第80話 立花一樹の生き方

『そういえば、結弦君が旅立っちゃうのって明日ですよね?』


 ベッドの上でスマホを眺めていた僕の元に、志津川さんからそんなメッセージが送られてきたのはまだ髪の毛も半乾きのままのお風呂上がりのことだった。


「そういえばそうだ……」


 送られてきたメッセージにつられて一人ぼっちの自室に僕の呟きが響く。


 佳穂ちゃんが本当に探していたものにようやくたどり着けたことで、僕はそのことがすっかりと頭の中から抜け落ちていた。


「私の友人の、最高のお別れを演出して欲しい……か」


 佳穂ちゃんが僕に頼み込んだ新たな依頼。しかしその期限も考えてみればもう明日に迫っている。一体何をすればいいのか、いや、そもそもあんな二人に僕らがなにか出来る事があるのだろうか。


 そう考えた瞬間、ベッドに沈み込む僕の体がよりいっそう重たくなったように思えてしまう。


「というかそもそも、飛行機の時間知らないじゃん……」


 連絡先からとある人物の名前を探し出すと、僕はすぐさま彼女へとメッセージを送った。 


 志津川さんには「そうだね」とだけ返信をし、少し味気ないかとしばらくしてからタタッキー君のスタンプを付け加える。


 この前水族館に行った時にタタッキーを気に入った雫梨が僕へとプレゼントしてくれたものだ。


『17時30分の飛行機だそうです』


 彼女からの返信は早かった。


 17時半か……。到底間に合いそうにないな。


 滝田から一番近い空港はここから一時間ほど電車で行ったところにある。


 生憎とただの地方空港であるそこにロンドンまでの直通便がある訳もなく、恐らく一度羽田を経由してのフライトになるのだろう。


 慌ただしいそんな最中にゆっくりと会話をする時間なんてないはずだ。


『……あの、今から少しだけお会いできますか?』


 僕のスマホにそんなメッセージがポップアップした。


 恐らく、画面の向こうの彼女も僕のようにどうしていいのか迷っているのだろう。時刻を伝えて来てから次のメッセ―ジが送られてくるまでの間が、なんとなくその迷いを物語っているような気がした。


『僕は良いけど、そっちは時間は大丈夫?』

『ええ、兄には上手く伝えておきます』


 あのシスコン兄貴を一体どんな風に言いくるめるのだろう。その光景を想像するとちょっとだけ笑えて来た。


 桑倉学園二年A組仁科奏佑にしなそうすけ

 

 イケメンで勉強も出来て、その上運動も得意。おまけに周囲への気配りだって忘れない。まるで漫画やラノベの主人公のような男。そんな彼の数少ない欠点が、実の妹に非常に甘いと来たもんだ。


 そんな彼の妹こそ、今回僕の元へと依頼を持ち込んだ仁科佳穂にしなかほその人である。


「いつ兄、どっか出かけんの?」


 玄関で靴を履いていると、背中越しに聞き馴染みの声が飛んできた。


「ん、まぁ……」


 お風呂上がりのラフな格好に身を包んだ我が妹は、僕の言葉に僅かに考え込むようなしぐさを見せると、すぐに「ちょっと待ってて」とだけ言い残し自室に姿を消した。


 1分もしないうちに再び姿を現したかと思えば、なぜか彼女の手には男性用のヘアオイルが握られている。


「そんな頭で女の子に会いに行くのはいただけないなぁ」


 そう言いながら手にオイルを馴染ませた雫梨しずりは、その後僕の頭を乱雑に弄ると、やがて満足したように一つ小さく頷いた。


「うん、いい感じ……」

「何もそこまでしなくても……」


 僕がそう言うと雫梨は大きくため息を吐く。


「これだからいつ兄は……。女の子に会うんだったらいつだって身だしなみぐらい整えておきなって」

「そ、それは……っ」


 何か反論でもしてやろうと思ったけど、慌てて部屋を出た僕にとっては彼女の言葉は全くのド正論でそれ以上何も言い返せそうにない。


 というかそもそも――


「どうして僕が今から会うのが女の子だと思ったのさ」


 僕は雫梨にそんな言葉を一つも言っていないはずだ。しかしそんな問いかけに雫梨は「んーなんとなくかな」と曖昧な答えしか返さない。


「なんだよそれ……それじゃあ僕はもう行くよ」

「うん、気を付けて。……あ、そうだ」


 玄関の扉が今にも閉まり切りそうなその瞬間、雫梨の声が扉の向こうから聞こえてくる。


「さっきの質問だけど」

 

 扉の僅かな隙間から、我が妹のどこか呆れたような笑顔が顔を覗かせていた。


「強いて言うなら、水族館からの帰り道と同じ顔をしていたから、かな」


 親友のカズからは、僕は表情で考えていることが分かりやすい、なんてことをよく指摘される。


 自分ではそんなつもりはないけれど、ある程度親しい人間からは僕はそんな風に見えるらしい。


 しかし今回に限ってはちょっとだけ違う。雫梨が僕の表情に気づいてくれたことがなんというか、少しだけ嬉しかった。


 ずっと考えてたんだ。


 僕は一体佳穂ちゃんに何をしてやれるのだろう、と。


「私は……この怖さと、向き合ってもいいんだ……っ」


 か細い体を小さく震わせながら、だけどその拳をめいいっぱいに握りしめながら、彼女はあの日精一杯の勇気を振り絞った。


 その勇気に報いてあげたかった。


 あの日気付いてあげられなかった君の怖さを、僕はずっと拭ってあげたかった。


 佳穂ちゃんが結弦君と赤凪さんのことを依頼してきたあの日のことを考えていたら、気付けば僕は佳穂ちゃんとの待ち合わせの場所まで辿り着いていた。


 夜の滝田駅。ロータリーには沢山のタクシーとそれに乗り込んでいく様々な人たち。路線バスはこの時間は本数が少ないらしく、今はその姿はどこにも見えない。


 学生の多い夕方の時間とは違い、僕より一回りも二回りも年齢が上の人たちが帰路に向かってそそくさと足を動かしている。


 時刻は20時を少し回ったところ。僕にはあまり馴染みのない滝田駅の姿が、そこには広がっていた。


 彼女は――仁科佳穂にしなかほは、駅前のロータリに付設された木製のベンチで、そんな光景をぼんやりと眺めていた。


「こんばんは、待たせたかな?」

「こんばんは立花さん。いえ、私も今来たところですので」


 いつかと同じように、どこか儚げなその笑みが、街の光に照らされてぼんやりと浮かび上がっていた。


「それで、僕に会いたかった理由って?」


 彼女の隣に腰を下ろすと、僕も同じように夜の街並みに視線を投げた。見慣れたはずの駅前がどこか違うもののように思えてしまうこの光景はちょっとだけ面白かった。


「……特に理由はありません。……少しだけ、立花さんに会いたかっただけです」


 美少女にまさかそんな言葉をかけられる日がくるなんて、一年前の僕は思ってもみなかったことだろう。ここ数か月は志津川さんのせいで慣れたものだけど、しかし彼女以外となるとまた話は別だ。


 僕が驚きと戸惑いの入り混じった表情を浮かべたことに気づいたのだろう。ふと佳穂ちゃんの表情を覗き見ると、そこにはどこか楽し気な顔をした彼女が小さく肩を震わせていた。


「……そんな軽口が叩けるような女の子だったんだね」

「ふふっ、立花さんにしか言いませんよ、こんなこと」


 男子三日会わざれば刮目してみよ、なんて諺がある。だけど僕に言わせれば女の子の方がよっぽどだ。


 儚さと妖艶さの入り混じったその瞳は、僕をどこまでも吸い込んでしまいそうだ。


「……立花さんは聡明な方だと聞いています」


 しかしその儚さと妖艶さはすぐに姿を消し、次に彼女の瞳を染めたのは小さな不安だった。というか先ほどのはただの冗談で、きっと彼女は僕に会おうとした時点で何を話すか決めていたのだろう。


「そ、聡明って……誰が」

「兄ですよ。それに、琴子さんも同じことを」

「そんな、あの二人に比べたら僕なんか……」


 テストの順位だって彼らとは100以上も離れている。そんな僕に聡明なんてこんな似合わない言葉があるのだろうか。


「お勉強ができるとかそういう意味じゃありません。他人の事を考えて、何を為すべきなのかをしっかりと検討するお方だと」

「そ、そう言われると……まぁ、そういう集団だからね、ボランティア部って」


 ふと右手に温もりを感じる。その暖かさにつられるように視線を動かすと、佳穂ちゃんの手のひらが僕の手の甲を包み込んでいた。


「結弦君と真理ちゃんにも会ったそうですね」

「そうだね、君の依頼を達成するためには、必要なことだと判断した」

「なら、聡明な立花さんは……もう気付いてしまったのではないですか?」


 佳穂ちゃんの瞳に映る街並みは、僕の瞳に映るそれよりもじんわりと滲んでいるに違いない。


「……うん、気付いてるよ。佳穂ちゃんが本当は何を探していたのか」


 彼女の小さな肩がいちど小さく震えるのが分かった。


「なら、もうわたしの依頼はここで――」


 佳穂ちゃんにとって、この真実は決して誰にも知られたくなかったことだったのだろう。だから回りくどいお願いをボランティア部に持ち込んででも、そこに辿り着ける方法を彼女はずっと模索していた。


 だけど僕にそれを知られてしまった今、彼女はもうその先を決して望むことはない。上手く言葉に出来ないけれど、それはなんというか、とっても寂しいことだ。


 これまでだって、やむにやまれぬ事情で依頼が取り下げることが無かった訳じゃない。


「依頼を取りやめるのは依頼者の自由だよ」


 僕に重なるそのか細い指に、小さく力が入るのが分かった。僕なんかよりも何倍もこの手の持ち主は聡明だ。明るくて、謙虚で、それでいて苦しんでいるその様を悟られまいと必死だった彼女。


「そ、それじゃあ今回の依頼はやっぱりここまでという事で――」

「でもね、佳穂ちゃん」


 僕は物語の主人公じゃない。


 いつだったか志津川さんが言っていた。「みんながみんな、自分の想いを抱えて生きているんです。主人公だとかメインヒロインだとか、そういうお話じゃないんですよ」と。


 僕にだって出来る事がある。僕にだって成したいことがある。


 志津川さんを見守って、鳴海さんの背中を押して、今度は佳穂ちゃんの背中を押そうとしている。


 今この場に限っては、僕に重なるこの小さな手の震えをどうにかして拭ってやりたいと願っている。


 だからそこ告げるのだ。


「僕はまだ、君を救うことを諦めてないんだ」


 僕の覚悟であり僕の矜持。そして、これこそが僕の決めた立花一樹ぼくの生き方なんだ。

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