第2話 大阪日本橋1997年頃。

 先月、20年ちょっと前に知り合った知人の母君から、その知人が亡くなったという喪中のはがきをもらった。


 その知人とは20年ちょっと前、21世紀になる少し前に大阪の日本橋で知り合った。

 その頃の大阪の日本橋は電気街からオタク街になる過渡期の頃でネットの環境も今みたいなADSL、もしくはケーブル会社の常設という形ではなくて、ダイヤルアップという電話回線を通じてのものだから、一部のお金が自由に使える趣味のの人間のものだった。

 で、お金もネット環境も持たない人間はオタク系ショップが「好意」で常設してくれている伝言ノートにアニメの感想やファンアートを描き散らしていた。

 中には、これは凄いと思う人間もいたが、よくよく考えれば、大阪芸大のお膝元だし、アニメの作画スタジオもいくつも存在している。

 その中の人たちが「腕試し」という感じで描いていたのだろうな。

 

 話が脇に逸れたが、21世紀末の大阪の日本橋はカオスな状況を濃く表していて、今から思えば狂い咲きの状態であった。

 かくいう私もファンアートは描きはしなかったが、アニメの感想を書き散らしていた。

 年齢にして、34歳。いい年をした大人がやるような事ではないと20数年経った今なら言ってしまう。気の迷いだったのであろう。勤めていた会社を人間界の鬱陶しさから、逃げる為に辞めて、「自己治療的」に大阪の日本橋に通っていた。

 今の自分なら、心療内科に行き、軽い抗うつ剤を処方して貰えと言い放つ。住んでいる尼崎から、電車で往復800円を払い、土日のオタクショップのノートを閲覧、書き込みをしていた。

 悪名が轟いてしまう「2ちゃんねる」がネット上に現れるのは、その数年後だが、それをアナログなノートで行っていたのだった。


 その中の一人が今回、母君から喪中はがきを送ってもらった知人であった。

 

 あの頃の事を知っている人もいるだろうし、彼の名誉の事もある、それに自分を特定されるのも、少し恥ずかしいのでかなりぼやかして書き進める。


 私の感想に対してレスをくれるひとりが、彼であった。


 彼はあの頃の日本橋のオタク系ショップを徘徊する「影」のような存在で、興味を憶えた私は彼とコンタクトを取ろうと苦労をした。


 彼を捕まえたのは日本橋徘徊を初めて、三か月後の事であった。


 挨拶を交わすと、かなり礼儀正しい人物なのだが、異様な感じがした。


 アロハシャツに七分丈のズボンにサンダル。インドのマハラジャ映画に出てくるようなインド人のような笑みを浮かべた人物であった。


 知古を得ると彼は愉快な人物で土日に通うと、尼崎に帰るのは最終電車である事が多くなった。


 そんな彼と彼を中心に作ったグループを離れる事になったのは、一年後くらいか。


 とあるラジオ番組のリスナーグループとの抗争になったのだ。


 一言で言えば、「2ちゃんねる」のレスなら、スレッドで済む事を「好意」で置いてくれているショップ関係者に迷惑をかけても悪いと思い、降りたのだ。


 後、もう一つ言えば、自分自身の「自己治療」が終わりに近づいたのだ。


 前に勤めていた会社のトラウマもいつしか解消されていた。


 現実に復帰する時期でもあったのだ。


 それでも、彼との付き合いは結構続き、映画の試写会の券が入ったと言われたら、時間が空いていれば、行くようになっていた。


 最後の試写会は宮崎吾郎の「ゲド戦記」だったと思う。


 試写会が終るなり、京橋のアーケード街を40を過ぎた男二人が、映画の悪口を延々重ねていた。


 彼と最後に会ったのは、私が母親の介護を始める事になった事をmixiの日記に書いたら、わざわざ、近所の公園まで来てくれた。


 他愛ののないいつもの会話だった。


 懐かしかった。


 こんな事なら、会える機会を作っておけば良かった。

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