第83話 秋晴れに歌えば

 夕暮れに染まる木々の麓で、一匹のカナリアは愛を奏でる。


 一つ一つの言葉を噛みしめるように歌い紡ぐ様は、まるで赤凪さんと結弦君のこれまでの思い出を丁寧に再確認していくようにも思えた。


 二人の歩んだ物語なんて僕には到底見当もつかない。だけどその声が、その表情が、その歌が、二人の間に流れた時間が彼女達にとっていかに大切な時間だったのかを伝えてくる。


 胸の奥から切なさが込み上げてくる。だけどそれと同時に、優しさの中に見え隠れする力強さがなんとも心地よかった。


「あぁ……そうか」


 ぽつり、先ほどまで僕の隣で立ち尽くすのみだった佳穂ちゃんが言葉を零した。


「……そういうことなんだ」


 横目に盗み見た彼女の顔からからは、いつの間にか先ほどまでの不安と迷いが消え去っていた。


 そんな彼女の顔は今、頭上に澄み渡る空のように雲一つなく晴れ上がっている。


「立花さん……わたし、分かっちゃいました」


 佳穂ちゃんの言葉に同意するように、僕は一つ首を縦に振る。


 暗闇の中、ずっと歩き続けていた佳穂ちゃんが見つけたかったもの。それが何かを僕も同じく理解した。


 誰が呼んだか、青ヶ峰のカナリア。一羽の小鳥は、迷える一人の少女に導きの歌を届けてくれた。


「恋心に、決まった定義を求めようとしていた事こそ間違いだったんですね」


 そう言って佳穂ちゃんは僕に向けて小さく微笑んだ。


「赤凪さんと結弦君は二人そろって大丈夫、って口にしてたよ。あの時はよく分からなかったけど、赤凪さんの歌を聴いて僕もようやく理解したよ。あぁ、二人は大丈夫なんだって」

「言葉にするとなんかおかしいですよね。でも、私も同じ気持ちです」


 こう思えば恋だとか、こうなれば恋心だとか、恋ってそういう決まったものなんかじゃない。志津川さんと鳴海さんがあの日、僕の疑問にどうしてあんな風に答えたのかようやく僕も理解した。


 誰かを想う形に、決まった答えなんてない。


「あれが、きっと赤凪さんと結弦君の恋なんだね」

「はい、私もそう思います」


 二人して小さく微笑み合うと同時に、ピタリと赤凪さんの歌が止んだ。


 ふとそちらに視線を移すと、赤凪さんはその容姿には到底不似合いなほどだらしない格好でぼんやりと空を見上げていた。


「あっ」


 不意に隣の佳穂ちゃんが声を上げる。その声に驚いて再び彼女へと振り向くと、佳穂ちゃんはスマホを片手にぼんやりと空を見上げていた。


「……ど、どうしたの?」

「時間ですよ、時間」


 咄嗟にポケットからスマホを取り出して時間を確認すると、いつの間にか時刻は5時半を軽く過ぎたところを示している。


「ちょうど今ぐらいの時間でしょうかね」

「えっと、空港はここから東の方角だから……あっ」


 夕暮れの秋空に、キラリと小さく何かが光った。


「時間的に恐らくあれでしょうね」

「だね。一度羽田に向かって、そこから乗り換えでロンドンか……。長旅だね」

「ですねぇ……。でも」

「「大丈夫」」

「なんだろうね」

「なんでしょうね」


 僕と佳穂ちゃんの声が不意に重なり合った。その様が可笑しくて、二人して小さく笑い声をあげる。


「そういえば、僕も分かったよ」

「……何を、ですか?」

「僕もずっと考えてたんだ。恋心って一体何なんだろうって」


 志津川さんの時や鳴海さんの時のように僕が佳穂ちゃんの手を積極的に引いてやれなかったのは、僕自身が彼女と同じ悩みを抱いてしまったからだ。


 僕が志津川さんや鳴海さんに抱く感情は彼女達が仁科君に抱いた感情と同じなんかじゃない。そう自分の中で決めつけてしまっていたから、僕はずっと本当の恋心の形に迷い続けていたのだろう。


「……わたしと同じですね」


 つい零れてしまった僕の胸中に、だけど佳穂ちゃんは照れくさそうに一つ笑ってくれた。


「……恥ずかしくて言えなかったんだ。相談を受けた癖にこの様なんて情けない限りだよ」


 ボランティア部として依頼主を助けるべき立場なのに、僕はいつの間にか佳穂ちゃんと同じ道を歩いていた。


 真っ暗で、目的地も分からなくて、だけど、なんとなくいつか答えに辿り着けるようなそんな気がしていたのはどうしてだろうか。


「琴子さんはどんなふうに助けてくれたんですか?」

「……もしかしなくてもバレてた?」


 この場所に僕が辿り着けたのは間違いなく志津川さんのおかげだ。彼女が赤凪さんに直接場所を聞いてくれなかったら、僕はきっと途方に暮れていたに違いない。


「志津川さんには本当に頭が上がらないよ」

「いいじゃないですか。助けてくれる人がいるって、きっと素敵なことですよ」

「そうかなぁ。僕が不甲斐ないからもどかしいだけなのかも」


 僕がもっと優秀な男、例えば目の前の美少女の実の兄みたいな人間だったら、もっと手際よく皆を助けられるのだろう。


 そう思うと、情けなくなると同時にこれまで自分が関わった人たちに対して申し訳なさが湧いてくる。


 しかし、僕の愚痴に対して佳穂ちゃんはあっさりと予想だにしない回答を口にして見せる。


「多分そういうところが、立花さんの魅力なんじゃないですか」

「……どういうこと?」


 その問いかけに、しかし佳穂ちゃんは答えることなく背を向けてその場を立ち去ろうとする。


「……内緒ですっ」


 そう言って笑う佳穂ちゃんの表情はこちらからは見えなかったけれど、なんとなくその声は明るい色をしていた気がする。

 

「さて、わたしは真理ちゃんに会いに行ってきます」


 不安と迷いが消え去った今、彼女の踏み出すその一歩はこれまで見た中で最も軽やかな足取りだった。


「……行ってらっしゃい」

「立花さんは来ないんですか?」

「惚気話はもうお腹いっぱいだからね」


 お生憎とその手の話はもう親友の分で事足りている。


「そうですか。……あっ、そうだ」


 ふと、赤凪さんの元に向かっていた彼女のつま先が僕の方へと向き直る。


「改めてありがとうございました。そ、それと…………えっと、これからも仲良くしてくれると嬉しいですっ!それではっ!」

 

 その言葉を最後に、彼女は自らの親友の元へと駆け出して行った。


 そりゃせっかく出来た縁だし、これからも仲良くしていくのはやぶさかではないのだけれど……どうして最後に佳穂ちゃんは改めてそんな言葉を口に出したのだろう。


 その意図を読み取ろうにも、去り際の彼女の顔は差し込む西日のせいで真っ赤に染まりあがり何も分かりそうにはなかった。


 再び佳穂ちゃんに視線を向けると、既にそこにはペンギンを抱いて驚く赤凪さんとそれに笑いかける佳穂ちゃんの姿があった。


「見えてなかっただけでちゃんとぬいぐるみ持ってきてたんだ……」


 とかく、これで一応は依頼達成だ。


 僕自身、今回の依頼には至らない点が多くあったと思う。


 それでもこうして二人と一匹。前と同じかそれ以上に笑いあえる時間を取り戻せたのであれば、僕にとっては十分な成果と言えよう。


「さて……帰るか」


 その前に、不意に彼女の声が聞きたくなった。


 ポケットからスマホを取り出すと、僕はおもむろに最近すっかりかけ慣れてしまったその番号へと連絡を入れる。


「志津川さん、突然ごめん。実は今日のお礼が改めて言いたくってさ――」


 スマホ越しの優し気な声に耳を傾けながらふと空を見上げると、飛行機の消えた空の向こうには宵の明星が小さく輝いていたのだった。


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