第20回 雑踏

 今から、三十年前の事である。


 信楽高原鉄道の衝突事故と雲仙普賢岳の噴火で多くの死傷者が出た年である。


 自分の頭の中ではこの前の事だが、昨日のことのように憶えている。


 その年、自分の住んでいる地域の職安(ハローワークの事を昔は職業安定所と呼んでいたのである)の張り紙で、保温工事の手伝いで日当も良かったので、応募、直ぐ採用されて、現場に出る事になった。


 泊まり込みの仕事と言うので軽いものかなと思っていたのだが、何のことはない、職工の出稼ぎである。


 南は九州の八幡、東は千葉の房総まで行った。


 途中で抜けたのは、親方の常時仕掛けてくるパワハラが鬱陶しくなったのと、扱っている材料がアスベストを扱っているものだったからで、ある日、ビジネスホテルに帰ると、締め出されたの幸い、そこから、荷物を宅急便で纏めて、母親が仮住まいしている文化住宅に転がり込んだ。


 この前、手描きの日報が出てきたが、1991年11月の最初の頃までは勤めていたらしい。


 うちの母屋は勤めた分だけでも貰えと言われたが、反対に連れ戻されて、健康を害してもつまらないので、早々、宅急便の仕分けのバイトを見つけてそこで働き始めた。


 仮住まいしている文化住宅とは名ばかりの飲み屋の二階の部屋は夜は下のカラオケの音が五月蠅くてたまらなかったが、それから、19年ほど住んだ。


 そこは公設市場の裏で後でネット調べると、戦後の闇市から発展して増設に増設重ねたような場所で、二階である窓を開けると、そこからアーケードの木材が見えたが、どう見ても三十年以上は使っているような木材を無理やり使っている節があった。


 自分が来た当時は人通りが激しく、端から端まで通り抜けるのに、30分はかかった。

 物が安かったからである。


 時折、その頃の雑踏の夢を見る。


 夜中の九時十時でも裸電球に釣銭を入れた籠におつり銭を入れて、物を売っていた。


 魚、野菜、肉、お茶に下着に古着、そこそこの収入があれば、そこで物が揃う場所だった。


 その公設市場の凋落が始まったのは、そこを仕切っていた八百屋の入り婿で少し柄が悪いが小面の人間がいきなり亡くなった事と近所の病院が救急指定を受けたので違法駐車を止めましょうとキャンペーンを張ってティッシュを配って、違法駐車をしてまで買い物に来る連中がいなくなってしまった。


 あの辺りがターニングポイントだったな。


 時々、自転車で素通りする事があるが、閉まったシャッターを見る度に、端から端まで通り抜けるのに、時間のかかった頃が思い出される。


 今年も後、数日だが、何軒、店が残るだろう。

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