第77話 きっと語られぬピアノソナタ

 思えば、如月結弦きさらぎゆづるの人生にとって音楽とは生きるための指標だった。


 幼い頃から音楽家の父と母によってピアニストの道を歩み、その道の過程でいくつもの目標や壁にぶつかってきた。


 彼がこれまで出会ってきた友人だって、その多くが彼のピアニストとしての道中で出会った人物だ。当然、彼女だって――


「あと四日か……」


 放課後の公園。彼は腰を下ろしたベンチで一人ぽつりとスマホのホーム画面に映し出された日付を眺めた。


 結弦の通う学校からほど近いこの公園は、今も多くの生徒で賑わっている。


 そんな生徒の中にいつの間にか無意識に彼女の姿を探している自分に気づいて、そっと彼は口元を緩める。


「イギリスかぁ……遠いな」


 その決意を固めたのは、中学生活最後の夏休みがいよいよ始まろうとしていたころだった。年の近いピアニストたちが一堂に会し、その技術の術を存分にぶつけ合うその場所で、彼は一番栄誉ある盾を片手にそう決めた。


 生きるための指標、と先ほど述べたが、結弦はその道を何度もこれまで逸れてきた。


 生活にこれでもかというほど染みついていた音楽が苦痛になってしまったのはいつからだっただろうか。そんな生活から逃げ出したくて、彼は何度もピアノの前から姿を消した。


 しかしそんな彼の前に立ちはだかった存在こそ、まるで絵本の中から飛び出てきたかのような一人の可憐な女の子であったのは言うまでもない。


 鍵盤を叩くのがこれほど楽しいと思ったのはいつ振りだろうか。彼女のために音を奏でるその時間が、いつのまにか苦痛であったはずの音楽を再び楽しいものだと思わせてくれた。


 赤凪真理愛あかなぎまりあ。通称青ヶ峰のカナリア。


 そんな可愛らしいあだ名で呼ばれている彼女だが、凛と澄んだ歌声と、どこか見るものを惹きつけてやまない力強い瞳を思えば、そのあだ名は少々似合わないなと笑えて来る。


 自らを音楽の道へと再び引きずり戻してくれた彼女を思いながら、結弦は思わず空を仰いだ。


「君が結弦君だね……?」


 思い切り伸ばした背骨が景気のいい音を立てた瞬間、不意に自分の名前が呼ばれたことに気づく。


 ふと声の飛んできたほうを見やると、そこには見知らぬ制服姿の少年が立っていた。


「……そうだけど、あんたは?」


 あぁ、いきなりごめん。そう言いながら彼は結弦が腰を下ろすベンチの一つ隣のベンチへと座る。急に自分の名前を呼んできたものだから、自然と結弦の視線には不信感が混じっていた。


 見慣れぬ制服。知らない顔。もしかして自分が忘れてしまっただけかも、そう一瞬思いもしたが、青ヶ峰高校の制服ですらないところからして本当に自分は彼を知らないのだろう。


「僕は桑倉学園二年生の立花一樹たちばないつきって言うんだ」


 年上か。どこか幼さの残る横顔から同い年かと思いもしたが、彼の自己紹介を聞いて結弦は僅かに先ほどの失礼なもの言いを反省した。


「先輩……だったんすね。生意気な口を利きました」

「いいよいいよ。僕ってこんななりだしね。それに、こちらこそ突然声をかけちゃったし」


 彼の柔らかな態度に、いつのまにか結弦の警戒も自然と緩んでいく。悪い人ではなさそうだ。これまで多くの人間に出会うことによって磨かれてきた彼の人を見る目が、立花一樹と名乗った少年をそう判断した。


 だけど、それと同時にどこか掴みどころのない人だとも思った。


 飄々としている訳でも、冷たい態度をとっている訳でもない。しかしその本心がどうにも顔を出してくれない。


 観察してみれば見るほど、先ほど雲隠れしてしまった警戒心が再び結弦の中に湧き出してくる。


「……俺に何か用ですか?」

「あぁ、えっと……」


 そう言って一樹は言葉を探す。そんな様を見ながら、結弦はこれまで自分に声をかけてきた人間を思い返していた。


「一緒にバンドを組んでくれとか、セッションしてくれってのはお断りしてるんすよ」


 これまで自分に声をかけてきた見知らぬ人間は大抵そんな要望を口にしてきた。別につっけんどんにあしらいたい訳じゃないが、イギリス留学の出発日までもう既に4日だ。今更そんな要望に応える時間的余裕もない。


「いや、別にそんなつもりじゃないんだ」


 ピアニストの性か、それとも彼本人の癖か。結弦の視線は自然と身振りで先ほどの言葉を否定して見せる一樹の指先を追いかけていた。


 確かに楽器を演奏しているような指先じゃないな。長年の勘がそう告げたのを確認して、結弦は疑問を口にする。


「それじゃあ俺に一体何の用で?」

「……赤凪さんのことについて聞きたくて」


 ようやく振り絞った一樹の言葉に、だけど結弦の胸中に浮かんだ感想は「またか」というなんとも味気ない一言だった。


「立花さんは真理愛のファンとかっすか?」


 これまで自分に声をかけてきた人間なんて、自分の音楽の才能に興味のある人間か、それとも個人的に親しくしている赤凪真理愛あかなぎまりあに興味のある人間だけだ。


 今回は後者。いつものように適当に断って引き下がってもらおう。


 さて、どう言葉を続けたものか。そう思って結弦が自分の脳内から言葉を引き出そうとしたその時だった。


「違うよ。僕は仁科佳穂にしなかほの協力者だ」


 自分の心臓が想像以上に一つ鳴ったのに驚いた。その名前は結弦や真理愛の友人関係を知らなければ絶対に出てこない名前だ。


 結弦にとってはちょっと世話焼きなクラスメイト。真理愛にとっては心の友。


 立花一樹と名乗る少年が口にしたのは、二人にとって親友とも呼べる間柄の少女の名前だ。


 更にはその名前ののちに、彼は「協力者」と付け加えた。いったい何を彼は協力しているのだろう。結弦の脳内は混乱するばかりだ。


「……状況が分からないんだけど」

「君にとってはそりゃそうだよね」


 分かった、一つ君に信用してもらうための大事な話をしよう。そう付け加えて、一樹は今まで腰を降ろしていたベンチを離れ、その体を今度は結弦と同じベンチへと動かした。


 男二人。体一つ分の距離を離して、妙な沈黙が流れる。


「信用してもらうための話……っすか?」

「まぁね。というより、僕もまだ状況が上手く呑み込めていないんだ。いや、正確には、状況は分かっているけど、パズルのピースが足りないって言ったところかな」

「……何言ってるのかさっぱりわかんねぇっす」

「だよねぇ」


 そう言って大きくため息を吐く一樹に、なぜか結弦はちょっとばかり同情する。なんというか、彼はきっと苦労人なのだ。それも、背負わなくてもいい苦労をわざわざ自分で背負いに行くタイプ。


 そういう人間に、結弦も少々心当たりがある。彼の父の弟、つまり叔父にあたる存在が、目の前の少年とよく似ていた。天才作曲家と呼ばれた父と、その才にかまけて好き勝手やって来た父を支えてきた叔父。


 だがそんな彼は、その生き方を存外好ましく思っていることも結弦はよく知っていた。


「状況はよく分かんねぇっすけど、立花……さん? が苦労してるのは分かりました」

「そう言ってくれると助かるよ」

「それで、いったい何が知りたいんです。俺に出来る真理愛の話なんて……」


 彼が赤凪真理愛と最初に出会ったのは中学2年の春のことだ。他人に語れるようなことなんて、思ったよりも少ないことを結弦はこの時になってようやく気付く。

 

「ごめん、一個訂正させて欲しい」


 しかし、そんな結弦の気持ちを知ってか知らずか、一樹は慌てて先の発言を修正にかかる。


「聞きたいのは――赤凪さんと、君のことだよ」

「俺と……真理愛のこと……ですか?」


 九月も半ば。公園に影を落とす木々が、街中を吹き抜ける風とともに小さく身を揺らす。そんな光景を横目に、結弦はいつかの日に抱いた決意が揺らぎ無いことをもう一度確認した。


 大丈夫。そう彼女が言ってくれたから、きっと俺たちはもう大丈夫なんだ。

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