第70話 立花兄妹の団欒
九月も最初の平日ラッシュがようやく終わり、初めての金曜日の夜が我が立花家にも訪れていた。
「いつ
夕食を終えた僕がリビングで呑気にスマホを眺めていると、お風呂上がりの妹が僕の隣へと腰を下ろした。
「お前、またそんな恰好で……」
「いいじゃん、自宅なんだからさ」
雫梨の恰好は薄手のホットパンツにキャミソールだけという随分とラフな格好だ。
一応下着はつけてるらしいが、僕から見たらそんなものほとんど無いに近しい。なまじスタイルが良いだけになんというか、シンプルに目の毒だ。
実の妹に欲情なんてする訳が無いのだが、こんなのと同じクラスにぶち込まれる雫梨のクラスの男連中にはある種同情しかねない。
まぁ、それを言ったら僕も
「そういえばさ、私この前また見たよ」
ふと飲み物を取りに冷蔵庫へと向かっていた雫梨がそんな言葉を投げかけてくる。
「また見たって、何を?」
「ペンギンだよペンギン」
そう言いながら雫梨は並々と牛乳が注がれたコップを二つ、両手に持って戻ってくる。
「ん」
「ありがと」
片方のコップを受け取りながら僕は再びスマホへと目を戻す。が、ふと先日の一件を思い出し、興味本位で話の続きを聞いてみることにした。
「ペンギンってこの前水族館で言ってた?」
「うん、そう。よく覚えてるね」
「物覚えは志津川さんには敵わないけどね」
「なぁにを張り合ってんだか」
そう口にすると、我が妹は何とも言い難い視線を僕へと向けながらコップに残った牛乳を喉へと流し込んだ。
「で、ペンギンを見たって話だっけ?」
「うん、うちの近くの公園によく出るって話したじゃん?」
そんな都市伝説か妖怪みたいに言わなくても。
「それで、始業式の次の日だったっけかなぁ。帰り際にたまたま公園の前を通ったら居たの」
「話しかけたりしないのか?」
雫梨曰く可愛い子、とのことらしいじゃないか。美少女に目が無い節操無しとしては、ぜひともお近づきになっておきたいところなのでは無いだろうか。
「あー、まぁ、一人じゃなかったからね」
「友達が居たのか?」
「あれを友達と言っていいかは私じゃわかんないや」
そう言って雫梨は腰を下ろしていたソファにさらに深く座り込むと、そのままだらけた格好で我が家の近くも遠くもない平均的な高さの天井を仰いだ。
「……もしかしなくても男?」
「いつ
「褒められてる?」
「褒めてる褒めてる」
なるほどな、それが雫梨が口にするのを躊躇った理由か。
確かに我が妹としては可愛い後輩が青春を謳歌しようとしているところまでは邪魔をする気はないのだろう。
「彼氏だったのかな」
「分かんないや。私が見る限りだと、ちょうどあの子を迎えに来たところだったみたいだし」
なるほどね、流石に校門前から仲良く一緒にというのは年相応に恥ずかしかったのだろう。だから待ち合わせ場所を近くの公園に設定したと。
完全に、とは言い難いがこれならば大分周囲の目から離れることが出来るはずだ。まぁ、そんな現場をうちの妹は見てしまった訳なのだけれど。
「相変わらずでっかいペンギン持ってたなぁ……。デートの時もあれと一緒なのか。私が彼氏だったらちょっと嫌かも」
その点については僕はノーコメントだ。先日もそんな話をしたばかりだし。傍から見たら理解されない何かだって、その人からしたらまた立派な支えなのかもしれない。
「……そう言えば、僕も見たんだよな」
そんな話をしたあの子も、印象的な大きなペンギンを抱えていた。
たかがいち地方都市であるこの滝田の市内に、大きなペンギンを抱きかかえた美少女がそう何人もいるはずが無い。
それにあの子は確かに見覚えのある制服を身に着けていた。雫梨が彼女を見たという公園。その近くにある中学校の制服を。
「み、見たって何を!?」
雫梨が驚いたような声を上げ、僕へと言葉の続きを促してくる。
「だからペンギンだよペンギン」
「それって……本物のペンギンと見間違えたとかじゃないよね!?」
当たり前だろ。滝田の街中をペンギンがひょこひょこと歩いていたら今頃大ニュースになってるところだ。
「ぬいぐるみだよ。おっきなぬいぐるみ。そしてそれを持った女の子もね」
「本当に……?」
「ホントだよ」
僕の返答に、しかし雫梨の表情は優れない。
「なんか変なのか?」
「あぁいや、その子、あんまり他の場所には出没しないって聞いてたから……。いつ
「僕が見たのは駅の近くの公園だよ」
「カナリアってそんなところにもいるんだ……」
ぽつり呟いた雫梨の声がやたらと印象的だった。
「カナリア?」
「うん、カナリア。その子、まるで西洋のお姫様みたいな綺麗な見た目してたでしょ?」
全く持ってその通り。その後も彼女の特徴を並べてみると、すぐさま雫梨は「本人じゃん」と驚いていた。
「どうしてそこでカナリアが出てくるんだ?」
「その子のあだ名みたいなものだよ」
一般的に澄んだ美しい声でさえずると言われ、よく世界中で歌う鳥として知られているあのカナリアのことだろうか。
「うん、それで間違ってないよ。青ヶ峰のカナリア。それが彼女のあだ名なの」
青ヶ峰のカナリア。その言葉が想起させるのは、あの時僕の耳に届いた彼女の澄んだ歌声だった。
なるほど納得だ。心地の良い澄んだ歌声。まるで清水が川を流れていくがごとく僕の中に沁み込んできたそれが、彼女がその二つ名にいかに相応しい少女であるかという事を確かに告げていた。
「うちの合唱部に所属してるらしいんだけど、実はソロのコンサート活動なんかもやってるんだって」
「ってことはプロってことなのか?」
「うーん、詳しいことは私も知らないけど、きっとそうなんじゃないかな」
へぇ、僕はそんな凄い人物の歌声を生で聞くことが出来たのか。
「まぁ、いつ兄にはもう縁なんてないだろうけどね」
「自分にはあるみたいな言い草だな」
「だってほら、私は同じ学校みたいなもんだし」
「いや、敷地も学年も何もかもが違うだろ」
そんな話をしていると、ふと僕はとある少女のことを思い出した。
「佳穂ちゃんは知ってるのかな」
「カナリアちゃんのこと?」
そう言いながら雫梨がその場に立ち上がる。空になったコップを持っているところを見るとキッチンにでも向かうのだろう。
僕は自分の分のコップを雫梨へと手渡しながら、彼女の問いに小さく「うん」と答えた。
「そりゃまぁ……同じ中学校だし、知ってても当然じゃないかな?」
「そっか、そりゃそうだよね」
「有名人って奴か」
きっと赤凪さんは青ヶ峰高校付属中学の志津川さんみたいな存在なんだろう。この世界のどこかにいるちょっと特別な女の子。でも、その蓋を開けてみれば彼女もまたどこにでもいる等身大の女の子だったりするんだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら僕はすくりとその場を立ち上がった。
空になったコップを片手にいそいそとキッチンへと向かう。そしてすれ違いざま、何か言いたげな顔でにまにまと頬を緩ませる我が妹へ告げるのである。
「いや、コップぐらい持ってってくれてもいいじゃんっ!」
「アハハ! 良いツッコミありがとー!」
恐らく自室へと向かうのだろう。リビングの扉から廊下へと消えていく雫梨の背中に、僕は恨みを込めた視線を送り付ける。
「いつ兄」
ふと、僕と妹の間に隔たろうとした扉が動きを止め、その向こうで雫梨がこちらに振り向いた。
「どうかした?」
何か言いたげなその視線に、思わず僕も瞳を逸らせずにいる。
「……いつ兄はさ、今、幸せ?」
妹が何を言いたいのか僕にはわからなかった。どう答えたものか迷ったけれど、不安げな顔をする妹を心配させまいとどうにか「それなりにね」とだけはすぐさま口にする。
「……そっか」
そう呟いた雫梨の表情はもう既に扉の向こうへと消えていた。
結局彼女が僕に何を尋ねたかったのかてんで見当がつかない。しかしなんとなく尋ねられたその一言が、僕の心にちくりと小さく突き刺さったのだけは言うまでもない事実だ。
幸せ。
これまで出会ってきた美少女たちが手を伸ばそうとしてきたそれは、僕の中では一体どんな形をしているのだろう。
考えてもいまいちピンと来ない。それがどうにも歯がゆくて、この腹立たしさを消し去るために、僕はもう一度だけ冷蔵庫の牛乳を今度はパックごと勢いよく胃に流し込むのであった。
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