第76話 焦がれる彼方の感情

 親友ともいえる赤凪真理愛あかなぎまりあとの出会いは中学の入学式の時だった。


 まるで絵本の中から飛び出てきたかのような女の子。


 体育館に所狭しと敷き詰められた新入生たちの中でも特に目立つ容姿をしていた彼女に、仁科佳穂にしなかほはぼんやりとそんな感想を抱いたものだ。


 思えば、あの時の出会いこそが仁科佳穂という少女の運命を大きく動かした出来事であったのかもしれない。 


「……佳穂ちゃん、どうかした?」


 いちごのショートケーキを彷彿とさせるかのような甘い声が、夕焼けに照らされた放課後の通学路を歩く佳穂の名前を呼んだ。


「……ちょっと考え事してて」


 ふと懐かしんだ昔の思い出を振り払って、佳穂は隣を歩く親友へと曖昧そうに表情を崩す。


「急に黙り込んじゃったからどうかしちゃったのかと思ったよ」

「ごめんね、別に無視してたとかそういうんじゃないの」

「分かってるよ」


 そう言って真理愛は佳穂の数歩先を歩いていく。


 そんな彼女の背中を見ながら、佳穂は未だに心に小さく引っ掛かり続けている棘の存在を意識した。


「結弦君、もう来週には行っちゃうんだっけ」

「うん、日曜日の飛行機で飛び立つんだって」


 速足で真理愛の隣まで歩くと、佳穂はそっと彼女の横顔を覗き込む。


 そこにあったお姫様のような綺麗な顔には、最近見かけることが増えた佳穂の知らない未知の感情が浮かんでいる。


「そっか、遠くに行っちゃうね」

「そだねぇ……」


 思えば、この三年間で彼女は随分と遠くに行ってしまったような気がする。いや、元を正せば、赤凪真理愛という少女は最初から身近には居なかったのかもしれない。


 青ヶ峰のカナリア。


 そう呼ばれる親友は、入学の時から周囲に様々な期待の目を向けられてきた。


 小さい頃から声楽を学んでいた彼女は、知り合った時にはもう既に様々な人達から数えきれないほどの期待を寄せられていた。


 その歌声は人々を魅了し、その歌声は多くの人の想いまでをも遠くまで響かせる。


 佳穂も、彼女のそんな歌声に心惹かれた一人であった。


「佳穂ちゃん、今日は随分と静かだね」

「そんなつもりは……ないけど」


 彼女の隣に居ても恥ずかしくない人間になれるよう、そう思ってこの二年と半年を過ごしてきたつもりだ。


 だけど、どこまで追いかけても真理愛をもっと遠くに感じてしまうのはどうしてだろう。


 それこそがここ数か月の佳穂を悩ませている原因だった。


「真理ちゃんは寂しくないのかなって」

「何を?」


 その原因に気づいたのは本当に些細な出来事がきっかけだった。


 兄に彼女が出来た。


 佳穂には二つ年上の優秀な兄がいた。仁科奏佑にしなそうすけ。勉強も出来てスポーツも得意。おまけにカッコよくて優しい自慢の兄だった。


 そんな兄にこの夏恋人が出来た。佳穂がそれに気づいたのは、近所に住む、佳穂が姉のように慕う粟瀬柚子あわせゆずの態度が露骨にあからさまだったからだ。


 まぁ、そうなる以前から柚子が奏佑に想いを寄せていたことに気づかない佳穂ではなかったのだが、晴れてこうして公認の中になったとなるともどかしい思いを抱えていた佳穂にとっては喜ばしいことではあった。


 しかし、そんな二人の関係の進展こそが、佳穂に新たな想いを抱かせることになる。


「結弦君が行っちゃうこと、寂しく思ってないのかなって」

 

 自分の親友は、とある男の子と居るときだけ自分の知らない顔をする。


 それに気づいたのは、間違いなく幼馴染でもあった柚子の表情がきっかけだ。


「……佳穂ちゃんはどうしてそんなことが気になるの?」

「だって……っ」


 果たして口にしてもいいのかどうか、佳穂は僅かに逡巡した。


 赤凪真理愛あかなぎまりあ如月結弦きさらぎゆづるに恋をしている。


「私が、結弦君のことが好きだから?」


 わたしの親友はどうしてそんなに綺麗な顔が出来るのだろう。


 夕暮れに横顔を染めながらぽつりと言葉を零す親友を見て、佳穂の体は何とも言えない切なさに包まれる。


「分かってるならどうして……」


 才能ある友人がいる事と、兄が僅かに自分を過保護に思っていること以外は佳穂は普通の中学生だった。人並みにドラマや漫画も見るし、人並みに男女の心の交わりに理解だってある。


「好きなのにそのままにしちゃうの……?」


 佳穂が見てきた人達はみんな、意中の相手と両想いになれることを夢見てきた。


「好きなんでしょ……? 一緒に遊びに行ったり、一緒に手を繋いで帰ったり、一緒に映画見たり……。それもこれも、言わなきゃわかんないじゃんっ。このままだと何も言わないまま結弦君、イギリスに行っちゃうんだよっ!? だったらどうして……っ!」


 自らの胸中から間欠泉のように勢いよく湧き出してきた感情に、佳穂自身が一番驚いていた。


 しかしその驚きを自覚してなお、佳穂の口から真理愛へ向けられる言葉は留まるところを知らない。


「ずっと一緒に音楽やって来たじゃんっ! 知ってるよっ! だってわたし、二人の近くで一番それを見てきたんだからっ! 二人が恋人同士になることって、とっても素敵なことだと思うんだよっ!」


 視界に映る夕暮れの街並みが、いつの間にか土砂降りに打たれた水彩画のようにじんわりと滲んでいく。遠くに見える看板も、いつのまにかぽつぽつと点灯しだした街灯も、今立っている道ですらもう佳穂の視界にはくっきりと映らない。


 しかし、だけどそんな世界ですら、親友の雨上がりの青空のような澄んだ表情だけは、佳穂の視界にやたらと鮮明に浮かび上がっていた。


「……そんなこと、分かってるよ」


 くっきりと、それでいてはっきりと。青ヶ峰のカナリアは、その異名とは真反対なほど単調に自らの親友に向けてそう零した。


「でも、もういいの。私はもう結弦君に沢山のものを貰ったから」


 そう言って笑う真理愛の横顔は、どこまでも綺麗で、可愛らしくて、愛おしくて……そして、あまりにも佳穂にとっては遠い場所にあるもののような気がした。


「……わたしには、分かんないよ」


 しかしその場所に行く方法を佳穂はまだ知らない。手を伸ばす方法も、足を踏み出す場所も、そして視線を向ける先だって分からない。


 だからこそ、佳穂はあまりにも遠いその距離に、一人孤独を感じていた。


「わたしには……真理ちゃんの気持ちが分かんないんだ……。ごめん、今日はもう一人で帰るね」


 こちらに背を向ける佳穂を、しかし真理愛はただ何も言わずに見つめていた。


 親友の胸中を聞いてなお、青ヶ峰のカナリアがその小さな胸に抱いた決意だけは変わらない。


「佳穂ちゃんっ!」


 きっと今の佳穂には何を言っても無駄だろう。そう悟るが故に、カナリアは親友に笑顔で告げるのだ。


「また明日ねっ!」


 彼女は今どんな顔をしているのだろう。暮れなずむ景色の中で、背中越しのその表情だけが真理愛にとってこの街で一番暗い場所にあった気がした。


「それでも……私はもう大丈夫なんだ」


 そう、それでももう、カナリアはただ空を見上げて泣くだけの少女ではない。

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