの潜入用スーツとは違い、『傷物』は今、タンクトップにホットパンツという出で立ちをしている。露出された肌にはそうでない場所を見つけるのが難しいほど、戦場で負った古傷で埋め尽くされていた。
仲間内での『傷物』というあだ名の由来だった。
「憐れむなよ」アスタがその言葉を口にする前に、『傷物』は先制する。同情されるのは好きじゃない。「実はこの身体にはいつも慰められている」
発言の真意を掴めず、アスタの片方の眉が上がる。その疑問に応えるように、『傷物』は続けた。
「戦場から次の戦場へ送られるほんの短い暇に、ウィッカの街を宛てもなく歩くことがある。街では平和を享受する人たちとすれ違う。
そういう時、どうしようもなく寂しくなる。
ブティックの前で展示品を指差すあの二人と同じように、気に入る品が見つかるまで友人と店を巡った過去が自分にもあるんじゃないかって。劇場前のカフェテラスで談笑するカップルを見た時、今見た作品の良くなかったところを語り合う相手が私にもいたんじゃないかって。
でも、記憶の糸を辿り寄せても、そんなものには行き当たらない。
私の記憶は、一つの任務が終わるごとに抹消されるから」
『傷物』の右手が、左肩にある切り傷を優しく撫でる。
「あったかもないかもわからない過去を想って、わかっているのに空しくなる。そんな自傷みたいなことをする度、身体の傷を撫でて自分を慰める。
記憶は簡単に私から去ってしまうけれど、身体の古傷だけは確かな過去として、いつも私の側にいてくれるから」
語り終えると『傷物』は黙った。アスタも口も開かなかった。
そうしてどちらも喋らないから、二人の沈黙には遠くジョシュ族の合唱だけが小さく響いた。
二分ほど経ち、状況を破ったのはアスタの方だった。
ゆっくり歩を進め、『傷物』の前で止まる。
それから腰を屈め、彼女は二の腕に噛み付いた。
唐突な行為に、『傷物』の目が丸くなる。最初は優しく咥える程度だったアスタのアゴの力は、だんだんと強さを増していった。
「い、痛いよ……。何するのさ?」
噛み付くのを止め、アスタの顔が離れる。二の腕には彼女の歯形と、少しの唾液が残った。
「もう……、痕が付いちゃったじゃないか」
「うん。だから、あなたが任務を終えてここから去って、記憶を消されてもまた全てを忘れても、あたしと出会ったっていう印を残した」
そう言い、アスタは笑う。
「アリィ、これであなたの中から、あたしは消えないわ」
「――アリィ?」
「あなたの名前よ。よかったら受け取って」
両手を広げ、歓迎の意志を身体で示すアスタ。その背後に、星の撒かれた夜空が輝いていた。
「家族はいないって言ったわね。なら、アリィ、あなたもあたしたちの家族に加わらない?」
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