第58話 果ては未だ見えずとも
千歳川の河川敷から自転車で15分。
その場所は、相も変わらず周囲を木々に囲まれてどこか物悲しい雰囲気を纏っていた。
夏場の太陽はまだまだ沈むには程遠い。時刻は4時を軽く回ったところだというのに、少し開けたその場所では周りの木々は僕らへの日差しを遮ってはくれないらしい。
「鳴海さん……」
「久しぶりだね、立花君」
僕が彼女の名前を呼んだ時、鳴海さんはお決まりの倒木に腰を下ろして手元のデジカメに意識を向けていた。
滝田の北に位置する森の一角。間伐のために伐採された木々が一時保管される山の斜面。そここそが、空を忘れた天才少女
「久しぶりって……この前会ったばかりでしょ?」
彼女の「依頼」を受けて数日。まだ僕の鼻の奥には森沢の潮風の香りが漂っているような気がしている。
「私にとっては、久しぶりだよ」
そう言って彼女は夏の日差しで乾いた唇を、ぺろりとその舌で濡らして見せた。
瞬間、僕の脳裏にフラッシュバックするのはあの日、森沢で彼女と別れる寸前での光景だった。
「え、あ、あぁ……うん」
なぜあの時鳴海さんがあんな行動を僕に対してとったのか。僕は彼女の意図が未だにどこにあるのか分からずじまいでいた。
「今日もいつもの観測?」
彼女との会話をどう進めていけばいいのか分からなくなり、仕方なく僕は手近の話題に食いつくことにする。
「まぁね。綺麗な空が撮れたんだ」
鳴海さんがこちらに向けてくるデジカメの画面には、街を見下ろすように撮影された滝田の街並みが映り込んでいる。
「半分は街じゃん」
「それでいいの」
僕のツッコミもどこ吹く風か。撮影した写真に満足そうに一つ鼻を鳴らすと、鳴海さんは私物の鞄へとデジカメをしまい込んだ。
「それよりも」
ふと、鳴海さんは彼女が座っている倒木の幹をその細腕でトントンと叩いて見せた。
「隣に来いってこと?」
「察しがいい男の子は好きだよ」
「そのセリフ……」
彼女がいま口にした言葉は、僕が二度目に鳴海さんとここで話したときに彼女が放った言葉だった。
「覚えてたんだ」
「可愛い子に揶揄われるのは印象的なものだからね」
反撃とばかりにそう口にすると、鳴海さんは嬉しそうに小さくその口元を緩めた。
「それじゃあ、次に立花君が言うべき台詞も覚えてるんじゃない?」
志津川さん程じゃないけれど、僕だって物覚えには自信があった。
誘われるまま鳴海さんの隣に腰を下ろすと、僕は先ほどまで銀色の未確認飛行物体が飛んでいたはずの場所へと視線を移す。
「都合のいい、の間違いじゃない?」
「……よくできました」
そう言って笑う鳴海さんは、以前この場所で先ほどの台詞を僕が口にしたときの何倍も、どこか不思議な儚さを備えているように思えた。
「僕は都合のいい男かなぁ……」
あまりの言い分に少し寂しく思えてしまう。が、そんな僕を励ますかのように不意に隣の鳴海さんの頭が僕の方へと乗せられた。
「来て欲しいなって思った時に来てくれる男の子って素敵じゃない?」
「……鳴海さんはそう思ってたの?」
「割り切れたと自分で思っていたとしても、そうじゃないことっていっぱいあるじゃん」
身じろぐように小さく首を傾げるものだから、鳴海さんの綺麗な髪が僕の頬に触れてくすぐったかった。
離れてしまおうかとも思ったけれど、志津川さん曰く僕はこんな時に女の子を振りほどいてしまうような甲斐性無しではいちゃいけないらしい。
「都合のいいなんて悪い言葉のように聞こえるけどさ、少なくとも、今の私にとってはそんな時に来てくれた立花君はありがたい存在だよ」
彼女が小さく呼吸をするのが触れた肩を通じて僕の体にも伝わっていく。
身動き一つとれない状況にどうしたものかと視線を巡らすと、ふと僕は彼女の荷物の傍らにとあるものがあるのが眼に入った。
「……スケッチブック」
「目ざといねぇ、君って奴は」
僕の呟きが届いたのか、照れくさそうに一つ頭を掻いた鳴海さんはそのスケッチブックへと手を伸ばした。
それをきっかけに彼女の頭が僕の体から離れていく。少し惜しいことをした気もするけれど、生憎と僕はそんなことをしにこの場所に来た訳じゃない。
僕はどうしても鳴海さんに尋ねなければならないことがあったのだ。
「絵は捨てたんじゃなかったの?」
僕の問いかけへの返答とばかりに、鳴海さんはパラパラとスケッチブックのページを捲っていった。
「……やっぱり拾うことにした」
ぴたり、彼女の指がスケッチブックのとあるページで留まる。
「私がたくさんの荷物を抱えて歩けなかったのは、私がまだ弱かったから」
「今は違うの?」
「うん。どこかの誰かさんが変えてくれたからね」
その声色は、からかいと喜びが混じったどこか不思議な色をしていた。
「だから全部抱えていく」
「大丈夫なの?」
答えなんて分かってる癖にそんな問いかけをしてしまう自分がバカらしい。
決まってるじゃないか。だってスケッチブックを抱えて微笑む鳴海さんは、こんなにも夏空の下で綺麗なのだから。
「もちろん。立花君には悪いけど、私は仁科君を好きで居続けるよ」
「……そこでどうして僕の名前が出るんだよ」
「ふふっ、どうしてだろうね」
夏の太陽は日が長い。だけど夕暮れへと向かうその影が確かに鳴海さんの身長を少しずつ伸ばしていく。
その光景が、いつか時が止まってしまっていた
「私の恋は決して叶うことはない」
実らなかった想いがある。だけど一度抱いた感情は神様だって拭えない。
肝心なのはその想いとどうやって向き合っていくのか。
いつか僕が恋した『負けヒロイン』は心の強い人だった。かつて抱いたその想いとお別れをして、新たな道を歩くことを選んだ。
「でもね――私は私が感じた全てのことを、無かったことにはしたくない」
そして今、僕がまた恋をした『負けヒロイン』は、その想いと共に歩いていくことを選ぶ。
「だからもし私がまた不安になったら」
「不安になったら?」
夏風が僕らの間を吹き抜けていく。
「その時は、必ず私に寄り添ってね」
「……善処するよ」
黒い真珠のような艶やかな髪が柔らかく風にあおられて靡いていた。
夏空に負けないくらいに眩しく輝くその笑顔に、僕は思わず目を奪われそうになってしまう。
あぁ、綺麗だ。
鳴海さんの抱くその空にはやっぱり笑顔がよく似合う。
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