第79話 答えなんかどこにもなくて

「恋心って一体何なんだろうね……」


 結弦君との邂逅を無事に終えた翌週、放課後のボランティア部の部室でそんな言葉が僕の口から零れ落ちた。


「と、突然どうしたんです……?」


 何やら自分のスマホと向き合って目を潤ませている志津川しづかわさんを横目に、運動部の活気ある声が飛び込んでくるグラウンドの方へと視線を移す。


「いや、ここ数日ずっと考えてたんだけどさ……」

「結弦君と会った日からですよね」

「ん、まぁ」


 結弦君と僕の間にあった会話は、いかに志津川さんと言えど伝える訳には行かなかった。


 その代わりといってはなんだけど、二人の関係と、今彼らがどう思っているのかだけはかいつまんで志津川さんには話してある。


 ファミレスで会った日の赤凪さんが僕らに別れ際にかけた言葉と、そして結弦君が僕へと話してくれたあの言葉。


 「大丈夫」


 それが二人の共通認識であることだけは、志津川さんにはしっかりと伝えてある。


「佳穂ちゃんはずっと知りたがってたんだなって……」

「恋心……ですか?」

「うん」


 佳穂ちゃんがどうしてあんな依頼を持ち掛けてきたのか。そこに僕は一つの憶測を立てた。


 それこそが、「仁科佳穂にしなかほは恋心を知りたがっている」という説である。


 自分の兄のデートを尾行したり、親友の関係を今より進展させようとしたり。


 そうすることできっと、彼女は自分が今だ抱いたことのない恋心を知ることが出来ると思ったんじゃないだろうか。


「……立花君は、分かります?」


 不意に僕の隣に仄かな熱が舞い降りた。


 みれば先ほどまで長机の対面に座っていたはずの志津川さんが、自ら腰かけていた椅子をもって僕の隣にやって来たのだ。


 我が学園の男子生徒だけに限らず、他校の生徒やはたまた街往く人々まで魅了する彼女の美貌。


 それが今、手を伸ばすだけで触れられてしまうような距離に存在している。


 そう認識した瞬間、僕の心臓の奥がカッと熱くなるのが分かった。


「ち、近いよ……」

「わざと近づいていますよ」


 志津川さんの透き通るような綺麗な瞳が、僕を捉えて離してくれない。


 瞳だけじゃない。


 窓からの風に揺れるサラサラの髪も、新雪を彷彿とさせるような白い肌も、そして木漏れ日のような暖かな声も、志津川琴子しづかわことこの魅力全てが、僕を決して離してくれない。


「……私のことは、お嫌いですか?」

「き、嫌いな訳ないよっ!」


 ――むしろ僕はそんな君が、どうしようもないほどに愛おしいと思っているんだ。


「……でも、この気持ちはきっと恋心じゃない」


 そう零した瞬間、志津川さんのその綺麗な顔に影が落ちたような気がした。しかし直ぐにいつもの明るい顔つきに戻ったところを見るに、きっとさっきのは僕の気のせいだったのだろう。


「立花君は恋を知らないお子ちゃまと……」


 二人の間の妙な空気を嫌ってか、志津川さんが僕を茶化すようにそんな声をあげた。


「や、ま、まぁ、そう言えばそうなのかもしれないけど……」


 小学校の低学年ぐらいまで遡ってしまえば、そりゃ好きな女の子の一人ぐらいはいたのかもしれない。でも幼心に抱いた恋心と今こうして思春期真っただ中を過ごす過程で抱いた恋心は全くの別物だ。


 佳穂ちゃんが知りたがっているのは間違いなく後者。


 そう考えると、僕も彼女と一緒で恋心を知らないということになるのだろう。


「はぁ……なんというか二人ってめんどくさいよね」


 そんな時だった。先ほどまで僕らのやり取りを意にも介していなかったはずのもう一人が、呆れ声でそう呟いた。


「め、めんどくさいですか……?」


 その声に先に反応したのは志津川さんだった。


 志津川さんは先ほど僕の隣に寄せて来ていた椅子を再び持ち上げると、声の主である鳴海なるみさんの元へとそそくさと向かっていく。


「わ、私……めんどくさい女ですかぁ?」

「琴子のそういうところがめんどくさいんだよ」


 ボランティア部員ではないけれど、ここのところ暇さえあれば鳴海さんもよくこうしてボランティア部の部室で放課後を過ごしている。


 相変わらず美術部に籍を置く気はないけれど、気分が向いたらまたいつもの場所で絵を描いてはいるらしい。


 つまり今日は気分が向かなかったか、それとも僕に特別な用事があったか。


「彩夏さん、そう言えばわんでぃどうですか?」

「あー、今のところ面白いね。私は咲良さくらが好きかも」


 いや、彼女が今持っている本を見るに用事があったのは僕じゃなくて志津川さんの方だったのだろう。


 週刊少年ポップで連載中のラブコメディ「わんでぃ!」。


 生徒会が用意した様々な試練を乗り越えると、好きな女子生徒と一日デートが出来るチケットを手に入れることが出来る。

 

 そんな制度がある学園に入学した主人公は、入学式の日に一目ぼれした同じクラスの藍沢陽詩あいざわうたとデートをするために様々なライバルたちとチケットを争って戦っていく、というコメディ色の強いラブコメだ。


 笑いあり、涙あり、友情あり、そしてドキドキするような恋模様も展開される。最近一部界隈で話題沸騰のラブコメである。


 この「わんでぃ!」なのだが、実は僕は単行本を未所持である。スマホアプリで毎週読んではいるけれど、どうやら志津川さんは週間連載も単行本もどっちも追いかけているほどの強者らしい。


 そして最近はその単行本をこうして鳴海さんに押し付けている。


「鳴海さんの咲良推し、なんとなくわかるかもしれません」

「ちょっとどういう意味っ」

「いや、気持ちを上手く打ち明けられないあたりが」

「うぅう、私は好きでこうしてるんだよっ!」


 志津川さんと鳴海さんは、夏休み以降どんどん距離が縮まっている。今みたいに軽口を叩き合っている様子を僕はよく目の当たりにしていた。


 二人は互いの恋愛事情を打ち明け合った仲らしいし、お互いに思うところはあるのだろう。


「鳴海さんはさ、恋心ってなんだと思う?」


 鳴海さんだってずっと恋をし続けてきた女の子だ。いや、正確に言うと彼女はこの先もずっと、仁科君に恋をし続けていくのだろう。


 そんな鳴海さんであればさっきの志津川さんみたいにはぐらかさないで答えてくれるかもしれない。


「……立花君は私に何を期待してるの?」

「あぁいや、鳴海さんなら答えてくれるかもって思って」


 そう言うと鳴海さんはまた先ほどのように小さく一つため息を吐いた。


「琴子がしっかりと答えなかったことが答えなんじゃない?」

「えっ、それってどういう……」

「恋心がどんなものかなんて、それって誰も分かんないんじゃないかな。琴子、次の巻貸して」


 志津川さんから漫画本を受け取る鳴海さんは、僕の期待とは裏腹にそれ以上僕には何も言ってはくれなかった。


「私も同じ考えですねぇ」


 助けを求めるように志津川さんへと視線を向けると、彼女は苦笑いを浮かべながら僕へとそう告げてきた。


「……分かんないや」


 深々と椅子に腰を下ろして部室の天井を見上げる。


 しかしそこに答えなんて書いてあるはずもなく、僕の意識は見慣れた天井と校庭からの声に混ざっていくような錯覚を覚えた。


「正解のないものを、僕はどうやって伝えればいいんだ……」


 そんな僕の心を支配したのは、二人を遠くに感じてしまった事に対しての寂しさと、何か大切なものが心の中から抜け落ちてしまっていることに気づいたことへの喪失感。


 結弦君も言っていた。「佳穂はきっと、俺らの関係があいつにとって手の届かない何かだと思ってるんじゃないんですかね」と。


 あの言葉の意味が今なら少し分かるような気がする。


「佳穂ちゃんもきっと、今の僕と似たような気持ちなんだろうな」


 二人には決して聞こえないように、僕は小さく声を零した。


 世界は今日も知らないことでいっぱいだ。


 普段はそんなこと当たり前だと思っていたのに、今の僕はそのことがどうしようもなく寂しいことのように感じた。

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