第85話 いつかに捧ぐ残香
「そういえば、私ひとつ気になったことがあったんですよ!」
それは結弦君がロンドンに飛び立って数日が経ったある日の放課後のことだった。
結弦君は無事にロンドンに辿り着けたようで、赤凪さん経由でそれを耳にした志津川さんが僕にそう教えてくれた。
佳穂ちゃんからの依頼もなんとなくひと段落を終え、当面の目標がすっかりなくなってしまった僕らは放課後にボランティア部の部室に集まって思い思いの時間を過ごしている。
僕はというと、昨日買ったばかりの『相沢さんちのリリカル☆メイド』の最新刊を10ページほど読み進め、名前の読み方が分からなくなってしまったキャラの振り仮名を確認しようと書籍冒頭のカラーページに目を通していた。
そんな矢先に聞こえてきたのが、先の志津川さんの明るく元気な主張だったのである。
放課後の部室に居るのは僕と志津川さんだけではない。長テーブルの対角線上に座る
流石に誰も相手にしないのはかわいそうなので、僕は仕方なく勢いよく立ち上がった志津川さんを宥めるように「気になったことって?」とそう尋ねることにした。
「さすが立花君ならば興味を持ってくださると思っていました!」
いや、その言い方だと鳴海さんは最初から興味を持ってくれないみたいな……。実際問題その通りになってるんだけどさ。
「まぁ、どうせ今回の佳穂ちゃんの一件に関してだと思うからさ」
そう言えば今回の件について、僕が志津川さんの手を借りた記憶はあまりない。
強いて言うなら赤凪さんと喫茶店で会う算段をつけてくれた時と、結弦君が旅立つ日に赤凪さんの居場所を僕へと教えてくれたときだろうか。
そういえば、佳穂ちゃんはあの日どうしてあの場所に居たんだろうか……。そして志津川さんはまるでその場所に彼女が来ることを知っていたような……。
「どうかしましたか?」
考え事をしていたのがバレたのか、志津川さんがキョトンとした表情で僕を見つめていた。直後に何か言いたげに彼女の可愛らしい口元が僅かに動いたが、ついぞ志津川さんはそれを言葉にはしてくれなかった。
「なんでもないよ。それよりもさっきの気になったことって……」
今回の依頼について志津川さんなりに思うことがあったのだろうか。
正直僕は今回しっかりと佳穂ちゃんの手伝いができたという自信を持てない。
それは当然、僕自身が佳穂ちゃんと同じ悩みを抱えていたのが原因で、僕が何を良しとすべきなのかの見通しが全く立たなかったせいだ。
もしまたいつもみたいに志津川さんが僕に助言をくれるのならば、それは是非拝聴したい限りである。
「……そんな険しい顔をしなくても」
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど」
僕が一言そう謝ると、志津川さんは何とも言えない曖昧そうな笑顔を浮かべた。
「ごめん、話を遮っちゃったみたいだね。それで改めて志津川さんの気になることって?」
「あぁ、実は今回どーしても私はひとつ引っかかっているのですよ」
志津川さんの引っかかることか。僕の佳穂ちゃんへの対応に不手際があったりしたのだろうか。
「いえ、立花君に悪いところがあったとかそういう訳ではないのです。むしろ立花君はよくやったと思いますよ。分からないなりに動いていたところは大変に素敵でした!」
……まるで僕が最初から壁にぶつかることを分かっていたかのような口ぶりだ。でもまぁ、一応はお褒めの言葉として受け取っておこう。
「そもそもですよ、佳穂ちゃんを立花君に紹介したのは誰でしょう?」
「それは……」
佳穂ちゃんが僕の元にやって来た時、そこには二人の美少女の帯同があった。
それが誰かと聞かれると、当然今この部室に居る二人な訳で。あの時の佳穂ちゃんの態度を思い出すに、間違いなく彼女と最初から親しかったのは志津川さんの方だ。
つまり佳穂ちゃんに僕を紹介したのは――
「志津川さんでしょ?」
「正解ですっ! それでは次の疑問です!」
志津川さんは可愛らしく右手の人差し指を顔の横で振って見せると僕に矢継ぎ早に次の言葉を投げてくる。
「それじゃあ
「……そんなの、友人でもある仁科君の妹が困ってたからでしょ?」
「立花君」
さも当たり前のことを口にしようとしていた僕を咎めたのは、先ほどまでただ黙って僕らの会話に耳を傾けていたはずの鳴海さんだ。
「ど、どうしたのさ」
突然の鳴海さんの介入に思わず戸惑ってしまう。しかし彼女は手元の漫画に目を落としたまま淡々と言葉を紡いでいく。
「立花君は、佳穂ちゃんが自分の悩みを誰かに打ち明けるように見えた?」
「そっ、それはっ……」
鳴海さんの質問に答えを用意するとすればそれは当然ノーだろう。佳穂ちゃんは自分の悩みを自分自身で解決するためにわざわざダミーに近い依頼を、それも二つも用意したのだ。
僕があの時彼女の真の悩みに辿り着くまで、本当に佳穂ちゃんは自分自身の迷う理由を誰にも話すつもりはなかったのだろう。
つまり志津川さんは最初から佳穂ちゃんの真の目的に気づいていた訳じゃない。もし気付いた瞬間があるとすれば、僕らが赤凪さんと喫茶店で会ったあのときだろう。
それじゃあ志津川さんは佳穂ちゃんが悩みを抱えている事とは別に、僕に佳穂ちゃんを紹介するだけの理由を抱えていたことになる。
鳴海さんが僕に伝えたいのは恐らくそういう事だろう。
「志津川さんが佳穂ちゃんを僕に紹介するに値する理由……」
当然、佳穂ちゃん自身の力になってやりたいというのもあるだろう。だけどそれとは別に志津川さん自身が得をするような何かがあったということだろうか。
(志津川さんが得をするような何か……)
「もしかして……」
「負けヒロイン……?」
「正解ですっ!」
志津川さんの顔にぱぁっと大輪の花が咲くのが分かった。
「夏休み中盤ごろでしょうか。たまたま仁科家にお邪魔する機会がございまして、そこで佳穂ちゃんと久しぶりに会ったのですが……」
仁科君と志津川さんが今でも親しい友人関係を続けていることは僕もよく知っている。あんなことがあった後も仲良くできるのは、仁科君、志津川さん含めその周辺に居るいろんな人の人の良さゆえだろう。
確かその時は粟瀬さんの課題の進捗が悪すぎて仁科君と志津川さんに泣きついたことが理由、というのは仁科君本人から聞いた話なのだが。
「……匂いがしたんですよ」
ぽつり、先ほどの大輪は何処へ行ったやら。志津川さんは複雑そうな表情でそう呟いた。
「出た、琴子特有の匂い」
茶化すように鳴海さんが口元を緩めるが、逆に僕は胸が締め付けられるような緊張感を覚えた。
彼女が何かをそう例えるときのことを僕はよく知っている。
『負けヒロイン特有の匂い』
決して実ることのない恋心という名の淡い果実の匂い。甘くて、酸っぱくて、それでいて何よりも切なさを感じる香りに、僕と志津川さんは囚われてしまっている。
「佳穂ちゃんからその香りがしたと?」
「ええ、そうなんですけど……おかしいと思いませんか?」
そう言って志津川さんは先ほど蹴とばすほどの勢いで後ろにずらした椅子に再び腰を下ろした。
「……佳穂ちゃんは一体だれにとっての負けヒロインだったんでしょう?」
「結弦君、じゃ……ない?」
志津川さんの嗅覚が今回は不発だった、と言われればそれまでだけど、確かにそう言われると気になってしまうものである。
「佳穂ちゃんは赤凪さんと結弦君の関係を歓迎していたのでしょう? その上で二人の間にある感情の正体を知りたがった。つまり佳穂ちゃんが恋敗れる相手というのは結弦君なんかじゃないはずなのですよ」
なるほど、志津川さんが今回の一件で引っかかったのはそこだったわけか。
うーん、佳穂ちゃんの想い人になるような相手で、なおかつ佳穂ちゃんのことを振るような相手か……。全く思いつかない。というかあり得るとすれば僕らが全く知らない相手なんじゃないか?
「クラスメイトとかなのかなぁ」
「……それがなんというか、最適解ですよね」
「むしろ琴子の気のせいという説を私は推すよ」
結局志津川さんの疑問は解消されることなく、僕らの話題はまた別の他愛のない話へと移っていった。
「さて、そろそろいい時間なので帰りましょうか」
志津川さんの掛け声を合図に僕らは部室を後にする。
「そだ、明日は駅前のファーバーの新メニューでも食べに行きましょうよ!」
「季節限定のスイーツでしょ? 琴子は相変わらずなんというか食い意地が張ってるよね」
志津川さんや鳴海さんほどの美少女だって恋は思い通りに行かないものだ。きっと佳穂ちゃんにもこの先そんな機会がやってくるのだろう。
「こ、これでもボランティア部の外ではお淑やかキャラで通ってるんですよっ!?」
しかしそれは僕が知るべきことではないし、僕が見届ける事でもない。
「立花君っ! 何か言ってあげてくださいよっ!」
いつか僕も来るのだろうか、自分自身の恋心と向き合うその時が。そしてその時、僕は彼女達みたいに笑えるだろうか。
悔しくても、悲しくても、それでも好きだった人のために精一杯笑えるような、そんな人間に。
まぁでも、今だけは――
「志津川さんはどんなふうにしてても可愛いよ」
「ちょっ!? た、立花君のそんな甘言にはもう騙されませんからねっ!」
ちょっとだけ異質な他愛のない日常に目を細めているのも悪くないものだ。
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