第75話 点と点は新たな道を描いて

 その日は案外すぐにやって来た。


 休日のファミレスはそこそこの賑わいを見せており、私服姿の若い男女で座席は埋め尽くされている。


 そんな座席の一番奥、ボックス席の陰に隠れるようにその少女は僅かに緊張した面持ちで僕ら二人を交互に見やる。


「そんなに緊張せずともよろしいのですよ」


 僕の隣に座る志津川さんがそう口にすると、少女はこれまた怯えるように小さくその肩を震わせた。


「え、えっと……私、なんでこの場に呼ばれたんでしょう?」


 彼女の疑問は当然だ。かたや先日偶然公園で出会っただけの男、そしてかたやつい最近のコンサートで出会ったお金持ちの年上の少女。


 彼女、赤凪真理愛あかなぎまりあが声を震わせながらこちらを見つめるのも当たり前のことであった。


「赤凪さんにお尋ねしたいことがあったのですよ」

「わ、私にですか!? でもでも、私が志津川さんに聞かれるようなことは……。だって先日のコンサートでご挨拶しただけですし……」


 それもそうだ。彼女からしたら志津川さんは自分のコンサートに足を運んでくれたいち客人でしかない。というかそもそもなんで彼女が赤凪さんの連絡先を知ってるんだ。


「あぁ、それは赤凪さんの歌声に感銘を受けた私が是非にとお声掛けしたんですっ!」


 僕の疑問に志津川さん意気揚々とそう答えてくれた。というかそれだけかよ。なんというか、最近志津川さんのアクティブさに更に磨きがかかっているような気がするな。


「そ、それで私に尋ねたいことってなんなのでしょうか……?」


 ボックス席の端っこに縮こまり、まるで借りてきた猫みたいになっている赤凪さんは恐る恐るといった様子で口を開く。


 さて、ようやく本題だ。聞きたいことはあるけれど、僕は目の前の謎を一体どんな風に解きほぐしていくべきなんだろうか。


仁科佳穂にしなかほちゃんは知ってるよね?」

「え、あ、はいっ」


 友人の名前が僕の口から出てきたせいだろうか、赤凪さんの表情から僅かばかりに緊張の色が消えた。


「実は僕、彼女からとあるお願いをされててさ」

「お願い……ですか?」


 僅かに震える声色が、未だ拭えない緊張とそこにちょっとだけ含まれる疑問の色を強調させる。


「そのお願いを聞くためには、どうしても赤凪さんの協力が必要でね」


 僕はそんな彼女を傷つけないように必死に言葉を選びながら、佳穂ちゃんから持ち込まれたお願いについて尋ねていく。


「佳穂ちゃんは……立花さんに何をお願いしたんでしょうか……?」


 ここまで勿体ぶると聞きたくなるのも当然だ。


 もちろん、今回に限っては僕は佳穂ちゃんのお願いを赤凪さんに隠すつもりはなかった。本来は僕の矜持に反する行為だけれど、こと今日に至ってはどうしても必要なことだ。


「わたしの友人の、最高のお別れを演出して欲しい」

「っ……!?」


 僕の言葉に赤凪さんは小さく肩を震わせた。


「それが佳穂ちゃんが僕に頼んだお願いだよ」

「そ、そうですか……っ」


 僕は見逃さなかった。


 先ほどの赤凪さんのリアクションが今までの緊張なんかじゃないことを。そして、それは隣の志津川さんも同じだったようだ。


「赤凪さんは中学をご卒業なされたら東京へと行かれるのですよね?」

「え、あ、あ、はい……」


 先ほどから隣でただ静かに山盛りポテトを摘まんでいた志津川さんが、僕の話を引き継ぐようにそう言葉をつづけた。


 三人で食べられるものをと注文していたはずだけど、いつの間にかテーブルに来たときよりもポテトの山が随分とこじんまりとしてしまっているのはきっと気のせいだろう。


「ご卒業まで半年ばかり。準備に早いという事はないとは思いますが、なんだか随分と尚早のような気がするのです」

「えっと、それは……」


 彼女の指摘に、赤凪さんが何やら言いたげに口を数度震わせる。


「大丈夫ですよ、私たちは桑倉学園ボランティア部。プライバシーは必ず守ります」


 赤凪さんの視線が僕と志津川さんの顔を何度か行き来する。その表情からは緊張は完全に消え去り、今その綺麗な顔を染め上げているのは何を口にすべきかという戸惑いの色だ。


 というか僕はさっきそのプライバシーを守れなかったばかりなんだけれど。


結弦ゆづる君……」


 たっぷりの余韻が場を支配した直後、赤凪さんはぽつりと一人の男の子の名前を呟いた。


「結弦君、ですか?」

 

 突然の人名に、オウム返しのように志津川さんがその名前を呼び返す。


「はい……きっと佳穂ちゃんは結弦君のことを言ってるんだと思います……」


 ようやく点と点が繋がった。


 先日志津川さんにこの件を相談した時に僕はとある推論に至った。佳穂ちゃんの言うお別れとは、赤凪さんと佳穂ちゃん以外の誰かのお別れを差しているのではないかと。


 その人物こそが、赤凪さんが口にした「結弦君」なのだろう。


「ちなみにその結弦君ってのがどんな人か聞いても?」

「結弦君は天才なんです。私なんかよりもずっとずっとずっと……」


 ぽつり、赤凪さんは机に視線を落としたまま、悲しそうに、それでいてどこか悔しそうにそう呟いた。


「天才……?」


 彼女の言葉に、志津川さんも小さく疑問の声を漏らす。


「彼が一つ鍵盤を叩くと、まるで世界が彼の音に支配されてしまったかのように感じるんです。会場中が……審査員が……そしてなにより、私が」


 そう呟いた赤凪さんの横顔は、僕もよく見覚えのある感情を浮かべていた。


「結弦君はピアニストなんです。ちっちゃい頃からいろんなコンクールで入賞してて……それこそ私なんかとは比べ物にならないぐらいに有名な賞も取ってて……」


 そんな天才が同じ市内に住んでいる事なんてちっとも僕は知らなかった。


「知ってますか、イギリスって遠いんですよ……」


 不意に赤凪さんは目の前の山盛りポテトを摘まみながらそう呟いた。


「……イギリス?」

「飛行機で約12時間。距離にして約9000と300キロ。遠いですよね……」


 彼女が何を言いたいのかぐらい、分からない僕ではなかった。


「結弦君はイギリスに行くんだね」

「はい、今よりももっと凄いピアニストになるために……留学をするのだそうです」

 

 なんというか、ようやく僕はこの一連の出来事のスタート地点に辿り着けたような気分がした。


「志津川さん、どうかした?」


 ふと隣を見ると、志津川さんがなにかを言いたげな顔でこちらを見つめているのが分かった。


「あぁ、いえ、なんでも」


 僕らのやりとりを見ていた赤凪さんはというと、ふと懐から取り出したスマホに視線を落とすとこちらに小さく頭を下げた。


「も、申し訳ありませんっ、実はこの後レッスンがありまして……」


 結弦君とやらを天才と称した赤凪さんだけど、僕から言わせればそんな彼女もきっと天才に違いないのだろう。


 そんな彼女の貴重な時間を奪ってしまうのは正直心苦しい。更なる進展が見込めない以上、彼女を引き留めてしまうのは良くないことに違いない。


「そっか、ごめんね、レッスン前の貴重な時間を使って来てもらったみたいで」

「い、いえっ、志津川さんにはコンサートに足を運んでいただきましたし、立花さんとはヘンなご縁がありましたので。そ、そのっ……」


 そう言いながら赤凪さんはポーチから財布を取り出した。


「それぐらいここは僕にカッコつけさせてよ」


 彼女の視線の先の伝票をさらりと奪うと、僕はそれを自分の手元に引き寄せる。


「……ごちそうさまですっ! えと、その、あの……わ、私は大丈夫ですからっ! ホントに、その、大丈夫です! それではっ!」


 そう言い残し、赤凪さんはファミレスの出口へと消えていった。


「ごちそうさまですっ、立花君」


 赤凪さんが消えた後、便乗するかのように志津川さんが僕へとそう呟いた。


「いや、まぁ、そりゃ志津川さんの分もここは僕が払うけどさ……」

「それで、どうするんですか?」

 

 卓上のメニュー表に手を伸ばしながら、志津川さんはぽつりとそう零す。


「佳穂ちゃんにもう一回話を聞いてみるよ。会いたい人も出来たしね」

「結弦君ですか?」

「うん」

「……私は必要ですか?」


 季節限定のハンバーグの欄を舐めるように見つめつつ、しかし志津川さんは僕から一切意識を切ることはない。


「まぁ、必要になったらまた、今日みたいにお願いするよ」

「さいですか」


 道が見えたと思ったら、その道はまたすぐに多方向へと分岐していく。僕の歩くこの道は、果たしてどこに続いているのだろう。


「というか……」


 いつの間にボタンを押したのだろうか。気付けば隣では志津川さんがウェイトレスのお姉さんに意気揚々と新しいメニューを注文していた。

 

「そもそも道中の駄賃が払えるのかなぁ」


 僕の呟きもどこ吹く風か。


 嬉しそうに和風ハンバーグの写真を指さす彼女を見ながら、僕はぼんやりと佳穂ちゃんの横顔を思い浮かべるのだった。

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